みしるしの君
泡野瑤子
第1話 むかしばなし
むかーしむかし、
糸馬国の殿様が、全幅の信頼を置いていた家臣に背かれ、あえなく落命した。それを皮切りに、主君を
この死したる殿様には、跡継ぎの若君がひとりあった。
さて、若君やいずくにかあらん――。
忠臣も叛臣も、
***
山が黒ずむほどの、
橙や朱よりもいっそう濃く、茜というてもなお生やさしい、血の色のような夕焼けの下、二人の男が大きな荷を携えて荒野を走っていた。
二人は糸馬国の将
硯実近が主君綾部治雅に突如として背いたのは、つい一昨日のことであった。南方の国境警固を任されし
軽野山には温泉があり、国主治雅がわずかな供を連れて湯治に訪れていた。治雅にとって実近の謀反は、まさに青天の
なぜ己が大将が主に背いたか、下っ端の二人にはまるで分からぬ。ただ彼らの頭にあるのは、この戦いで得た手柄を実近に届け、たんまりご褒美に
「なあ兄者、これを硯様に持って行ったら、何がもらえるだろな?」
「気易く兄者などと呼ぶんじゃねえ。俺とおめえは行きがかりで、手柄を分け合うことになっただけだろが」
「手柄」の証は、籠の中に入っていた――とはいえ、実を言えば、この「手柄」は二人が立てたものではない。二人がかりで同軍の兵を斬って横取りしたものだが、死人に口なし、真実を確かめる術もなし。私がやり遂げましたと訴えればそれで済む。そもそも二人が手にかけた相手さえ、本当に手柄を成した者なのか定かではないのだ。
冷たい秋風が通り過ぎた。頭上で
二人はやがて林に入った。氷早の里山だ。木々はさほどには密ならず、夕日が差すお陰で暗くない。ここを抜ければ、実近の待つ氷早城は目前である。
だが。
「こんな日暮れに、氷早の林に北から入るとは。お前ら、さては訳ありだな?」
背後から若い男の声がして、二人はぎくりと足を止めた。気配は背後のみにあらず、右にも、左にも、行く手にも、何者かが潜んでいるらしかった。
囲まれている。――野盗の一団だ。
「知らねえのか? お
振り向けば、そこなるは抜き身の太刀を携えた藍色の小袖の男。まだ若いがこの男が頭のようだ。顔の半面のみが西日に照らされて、不敵な笑みが浮かんでいる。
「金なら、ねえぞ」
「そ……そうだ。俺らは戦から帰るところで、見ての通りのボロ汚い有様だ。身ぐるみ剥がしたところであんたらの得にゃなるまい。ここは黙って行かせてくれ」
「ふーん。まあ、それもそうだなあ」
二人が必死に言い返すと、野盗の頭はうんうんと
「俺はあんたらの身ぐるみは要らんが、その
男たちの悲鳴が上がるやいなや、鴉がばさばさと慌ただしく飛び立った。
逃げ出さんとして、背負籠の男が足をもつれさせて転ぶ。その勢いで籠の蓋が外れ、中身がぽーんと飛び出した。
それは、真っ白い布にしかと包まれていた。
「
「おうよ、お頭!」
頭領が一声挙げると、その背後から跳躍した者があった。
年端もいかぬ少年である。木の幹を蹴って男たちの頭上を飛び越えたかと思うと、ころころと坂道を転がっていく籠の中身に瞬く間に追いついた。「駆」と呼ばれたその名に負けず、まことに見事な俊足であった。
「やったぁ! あんたらのお宝は、この氷早の駆様がいただいたぜ!」
少年が勝ち誇って叫ぶ。
「待て! それはお宝じゃねえ……」
我に返った二人が手を伸ばしても、時すでに遅し。ろくに助走もせず大の男を飛び越えるほどの健脚の持ち主に、追いつけようはずもない。
野盗たちは蜘蛛の子を散らすがごとく、林の中へ消えていったのである。
みしるしの君 泡野瑤子 @yokoawano
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。みしるしの君の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます