第6話 オレンジ

——2002年6月18日 18:55



「ヤバいヤバい、遅刻する!」

 

 聡が慌ただしくファミレスのバックヤードへ入ったのは、シフト交代の5分前だった。余裕をもって裕幸の部屋を出るつもりが、思いのほか遅くなってしまった。


 急いで白いコックコートに着替え、慣れた手つきでオレンジのネッカチーフを巻き終えると更衣室から厨房へと向かう。

 富子が待っていた。

 

「おはようございます。」

 

「おはよ。珍しくギリギリ。勉強しとったんね?」

 

「すみません、友達とワールドカップ観てて。」

 

「あぁ、日本は残念だったわねぇ。

 来て早々に悪いけど、もんちゃんナポリとカルボお願い出来る?」

 

「了解」

 

 この日は平日、外はどんより曇り空。自慢の夕焼けも期待できず、客入りもそう多くはなかった。息の合ったコンビで一通りオーダーを作り終えると富子が声をかけてきた。


「はぁ、あんた今年の夏は実家帰るんね?」


「いやいや、しっかりバイトしますから安心してください。僕がいないと不安でしょ。」


 一年前、初めての夏休みを迎えたときも、そして半年前の年末年始を迎えたときも、同じことを聞かれ、同じような返答をした。


「馬鹿言いんさんな。余計な心配せず帰ってあげんさい。お父さんもお母さんも寂しがるやろう。」


 時折富子から母親についての話題を振られることがあったが、彼女に悪気はなかった。

 なぜなら聡は富子に母が重病であることは話していなかったからだ。


 富子に限らない。裕幸をはじめとする友人に対しても、この地でわざわざ自分から身の上話をする気にはなれなかった。


 そんなやり取りをするうち、富子が客席の珍客に気付き何やら愉しそうな笑みを浮かべた。

 

「まぁ!!伴ちゃんが男連れてきとるわ!」

 

 富子の思わぬ一言に聡は動揺し、彼女の視線と同じ方向へ目をやった。


 客もまばらなフロアの窓際席に、薄いオレンジのワンピースを着たマドカが見える。

 いつもは制服を着て忙しく働いているフロアに、今日は客としてやってきたのだ。


 真っ赤なルージュが色っぽく、聡にはそれがまるで他を寄せ付けないオーラのように感じられ、そこだけ切り取られた大人の空間に思えた。


 テーブルを挟んで黒いスーツを纏った男性が座っている。聡の位置から男性の顔はよく見えなかった。


「オーダーお願いします!」


 フロアスタッフの声と共に厨房に置かれた機械が「ピピッ」と反応し、オーダー用紙が流れてきた。おそらくロール紙の残りが少ないのだろう、シートの片端にピンクのラインが入っていた。


「もんちゃんいい?エビテキね。それからレンソウ、タラコのレディース。」


「——はいよ。」


 聡はカットステーキ4切れを鉄板の上に乗せると、180度反転してコンロにアルミのフライパンを乗せ熱し始めた。


 一方、富子はフライヤーにエビフライ2本とポテトを一掴みを投入すると、今度は冷蔵庫から小分けされたパスタを取り出して湯煎機にかけた。

 パスタは一度茹でられており、湯に潜らせるとすぐに取り出して、まるでラーメン屋のように勢いよく水切りをし、ボウルへ移した。


 それらはマドカたちのオーダーだった。


 富子が読み上げたのは「エビフライとテキサスビーフのカットステーキ」「ほうれん草のソテー」「たらこパスタのハーフサイズ」だ。


 聡はカットステーキの火の入りに気を配りながら、フライパンにオリーブオイルを流し、バターを一切れ加えた。


 じわじわとバターが溶け始めると、コンロ下の冷蔵庫からステンレストレーを取り出して、その中に入ってたボイル済みのほうれん草をフライパンへ移した。


 肉に適度な火が通る頃、「ピー、ピー」とタイマーの音が鳴り、こんがり小麦色をしたエビフライとポテトがフライヤーから上がってきた。


 富子が、専用のオーブンで熱せらた鉄板皿を慣れた手付きで木台に乗せると、薄く油を引き、スライスオニオン、コーン、ポテト、エビフライ、カットステーキの順で流れるように盛り付けていった。


 聡も塩胡椒でほうれん草の味を整えると、プレート皿に薄く平に盛り付けた。


 「エビテキとレンソウあがるよー!タラコもすぐに。」


 富子が威勢よくホールスタッフに呼びかけた。


 聡がライスをよそう間に、富子はボウルの中で粗熱を失ったパスタをタラコソースで和えると、パスタ皿に盛り付け、青じそと刻み海苔を乗せてディッシュアップへ差し出した。


「あれ、伴ちゃんの彼氏かね?今度聞いてみないとね。」

 

「そうですね。まぁ彼氏さんいても別に驚かないですよね。」

 

「そりゃあんた!伴ちゃんほどの年頃のべっぴんを世の中の男が放っておくもんかい!」

 

 会話が弾んでいるのだろう、時折マドカがお腹を抱えながら笑う姿が見えた。


「なにあんた、伴ちゃん気になるんね?」


「いやいや、何言ってるですか、もう!」


「ささ、もんちゃん、あんた背が高いからちょっと換気扇掃除してくれる?今日はお客さん少なそうだし、普段できないところ綺麗にしておきたいの。」

 

 富子の予想通りこの日はピークらしいピークもなく、聡の作業ははかどった。

 鉄板、コンロ、湯煎機、フライヤー、其々の換気扇フィルターは久々に油汚れから解放され、くすみの無い本来のステンレスの色を取り戻した。


 いつのまにか客席にまどかの姿は無くなっていた。

 シフトを終え、更衣室に戻ると聡は携帯を手に取った。裕幸からのメールがあった。

 

<韓国とイタリアの展開やべぇ!サトシも早く帰って観るべし>

 

 バックヤードから外へ出て駐輪場へ向かう。

 まどかはさっきの男性と今頃何をしているのだろう—

 空を見上げる。どんより暗く星は見えない。


 聡は裕幸のメールに返信することなく、原付バイクのエンジンをかけ、自分の部屋へと急いだ。

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