第82話𓎡𓇌𓇋𓍢〜恵雨〜
目の前に広がる景色はまるで別世界だった。辺り一面に咲き乱れる蓮は淡い光を放ち、幻想的な雰囲気を醸し出している。中央を流れる巨大な川がその大地を隔てていた。
ここがあの
想像していたよりもずっと静かな場所だ。昔書物で見たような異形や邪神の姿は全く見受けられない。
だがここはまだ
アヌビスは後ろを振り返り、兄の姿を探す。だがいくら待とうとも、その姿を捉える事はできなかった。
「あいつ、まさか逃げたのか? それとも最初から俺に押し付けるつもりで——」
悪態をつくアヌビスの耳に突如笛の音が響く。それはアルグール(注)のような馴染み深い音である一方で、聞いた事のない不思議な旋律にアヌビスの心はざわついた。徐々に近づく音色と共に霞の向こうから巨大な船が姿を現す。
来たか。
数柱の神を引き連れ、彼らに守られるようにして船の中央に鎮座するラーの姿を確認し、アヌビスは拳を握る。昔書物で見たままの姿。つまり彼は肉体共々完全なる復活を果たしたのだ。
「どうしますか?」
緊迫した状況の中、耳元にキオネの声が響く。数も力も圧倒的に不利なこの状況で正面から戦いを挑むのは愚行以外の何ものでもない。すかさず岩の影に身を隠したアヌビスの目に飛び込んできたのは鮮烈な光景だった。
上空には暗雲が立ち込め、雷鳴が轟き始める。全身を濡らす雨にアヌビスは身震いした。この国に雨が降る事自体稀だが、このような土砂降りは生まれてから一度も見た事がなかった。
川は濁り、みるみるうちに氾濫し始める。荒波に揉まれ、浮き沈みを繰り返すラーの船はあわや転覆という所まで追い詰められていた。ラーとその従神達がしきりに何か叫んでいるが、激しい豪雨の音にかき消され聞き取れない。
この状況に作為的な何かを感じ、アヌビスは天を仰ぐ。するとまるで稲妻の如く船上に何かが落下するのが見えた。
神秘的な光に包まれ、甲板に降り立った彼はゆっくりと立ち上がり、目の前の肉親に厳しい眼差しを向けた。
「お前がやったのか?」
父の問いかけにラーホルアクティは首を横に振る。
「やったのは俺ですよ父上。彼をそこに送り込んだのも。年は離れているがこれでも兄弟だ。弟の手助けをするのは兄として当然の事」
天から降るその声にラーは顔をしかめる。
「愚息めが。私を裏切るつもりか」
「裏切る? 貴方の駒になった覚えはありませんが。悪夢はここらで断ち切るべきかと」
ラーのもう一人の息子、湿気の神シューは父親の怒号もどこ吹く風とばかりに軽口を叩く。
「お前達を生んだのはこの私だ。その父に向かって——」
怒りに身を任せ、一歩前に踏み出したラーの体を渦巻く風が絡めとる。
「いけません父上。もう、終わったのです」
その頭上から今度は凛とした女性の声が響き、ラーは再びその顔を歪めた。声の主は彼の妹であり妻のテフヌトである。
「創造神ならば何をしてもいいと? 私達は皆、貴方の身勝手な行動に辟易しているのです。私欲の為にこの国を、人を巻き込むのはもうおやめ下さい」
「揃いも揃って私を愚弄するとは。一体誰のお陰で——」
「そこにいるのでしょう。冥界の王オシリスの息子」
突然名指しされ、岩陰からそっと様子を伺っていたアヌビスはその声に引き寄せられるように立ち上がる。
「てっきり逃げ出したのかと」
アヌビスが言うと、兄はまさか、と言って笑った。実の所、彼らの助けがなければあのままエゼルと共にここを去っていた。父との決着も、気持ちの整理もつかぬまま悶々としていた事だろう。
「俺は復讐するつもりだった。貴方に与えられた苦しみ、この屈辱を果たす為に。だが——」
その場の空気を飲み込む程の霊気が彼を包む。それは憎悪に満ちた闇の力ではない、純粋な光を帯びた神の力だった。
「今は違う。己の過去、そして貴方と決別する為、その為に俺は戦う。そしてこの国と人々に平穏を。ホルスとの約束だ」
その手に自然と力が籠る。過去との決別、そして今や邪神と成り果てた父のその闇を祓う為、自分はここにいるのだ。
ラーはそれを嘲笑し、目の前の息子に冷ややかな視線を投げる。
「大層な目標を掲げてはいるが、お前もやってきた事は同じ。行き場のない欲求を満たす為、生けるものの命を奪い、ついには母親に見放された哀れな息子。そのお前が今更何を喚いても偽善にしかならん」
「そう、かもしれませんね」
父の言葉に息子は俯きながら答えた。
ドス、と鈍い音を立てて一閃の光がラーの体を貫く。一瞬の出来事に周りにいた者もこの状況をまるで理解できていなかった。
伸ばした腕がラーの胸を貫通し、彼はそのまま心臓を探り当てると、それを容赦なく握り潰す。主が吐血するのと同時に周囲の従神達がまるで砂像の如くバラバラに崩れ去る。一瞬のうちに息絶えた父の顔をラーホルアクティは冷ややかな目で見つめた。
「だがその息子を見誤ったのは貴方だ」
父は自らの居場所に胡座をかきすぎた。その力を息子に奪われているとも知らずに。
兄の言葉を聞きながら、アヌビスは長年に渡りこの世を支配してきた神の呆気ない最期をただ呆然と見つめる。
「月日は人を変えるものね」
その様子を天から見守っていたテフヌトの言葉に彼は自嘲じみた笑みを零す。
「俺は弟達のようにはなれなかった」
「いいえ。貴方は自分のできる事をしただけよ。過ちは誰にでもある。例え神であろうともね。貴方は父とは違う。過去の自分を悔い、この国の為に尽くそうとしている。その心はホルスやアヌビス。彼らと何ら変わりはないわ」
そう言ってテフヌトは柔らかい笑みを零す。
束の間の安寧。穏やかな空気が流れる一方で、その遺体は凄惨な風体を晒していた。大量の雨が肉を溶かし、骨が剥き出しなったその様はまさにこの世の深淵を現しているように見えた。
「天の恵みと人は言う。私達の降らせる雨は邪を滅するいわば聖水。私欲にまみれ邪神と化した父には毒となった。彼はもう天の上に立つ神ではなくなったのよ」
「二柱とも、少し見ない間に随分と立派になった。顔つきも人間のそれとはまるで違う」
その会話に水を差すようにシューが口を挟んだ。
「オシリスがいなくなってから私達はすっかり縁遠くなってしまったわ。けれど聡明な母の元で貴方達は立派に育った。安心したわ。王が倒れてもその光が途絶える事はない。彼の意志は息子達へしかと受け継がれている」
兄弟は互いに顔を見合わせ、その意思を確認する。
巨悪は討った。だが全てを終わらせる為にはまだやる事がある。
「
ヘリオポリス ー九柱の神々ー みるとん @soltydog83
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