第7話 メランコリー

——2002年6月28日 12:10



 この年の梅雨は山陰地方にも長期に渡り本降りの雨をもたらした。

 裕幸たちと日本代表を応援した日、そう、マドカのデートを目撃した日から10日間、まともな晴れ間はなかった。


 バイクが移動手段の聡にとって雨はこの上なく鬱陶しく、乾かす間もないまま使い続けたレインウェアがカビ臭くなり、彼の苛立ちを増幅させた。

 

 「大森さん、バランスオブパワー、これを日本語で表現するとどうかしら?」


 講義室の窓に垂れる雨を見ていた聡に、女性教授の小野が声をかけた。口調は優しかったが、メガネの奥の目は鋭い。

 彼女の専門は国際政治だ。同時多発テロの発生以降、朝鮮半島の情勢も含め、メディアに出演する機会が増え、島根と東京を行ったり来たりの生活をしていた。


「えっと…すみません、ちょっと分かりません。」


「宮浦さんはどう?」


「はい、勢力均衡だと思います。」


「そうね、その通り。突出した脅威を生まないための国際秩序のモデルよね。

 今日はここまでにしましょう。続きはまた来週。

 皆さんも明後日の決勝は観るのかしら。どちらが勝つかしらね。」



 講義室を出たところで宮浦麻里が待っていた。

 177センチの聡に対して彼女は158センチと小柄だ。ジーンズにTシャツというカジュアルな格好だった。


「珍しい。小野先生の授業は熱心に予習してたはずなのに。」


「はは、何だか気分的に…天気のせいかな。そろそろ免許でも取ろうかなぁとか考えてた。」


「そうなんだ。免許はなるべく早い方が良いと思う。私も去年のうちに取っといてよかったと思ってる。男性諸君はやっぱりミッションなの?私はオートマだけど。」

 

「もちろんミッションでしょ。いいな、俺も1年のうちに取っておきたかったわ。」

 

「受講のお金はどうするの?」

 

「最後に父親に甘えさせてもらおうと思って…。」

 

「免許取るだけで30万円くらい掛かるもんね。」

 

「速攻免許取って夏休みはバイト頑張るわ。お金貯めて中古の軽自動車でも買おうと思って。もうこんな天気でバイクは辛いわ。」

 

「なんか車乗るって大人って感じだね。私は当分スクーターでいいわ。

 ところでお昼はどうする?わたし学食行くけど一緒にどう?」


「ごめん、今日は久々にバイト先で食べようと思って。ここんとこさ、ずっと学食だったから飽きちゃって。」


「そっか、じゃあまたね。」


 麻里は長崎県の出身で教員を目指していた。裕幸と共に同じゼミに所属している。

 麻里の母親の故郷が広島県の山里にあり、島根県との県境も近かったことから両親も安心して一人娘を遠く離れた大学へ送り出してくれた。麻里も幼い頃、両親と祖父母に連れて行ってもらった芸北のスキー場の記憶が残っていた。


 梅雨時期の学生食堂は、雨で構内に足止めされた学生たちでいつになく賑やかだった。


 雑踏の中で聡に気づいた裕幸ら友人たちが「おーい」と手を挙げた。

 手招きされたようにも見えたが、聡は「ごめん、先急ぐから」というようなジェスチャーを送ると勇足いさみあしで駐輪場へ向かった。


 大学からファミレスまでは、バイパスの側道を通れば10分も掛からない距離だが、打ちつける雨で普段よりも長い道のりに思えた。


 びしょびしょになったレインウェアをスクーターのシート下にある収納へ詰め込むと、傘を持たず店舗正面の自動ドアへ走った。


 入店すると、パート従業員の新見仁美が出迎えてくれた。彼女はここでの仕事を始めてまだ間もなかった。


 雨のなかやってきたことに驚いた様子で、彼女と簡単な会話を交わすと、窓際のテーブル席へ案内され、聡は日替わりランチをオーダーした。

 

 昼のピークタイムを終えたばかりで客足は落ち着いていたが、まだ食器が残ったままのテーブルがあちこちで目についた。

 

 金曜日のランチタイム―—

 この日マドカが出勤しないことは予めシフト表で確認していた。


 そのとき、聡のバックの中からメールの受信音が聞こえた。

 

 マドカからだった。


<シフト表見たぞ。明日はバイトお休みでしょ。もしかしてデートの予定でもある?暇ならお姉さんのドライブに付き合いたまえ>


 10日間ヤキモキと過ごした聡の気持ちなど知らないマドカの誘いは、嬉しさと共に複雑な嫉妬心をもたらした。


 聡は、その気持ちを外に吐き出したくなった。

 一瞬裕幸の顔が浮かんだが、なぜか麻里に対し、<彼氏持ちの女性にドライブに誘われ、複雑な気持ち>という主旨のメールを送ってしまった。


 ちょうどメールの送信を終えた時、「お待たせしました」と仁美が日替わりランチを配膳してきた。

 プレートの上にハンバーグとクリームコロッケが載っている。仁美はとても愛想が良かった。

 仁美とはシフトの入れ替わりにバックヤードで顔を合わす程度だった。

 ある時の彼女は、アルバローザのTシャツを着ていて、富子に対し、茶色にカラーリングしたミディアムヘアーについて、神戸巻きだとか名古屋巻きだとか、身振り手振り説明をしていた。

 見た目はギャルだが、年齢はマドカと同じで、4歳になる娘もいた。


「髪切ったんですね。」


 聡はなんだか気恥ずかしかった。


「そうなんです、せっかくセットしてもこの雨とバイクのヘルメットでぐちゃぐちゃですけど。」


「そんなことないです、爽やかでいいですよ。」


「ありがとうございます。ピークは忙しかったみたいですね。」


「まだ私が要領悪くって。あっ、ライスはこっそり大盛りにしてます。」


 そういうと仁美は笑いながらデシャップへ引き上げていった。

 空腹は頂点で、あっという間にハンバーグもクリームコロッケも平らげてしまった。

 その様子に気づいた仁美が再びやってきた。


「店長からのサービスです。」


 食器と引き換えにテーブルの上にジンジャーエールが入ったグラスとストローを置いてくれた。


「あっ、ありがとうございます。」


 聡はキョロキョロと店長の姿を探したが見当たらなかったので、代わりに仁美に丁寧にお礼を伝えた。

 袋から取り出したストローを差すと、涼しさを感じさせる氷の音と共にシュワシュワと炭酸が弾ける音がした。


「ごゆっくり。」


 そういうと仁美はまだ片付けの終わっていない他にテーブルに去っていった。


 程なく聡の携帯に麻里からの返信メールが届いた。


<それで…私に何て言って欲しいの?>


 そっけない麻里からの返事は、少なからず聡が望んでいたものではなかった。


 聡は目の前のジンジャーエールを一気に飲み干すと、込み上げてきたゲップに顔をしかめた。


 そして、深呼吸をしたのち、マドカに一言だけ<喜んで!>と返事をした。

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