あの時と同じ風

大隅 スミヲ

あの時と同じ風

 大勢の人が集まっていた。

 六本木にある商業施設の入ったビルである。


「下がってください。ほら、下がって」


 制服警官が、集まってきている野次馬たちを遠ざけるために黄色いテープの規制線を張っている。

 大勢の野次馬たちは、スマートフォンを構えてシャッターを切っていた。こんな写真を取ってどうするつもりなのだろうか。そんなことを思いながら、野次馬たちをかき分けて、久我くがそうは、規制線へと近づいていった。


「あ、ちょっと。入らないでっ!」


 怒鳴り声に近い大声で制服警官が久我に言う。

 すると久我は、着ていたコートのポケットから身分証を取り出した。


「警察庁特別捜査官の久我です」

「し、失礼しました」


 制服警官は慌てて久我に敬礼をする。


「あ、敬礼とかいいから。中に入ってもいいかな」

「どうぞ」


 久我は腰を屈めて窮屈そうな姿勢で規制線のロープを潜ると、建物の中へと入っていった。

 現場はビルの屋上だった。エレベーターホールで、呼び出しボタンを押して、久我はエレベーターが来るのを待つ。


 警察庁特別捜査官。それが久我の肩書きだった。警察庁長官直属の特別捜査官であり、どんな案件に対しても捜査権限を持つ存在である。警察庁に所属する特別捜査官は数人であるとされているが、警察庁長官以外にその人数を把握している人間はいなかった。


 エレベーターに乗り、屋上へと向かうと制服、私服を合わせて大勢の警察官たちがいた。


「なあ、落ち着け。話を聞こうじゃないか」

「わたしは落ち着ている。あんたたちは、わたしが話したところで、それを闇に葬り去るだけだろ」

「そんなことはない。そんなことはないから、こっちにきて話をしよう」


 屋上にある安全柵の向こう側。そこには制服姿の女子高生が立っている。

 説得に当たっているのは、背の低い中年の刑事であった。


「ねえ、説得をはじめてどのくらい時間が経っている」


 久我は近くにいた若い女性刑事に声を掛けた。


「えーとですね……って、どちら様ですか?」

「こういう者です」


 慣れた手つきで久我は身分証を女性刑事に見せる。


「失礼しましたっ」


 慌てて女性刑事は敬礼をしようとしたが、久我はそれを止めた。


「別にいいから、そういうの。それよりも、時間、どのくらい」

「えーと、二〇分くらいは経っていると思います」

「そうか。そろそろ限界かな」

「え?」

「あのの持ち物とか、ある?」

「え、ええ。こちらに」

「ちょっと借りるね」


 久我はそう言うと、女子高生の持ち物であるカバンの中を覗き込んだ。

 中には学校で使っていると思われる教科書やノート、化粧ポーチ、弁当箱などが入っていた。

 その中の筆箱に触れると久我はそっと目を閉じた。


 やってきたのは、闇だった。その闇の中にうっすらと明かりが見える。自宅の学習机に向かって勉強をする彼女がいる。耳にはイヤホンをしており、周りの音を遮断している。部屋の外からは言い争う声が聞こえてくる。彼女の父親と母親が何やら言い争いをしているのだ。ただの夫婦喧嘩。そう思いたいところだが、少し様子が違う。


 場面が切り替わる。キッチンで、中年の女性が倒れている。頭からは血が流れており、意識は無いようだ。


「お母さんが、足を滑らせて頭を打ってしまった。これから救急車を呼ぶ」


 中年の男、おそらく彼女の父親であろう。彼は冷静な声で彼女に告げた。


 目を開けると、久我はそれが当たり前かのようにふわりとビルの安全柵を乗り越えた。


「ちょっと、来ないでって言っているでしょ」

「キミはお父さんが嫌いなのか」


 久我は彼女に近づくと、問いかけた。


「何を言っているの?」

「キミはお父さんがお母さんを殺したと思っている」

「……そうよ。あいつがお母さんを突き飛ばして……」


 彼女は涙を流しながら、久我に訴えた。


「違うよ。キミのお母さんは、お父さんの言う通り足を滑らせてダイニングテーブルの角に頭を打ってしまったんだ。確かに、その直前にふたりは言い争いの喧嘩をしていた。だが、それはきっかけに過ぎない。キミのお父さんも、お母さんを失ったことを後悔している。ここで、キミまで失ってしまったら、お父さんは一人ぼっちになってしまう。だから……」


 そこまで久我が言った時、彼女はバランスを崩した。足に力が入らなくなってしまったようだ。そして、そのままビルの外側に体が放り出されて行く。

 間一髪だった。久我の右手が彼女の腕をしっかりと掴んでいた。


「あの時と同じだ……」

「え?」

「幼稚園の頃、ジャングルジムで遊んでいて、てっぺんから落ちたことがあるの。その時と同じ。あの時と同じ風を感じたの。あの時に助けてくれたのは、お父さんだったけれど……」


 彼女はそう言って、気を失った。

 久我は彼女を駆け付けた救急隊員に渡すと、現場を後にした。

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あの時と同じ風 大隅 スミヲ @smee

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