みしるしの君

泡野瑤子

第1話 むかしばなし

 むかーしむかし、幾年前いくとせまえと定かには言えねども、この地に糸馬国いとうまのくにがあったのがはるか昔のことなれば、かの国で起こった謀反の話はさらにそのまた昔の話なるべし――。

 糸馬国の殿様が、全幅の信頼を置いていた家臣に背かれ、あえなく落命した。それを皮切りに、主君をしいせし叛臣らと、主君死してもなお尽くさんとする忠臣らが対立し、糸馬国は大混乱に陥ったのである。

 この死したる殿様には、跡継ぎの若君がひとりあった。

 御年おんとし十三にして聡明なることこの上なく、末は必ずや不世出の名君ならんと期待されていた若君であったが、混乱のさなかに姿をくらまし、その生死はつまびらかでなかった。

 さて、若君やいずくにかあらん――。

 忠臣も叛臣も、こぞって若君の行方を追った。忠臣はその生き長らえたるを、叛臣はその死したるを願って。


***


 山が黒ずむほどの、はげしい落日であった。

 橙や朱よりもいっそう濃く、茜というてもなお生やさしい、血の色のような夕焼けの下、二人の男が大きな荷を携えて荒野を走っていた。

 二人は糸馬国の将硯実近すずりさねちか配下の足軽であった。一人が抱えるは紫紺に白抜きの桐紋、硯の旗印である。もう一人が背負うは蓋のついた筒型の籠。いずれも戦場の血と泥にどす黒く汚れて、いっそう重く感ぜられる。それでもこの荷は、どうしてもなげうつわけにはいかないものであった。

 硯実近が主君綾部治雅に突如として背いたのは、つい一昨日のことであった。南方の国境警固を任されし氷早ひばや城の将であった実近が、一軍を率いて城北の軽野山かるのやまを襲ったのである。

 軽野山には温泉があり、国主治雅がわずかな供を連れて湯治に訪れていた。治雅にとって実近の謀反は、まさに青天の霹靂へきれき。守勢はまるきり手薄で、治雅はなすすべもなく討ち取られてしまった。

 なぜ己が大将が主に背いたか、下っ端の二人にはまるで分からぬ。ただ彼らの頭にあるのは、この戦いで得た手柄を実近に届け、たんまりご褒美にあずからんとする欲のみである。

「なあ兄者、これを硯様に持って行ったら、何がもらえるだろな?」

「気易く兄者などと呼ぶんじゃねえ。俺とおめえは行きがかりで、手柄を分け合うことになっただけだろが」

「手柄」の証は、籠の中に入っていた――とはいえ、実を言えば、この「手柄」は二人が立てたものではない。二人がかりで同軍の兵を斬って横取りしたものだが、死人に口なし、真実を確かめる術もなし。私がやり遂げましたと訴えればそれで済む。そもそも二人が手にかけた相手さえ、本当に手柄を成した者なのか定かではないのだ。

 冷たい秋風が通り過ぎた。頭上でからすが鳴いて、二人をさらに焦らせる。一刻も早く帰参して、実近に報告せねば。

 二人はやがて林に入った。氷早の里山だ。木々はさほどには密ならず、夕日が差すお陰で暗くない。ここを抜ければ、実近の待つ氷早城は目前である。

 だが。

「こんな日暮れに、氷早の林に北から入るとは。お前ら、さては訳ありだな?」

 背後から若い男の声がして、二人はぎくりと足を止めた。気配は背後のみにあらず、右にも、左にも、行く手にも、何者かが潜んでいるらしかった。

 囲まれている。――野盗の一団だ。

「知らねえのか? お天道様てんとさまの傾いた後にこの林を通るには、通行料が要るんだぜ」

 振り向けば、そこなるは抜き身の太刀を携えた藍色の小袖の男。まだ若いがこの男が頭のようだ。顔の半面のみが西日に照らされて、不敵な笑みが浮かんでいる。

「金なら、ねえぞ」

「そ……そうだ。俺らは戦から帰るところで、見ての通りのボロ汚い有様だ。身ぐるみ剥がしたところであんたらの得にゃなるまい。ここは黙って行かせてくれ」

「ふーん。まあ、それもそうだなあ」

 二人が必死に言い返すと、野盗の頭はうんうんと一見いっけん物わかり良さげに頷いた――かと思いきや、またもニヤリと笑って迫る。

「俺はあんたらの身ぐるみは要らんが、その背負籠しょいごには興味があるぞ」

 男たちの悲鳴が上がるやいなや、鴉がばさばさと慌ただしく飛び立った。

 逃げ出さんとして、背負籠の男が足をもつれさせて転ぶ。その勢いで籠の蓋が外れ、中身がぽーんと飛び出した。

 は、真っ白い布にしかと包まれていた。

かける!」

「おうよ、お頭!」

 頭領が一声挙げると、その背後から跳躍した者があった。

 年端もいかぬ少年である。木の幹を蹴って男たちの頭上を飛び越えたかと思うと、ころころと坂道を転がっていく籠の中身に瞬く間に追いついた。「駆」と呼ばれたその名に負けず、まことに見事な俊足であった。

「やったぁ! あんたらのお宝は、この氷早の駆様がいただいたぜ!」

 少年が勝ち誇って叫ぶ。

「待て! それはお宝じゃねえ……」

 我に返った二人が手を伸ばしても、時すでに遅し。ろくに助走もせず大の男を飛び越えるほどの健脚の持ち主に、追いつけようはずもない。

 野盗たちは蜘蛛の子を散らすがごとく、林の中へ消えていったのである。



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