第5話 化粧

 マドカが指定した神社までやって来た頃には時計の針が21時を指していた。


 国道を右折し、駅まで真っ直ぐに伸びる道路を指示通り進むと、左手に2階建てのアパートがあり、女性が立っているのが見えた。

 

 薄黄色のパーカーにグレーのスウェットパンツという寛ぎスタイル。足下は裸足にハローキティのサンダルだった。


 マドカは寒そうに腕を組み、聡の姿を確認すると、右手をひょいと上げ180度向きを変えた。

 言葉は発さなかったが、背中に「大きな声を出さずついてきて」と書いてあるように見えた。


 聡は原付バイクのエンジンを止め、手押しでマドカと一定の距離を保ちながらアパートの敷地内を進んだ。


 駐輪場が見当たらなかったが、マドカの軽自動車の背後にちょうどスペースがあった為、そこへ停めさせてもらった。

 アパートは田んぼに囲まれていて、無人駅まで伸びる県道は暗く、建物の外壁に点いた幾つかの照明だけが明るかった。


 外階段を上がりきったマドカに視線を移すと、「早くおいで」と手招きされた。

 1階と2階にそれぞれ6戸ずつある1棟のアパートで、マドカは角部屋のドアを開けた。


「寒かったでしょ、入って。」

 

 半帖ほどの土間に白いスニーカーと黒のヒールが一足ずつ並んでいる。左側にミニキッチンがあり、右側に洗面化粧台が見えた。

 見る限りまだ築年数は浅い。


 ふと、マドカに視線をやる。

 

「目力ないからあまり見ないで。」

 

 メイクを落とした彼女が少し恥ずかしそうに笑う。

 

「そんなに変わらないですよ。」


 他に気の利いた言葉が見つからなかったが、少し幼い印象の彼女のすっぴんに、聡の心拍数が幾分か上がった。


「またまたぁ。お茶入れるから座ってて。」

 

 奥の洋間に案内される。8帖くらいだろうか、驚くほどに家財がなく、殺風景な部屋は広く感じた。


 キッチンにいるマドカの声がアクリルの引き戸越しに聞こえてくる。

 

「狭いけどお姉ちゃんと二人で住んでるの。今日は実家に泊まって帰るっていうもんだから。夕飯の材料買った後に言うんだもん。早く言って欲しいよね、全く。一人分だけ作るのって案外難しいのよ。

 だから…せっかく腹ペコな学生くんにご馳走してやろうかと思ったのに。電話出ないんんだから。」

 

「いやいや、すぐ折り返したじゃないですか。」

 

「ふふ。やっぱ急だと迷惑かなって思って。」

 

「あ、伴さんでもそういう気遣いするんですね。」

 

「ちょっとぉ。私のこと一体何だと思ってるの。」

 

「ハハハ」

 

 笑いながら両手にマグカップを持ったマドカがやってきた。

 

「結局作りすぎちゃって。いっぱい食べちゃった。また太るなぁ。」

 

「伴さんも一応そういうこと気にするんですね。」

 

「カッチーン!頭キタァ!ぶっ飛ばすぞ。」

 

「ハハハハ。」


「そうだ、コレ、さっき買ってみたんですけど、よかったら。」


「あら!何かしら、ありがとう。」

 

レモンティーを飲みながら二人は普段職場では交わさない話題で談笑した。


 マドカと歳が二つ離れた姉は地元の高齢者施設で介護の仕事に携わっていること。


 アパートの契約名義は姉で、マドカが転がり込む形で居候していること。


 姉は夜勤を伴うシフト制で不規則な生活をしていること。


 食事は主にマドカが用意し、洗濯と掃除を姉が担当していること——

 

 時間の経過は早く、ミッキーマウスの壁掛け時計が日付の変更を知らせた。

 彼女は立ち上がると、聡の後方で折りたたまれていた布団へと歩みより、掛け布団を手にとると鼻に近づけクンクン匂いを嗅いだ。


「うん…大丈夫かな…。大森くん、私の布団使って。私はあっちのお姉ちゃんの布団で寝るから。」

 

 マドカは飲み終えたマグカップを片付け、ローテーブルを部屋の隅に追いやると、先に洗面所を使っていいか尋ねた後、歯磨きを始めた。

 歯ブラシを咥えたままモゴモゴと何か言っている。

 どうやら、<タオルと新品の歯ブラシ出したから使ってちょうだい>というような内容だった。

 

 2人は淡々と寝支度を済ませると、聡はマドカに言われるまま彼女の布団に潜った。パジャマなどの着替えは持ち合わせていないので、ジーンズからベルトだけ外した。

 一方、マドカは姉の布団で横になる。


 8畳間に二人きり、普段彼女が使っている布団の中。



「ねえ、大森くん——」


「はい……」


「わたしね——」


「ん……?」



 運転で冷え切った手先に温もりを取り戻したと思った途端、聡は自分でも信じられないほどの睡魔に襲われた。



「——ふふふ、おやすみ。」







——気付いた時には朝だった。


「おはよ。寒くなかった?眠れた?」


 上半身を起こす。マドカが使った姉の布団は部屋の隅で綺麗に折り畳まれている。寝る前に追いやられていたローテーブルは部屋の中心にポジションを戻し、そこには卓上ミラーに自分の顔を写したマドカの姿があった。


 聡は目の前で女性がメイクをしているところを始めて見た。

 

「ごめんなさい、昨日すぐ寝ちゃって。何か話の途中だったような…」


「ううん、大丈夫。もうちょい待ってね。終わったら朝ごはん出すから。」


 静かな部屋に化粧品の香りが優しく漂う。

 メイク道具を手際よくポーチに片付けたマドカは立ち上がるとキッチンに向かう。

 

「コーヒーの砂糖とミルクは?」

 

「ミルクだけお願いします。」

 

 さっきまでの化粧品の香りはどこかへ消え、コーヒーとトーストの匂いに満たされると聡は自分の空腹に気付いた。

 

「うーん、さすがに大森くんはサラダだけじゃ足りないよね。」

 

 独り言を呟いた彼女は、冷蔵庫から弁当用の冷凍唐揚げを取り出すと皿へ3つ移し電子レンジへ入れた。

 

 二人の朝食タイムが始まる。

 マドカには仕事が、そして聡には大学の授業が待っている。

 

「大森くん先に出て。今日はバイトでしょ。また夕方ね。」

 

 ひと足先に部屋を出た聡は勇み足でバイクへ向かう。

 アパートの他の住民の姿はない。バイクのエンジンを掛けると早春の冷たい空気のなか帰路についた。



 その日の夕方。バイト先のバックヤードで仕事終わりのマドカに会った。

 彼女の様子は普段と変わりない、いつも通りだった。

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