中島黄山遺稿
篠川翠
黄山遺稿序一~鹿門岡千仭
【書き下し文】
余中島黄山の遺稿を読む。乱にて
明治十七年夏四月
※太初:黄山の別号。
※1:醍醐少将、沢
※2:世良修蔵ら。
※3:梁川星厳
※4:小野湖山
【現代語訳】
私は中島黄山の遺稿を読んだ。戊辰騒乱で国が滅ぶ各篇の下りでは、不覚にも涙で胸がいっぱいになった。
(慶応四年)王政復古の命令が下った。太初は藩命を奉じて仙台に来た。この時、私は同志を募り藩の宰相に迫った。勤皇の大義を信じていたからである。太初も勤皇の志を持っていた。藩の人々の為と信じるところがあったからである。
我が藩(仙台藩)は鎮撫三卿を奉じ、出討の師に会った。
私は軍に従って福島本営にいた。二本松は会津の隣藩であるため、四方に出兵していた。太初はそのために藩内を周旋・尽力した。すでに列藩は会津藩の名を借りて謝罪していた。だが白石城の連盟軍は官軍に抵抗した。太初は人目を避けてこっそり仙台に潜入していた。(この頃)仙台藩の世論は帰順に傾いていた。そこへ急使がやってきて言うには、「二本松城が落ちた」という。太初は呆然としてどうして良いかわからなかった。私は「藩主は軍門に謝罪した。猶国を保とうとするべきである」と述べた。太初は即日方針を改めた。この時、仙台にも敗報が続々と届き他国の兵が溢れていた。私は太初を送っていき、一つの店で別れの盃を酌み交わし、天を仰いで長いこと嘆いた。私はまた臆病者だったので、命を永らえた次第である。その席で互いに後事を託した。太初は兵に混じって関所の様子を伺い、二本松に入った。このとき城郭は灰燼に帰しており、藩主は逃げていた。そのため太初は立派な身分の武士らを助けた。丹羽氏が今日も在るのは、実は太初の力である。
この後太初は新潟府の平松卿と知り合い、大属官に任じられたが、幾ばくもなくして病没した。
太初は詩を安積艮斎先生に学んだ。そのため、梁川星厳・天山・小野湖山ら諸先生方の門への出入りが許された。詩稿は膨大なものであった。だが、兵火で焼かれて一首も残っていなかった。そこで竹内君が四方を捜索し、長年かけて二巻を入手した。それにしても、私が太初と共に国事に協力したのは、乱世の別離の予兆だったのだろうか。ああ、太初は正義を唱え、その志は盛んに燃え上がっていたものである。これは二本松のための大功である。だが、長いことその功績は報われなかった。
太初の詩作は優れた作者の部類に入るが、戦乱のために残らなかったのは、いわゆる非命とでもいうのであろうか。
中島黄山遺稿 篠川翠 @K_Maru027
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