第8話 鳴り砂の海岸で

——2002年6月29日 13:00 



 聡が玄関の鍵をかける頃、見慣れた軽自動車がアパートの敷地に入ってきた。


 マドカは約束通りの時間にやってきた。

 助席に乗ると、マウントレーニアのカフェラテを差し出してくれた。


「わたし好きなの。」

 

「ありがとうございます、僕も好きです。

——今日は行き先決めてるんですか。」

 

「そうねぇ、琴ヶ浜へ行ってみようか。」


 先日見た大人っぽい雰囲気のメイクとワンピース姿とは一転、この日のマドカはジーンズとスニーカーに薄手のナイロンパーカーを合わせたカジュアルな格好でやってきた。

 

 むろん運転しやすい服装であることは聡も承知していたが、顔も知らない男性に対し、嫉妬心が残る。


 マドカの車は国道9号へ出ると、東へと向かった。


「明日どっちが勝ちますかねぇ。」


「えっと…サッカー?ごめん、わたしあんまり詳しくなくて。

 あっ、でも、ベッカムくらいはわかるよ。あれ?髪切った?よく見たらちょっと髪型意識してない?アハハ。」


「あの…ちょっと馬鹿にしてます?」


「してない、してない、ハハハ。」


 ワールドカップの話題なら誰でも通じると思っていた聡だったが、マドカの反応を見てすぐに話題を変えた。

 

「そうだ、この夏に免許取りたいと思います。」


「おっ!大人の入り口だな。まあ大森くんなら器用だからすぐ取れるでしょ。」


 前夜の雷雨が嘘のように晴れ渡っている。


 ごうの川の河口に掛かる橋を渡る時、聡の座る助席側から、微妙に色合いの異なる空の青と、海の青とが接合する水平線が見えた。

 工場の煙突から立ち上る煙が雲とともに緩やかな風にのんびりと押されている。

 

「まだ梅雨明けには早いですよね。」

 

 車内のオーディオからは浜崎あゆみや宇多田ヒカルなど、女性アーティストのナンバーが次々と流れる。

 

「これ、切ない歌詞ですけど、いい曲ですね。」

 

 それはEvery Little Thing の I'll get over you という失恋ソングだと教えてもらった。


 週末にしては車も少なく快調に進んだ。途中2両編成の列車と並走したが、あまり乗客は乗っていないように見えた。


 聡のアパートを出て1時間くらい経った頃、4つ連続したトンネルを抜けた先で車は左折し、広い国道とは一転、狭い道を海岸に向かってゆっくり下っていった。


 黒や褐色の民家の屋根瓦の先に水平線が広がる。小さな踏切を超えてから、さらに細い路地を抜けていく。

 離合が困難な狭さだったが、幸いにも対向車は来なかった。


 途中、手押し車を頼りに、腰の曲がったお婆さんが道のを歩いていたが、すぐに車に気づいて避けてくれた。追い越し際にマドカがお辞儀をすると、お婆さんがにっこりと笑った。


 さらに数百メートル進んだ先に15台ほど駐車できる駐車場があり、まどかは係員に300円支払うと「どこにしよっかな」と独り言のように呟き、海を正面に前進駐車場で車を停めた。


 まだ海水浴のシーズンではなかったので、他の車はなく、黒光りするハーレーの脇でライダー3人が缶コーヒーやタバコなど其々の嗜好品を片手に談笑しているだけだった。


「初めて来ました。めちゃくちゃ綺麗なとこですね。」

 

「でしょでしょ。駐車場空いててよかったね。天気もいいからちょっぴり心配してた。」


 少し運転に疲れたというような素振りで、まどかは狭い車内で伸びをした。

 

「大森くんわたしね、今の仕事辞めることにしたの。」

 

 ——唐突なマドカの言葉に、聡は目の前の海から視線を逸らすと、彼女の方を見た。

 窓の外からライダーたちの笑い声が聞こえる。

 

「え…と、結婚でもするんですか。」

 

「違う違う、まず相手探してきてよ。」

 

「相手?いや、てっきりこの前男の人と店に来てたから。」


「ん?」


「…。」

 

「アハハ、やぁね、見られてたの?恥ずかしい。

 あの人ね、うちの店によく来る常連さんなのよ。食事行こうって、しつこいんだから。」

 

「なんだ、そうだったんですね。てっきり彼氏さんかと。」

 

「ないない、そもそもわたしのタイプじゃないし。それに本命なら職場に連れて来たりしないって。」


「それも…そうか。でも、どうしてまた急に?今後はどうするんです?」

 

「ほら、今の職場って大森くんのように若い子らが多いじゃない?

 仲良くなっても長くて4年で卒業していっちゃう。そしてまた未来ある1年生が入ってくる…その繰り返し。

 一方の私はどんどん歳をとっていっちゃうだけ。そう思うとなんか怖くなって。

 大学生の皆んなから刺激を受けて、まだ自分に意欲があるうちに音楽に携わる仕事にチャレンジしようって。夏に大阪に引っ越して、音楽教室の運営会社に勤めることになったの。」

 

「そんな…夏に引っ越すって。もうあと僅かじゃないですか。」

 

「ふふ、寂しくなった?」


 マドカは俯く聡に顔を近づけ、彼の顔を覗き込んだ。


「会社からは夏休みの繁忙シーズン終わるまで残って欲しいって言われたけど、最後に我儘聞いてもらって7月末で退社する予定。

 ちょっと砂浜歩いてみようか。」


 聡とマドカは波打ち際まで砂浜を歩いた。


「鳴り砂って聞いたことあったんですけど、踏んでも鳴らないですね。」

 

「こうやって擦るように歩くと鳴るみたいなんだけど…やっぱり長雨で水分含んでるんだね。」

 

「あっ、乾いてないとダメなんですか。残念、こんな晴れてるのに。」

 

「わたしね、子供の頃から何度かここに来てるんだけど、一度も鳴ったことないの。そんなに難しい条件じゃないと思うんだけど…。

 こういうのも巡り合わせっていうか、繰り返しっていうか。人によっては日を変えても季節を変えてもさ、結局思い通りいかない。

 きっと何事も同じなんだろうね。」

 

「そんな…深く考え過ぎですよ。」


「えへ、そうかな。」



また今度一緒に来よう―—


そう言いかけて聡は自重した。


 マドカは漂着した空き缶を拾い上げると「見て見て」と言いながら、それに書かれたハングル文字を聡に見せ無邪気に笑った。

 


 一旦波打ち際まで歩いた二人は駐車場の方向へ引き返し、低い防波堤に腰を下ろした。


 マドカがポーチからタバコを取り出す。


 メンソールの外国タバコを咥えると、100円ライターで火をつけ、海に向かって息を吐いた。

 聡はマドカが愛煙家であることは富子から聞いたことがあったが、目の前で吸っている姿を初めて見た。


 ライダーたちがハーレーの重低音を響かせながら去っていくと、左右2キロメートルに及ぶ椀状の白い砂浜に、ザザーっと白波が押し寄せる音だけが残った。



「タバコ…やめた方がいいよ。」


聡がマドカの横顔を見つめ呟く。



——時間にして、ほんの5秒か6秒くらいだろうか。

 しかし、聡にもマドカにも、二人の間の時が、完全に停止したような長い沈黙に思えた。

 

 それからいつになく真剣な顔でマドカが応えた。


「なんで大森くんが私にそんなこというの?

 何?彼氏気取り?」


そういうと「アハハハハッ!」と破顔させた。



 マドカはポーチから携帯灰皿を取り出すと、さっき火をつけたばかりの長いタバコをその中にしまった。




=FIN=

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鳴り砂 Aki Takanawa @akitakanawa

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