月の欠片を拾った夜
大隅 スミヲ
月の欠片を拾った夜
月の欠片を拾った夜、わたしは彼を殺すことを決意した。
あの日から、わたしは変わった。
少しのことで苛立つようになり、味覚も変わってしまった。
彼に従順だったわたしが急に不機嫌な態度を取るものだから、彼も困惑しただろう。
最初は小さなことでの苛立ちだった。
わたしが話をしている時に、彼はスマホをいじっていた。
わたしが洗い物をしている時に、彼はゲームをしていた。
わたしが掃除をしている時に、彼はヘッドホンをつけて音楽を聞いていた。
そんな積み重ねが苛立ちに繋がり、わたしと彼は喧嘩になった。
最初のうちは、彼もわたしの機嫌を取ろうとして、わたしの好きなモンブランを買ってきたり、部屋を飾るための花を買ってきたりした。
でも、わたしはすべてを拒絶した。体が拒絶したのだ。
彼の買ってきたモンブランを食べたが、すぐに吐き出してしまった。
あんなに好きだったはずのバラの香りが、とても嫌なものに感じられた。
それでも彼は、わたしのことを受け入れようとしてくれた。
拾った月の欠片はだんだんと大きくなっていき、わたしの体型も変わっていった。
苛立つことが多くなり、彼に多くの暴言を吐いた。
それでも彼は、わたしのことを愛おしい目で見てくれた。
でも、わたしは彼のことが耐えられなかった。
彼の体臭が嫌だった。
以前は気にならなかったはずなのに。
我慢の限界が来たのは、月の欠片を拾った夜から十ヶ月後のことだった。
わたしのお腹はパンパンに膨れ上がっていた。
月の欠片はついに完成を迎えるのだ。
月が満ちる。
わたしは自分ではコントロールが難しくなった体を何とか動かして、彼の頭に鉄アレイを叩きつけた。何度も、何度も、叩きつけた。彼が動かなくなるまで……。
鉄アレイは彼が運動不足になるといけないからといって、買ってきてくれたものだった。
わたしは身重の体を必死に動かして、彼の体をシートに包み込むと、彼の車の後部座席に運び込んだ。
すでに動かなくなった彼の体は、とても重かった。
運転している時、はじめてわたしは泣いた。
その涙は悲しみから出たものではなかった。やっと彼から開放されたという安堵から出るものだった。最初から、わたしは彼のことが好きではなかったのだ。
わたしは中学一年生の春に彼に誘拐された。
部活見学を終えて下校する途中、彼の車に撥ねられたわたしは、そのまま車に押し込められた。
彼はわたしを部屋の中に閉じ込めた。言うことを聞かなければ、容赦なく暴力を振るった。
わたしは彼に洗脳された振りをして、彼に従順な人間を装った。
多少のことは我慢した。
彼は次第にわたしに気を許すようになり、わたしを恋人だと思いこむようになってきた。
わたしも、彼の恋人を演じきり、彼の油断を誘った。
嫌だったけれども、彼と性行為もした。
そして、わたしはあの夜に月の欠片を拾った。
車の運転はしたことがなかったが、なんとか運転をすることが出来た。
以前、こんな話を聞いたことがある。
トンネルの向こう側には、死神が住んでいる。その死神はすべてを無にしてくれる、と。
わたしは車を走らせ、トンネルを潜った。
トンネルの向こう側。わたしの記憶では、様々な店の並ぶ商店街があって、大勢の買い物客で賑わっているはずだった。
しかし、現れたのは寂れた町だった。昼間なのに、人の気配はなく、庭に雑草の生い茂った空き家が点在している。
元商店だったと思われる場所はシャッターが閉められており、そのシャッターも錆びていた。
しばらく走ると、一軒の花屋が見えてきた。モノクロの景色の中にある色彩豊かな空間。わたしにはそう見えた。
わたしが花屋の前で車を停めると、中からデニム地のエプロンをつけた女性が出てきた。アーモンド形の大きな目と小さな鼻。その女性はどこか猫を思わせる顔立ちをしていた。
「いらっしゃい」
彼女は無表情でわたしに言うと、後部座席の荷物を受け取った。
わたしは、彼女に荷物を渡すと気を失ってしまった。猛烈な腹痛に襲われたのだ。
どこかから、だれかの泣く声が聞こえてきていた。
その泣き声は悲しみの感情ではなく、喜びの泣き声に聞こえた。
月の欠片を拾った夜 大隅 スミヲ @smee
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます