四 死合

 口火を切ったのは老年だった。

 地を蹴るや、一気に正一との間合いを詰める。

 息が詰まりそうになるのを堪えて、正一は気を漲らせる。

 刃が奔った。

 上段から一太刀と、続けて跳ね上がるように切り上げてきた一刀を、退きざまに躱す。

 左に回りながら次は──などという思考を斬り捨てるように刃風がビュンと鳴った。

 横薙ぎだ。正一を追った刃が鼻先一寸を駆け抜けた。

 なお向かってこようとする老年に、切っ先を向けて牽制する。間合いに入らせまいと必死だった。

 刃が頬を撫でたらしい、生暖かいものが頬を伝うのを感じる。

 時間にしてものの十数秒だというのに、もう息が荒くなっていた。

 唐突に立たされた死合いという名の舞台の上は、正一の足を竦ませる。散々稽古で交わした太刀筋だと言うのに躱わすのが精一杯だ。斬り返すどころか、受けることも払うことも叶わない。

 刀を握る腕は、鉛に浸されたようにままならなくなっていた。

「身のこなしはやっぱしいいな、正一」

 牽制を前にしても老年は、僅かずつじり、じりと正一に詰め寄っていく。

「やはりお前さんは奴の倅だ。昔っからその身のこなしにゃあ感心してたぜ。あの日も虫っころに気を取られなきゃあ、あんな袋叩きには合わんかったかもな」

 正一がいくら下がっても、老年は足に合わせて常に一定の間合いを崩さない。足と足とを縄で繋がれているような気さえしていた。

 切っ先が触れるか触れまいか、いつ老年が勝負を仕掛けてもおかしくはなかった。

「ま、逃げて躱してじゃあ勝負は終わらんぜ。どうした、散々撃ち合ったじゃねえかい正一、忘れたか」

 忘れるものか。

 そう返したかったが乱れた呼吸では言葉を吐くこともできない。

 そうだ、こんな状況、稽古ではしょっちゅう繰り返していたはずだった。木刀の切っ先が交じり合う間合いで正一から勝負を仕掛けたこともある。

 しかし、稽古はたかが稽古に過ぎない。いくら殺し合いじみたと言われても所詮実戦とは程遠い、嫌になる程痛感していた。

 剣術は殺しの術──それは確かに理解していたはずなのに心が追いつかない。

 初めて向けられる本物の殺気が乗った刃は、正一が思っている以上に精神を削っていた。

 怖い。

 嫌だ。

 こんなしんどいもの、今すぐにでも逃げ出してしまいたい。

 ほんの一瞬、視線が落ちた。

 無意識だった。


「愚かモンがッッッ!」


 鋼を叩く音が鼓膜を打った。

 気づいた時には、正一の剣は弾かれて隙を許してしまっていた。

 弾いた反動を利用した老年の一閃が、正一を撃つ。

 肩肉が斬られ、血が噴き飛んだ。

 痛みに身体中の神経が否応なく向く。

 刹那、打拳が正一の頬を穿ち抜いた。

 草っぱらに体が勢いよく転がる。転がった後の緑は赤に上塗られていた。

 木刀で打たれた鈍いものとは違う、初めて経験する鋭い痛みに手を抑える。

「戦う相手から目を逸らせ、などとおいらは教えたかッ」

 怒気を孕んだ声が正一を打ちのめすように降ってくる。刀を引っ提げた老年が、すぐそこに立っていた。

「失望させてくれるなよ。おいらが毎日のように剣を交えた正一は、もっと強かったはずだぜ。タマ獲ったのも何度だってあンだろうが。それともなんだ、おいらとはどうしたって真剣で斬り合いたくねえってか。師匠と命を獲り合うなんてしたかありませんってかぁ? ──甘ったれるンじゃあねえよ」

 正一は項垂れることしかできなんだ。

 己が不覚さに、反論の言葉一つ持たなんだ。

 流れ続ける血とともに腕の力が抜けていきそうだ。

 刀を握るのがやっとだった。

「抜き合わせたらどちらがが死ぬまでやり合うもんだ。どうした、お前はなんにも出来んで死ぬんか」

 老年の切っ先が正一の首に向く。


「むざむざ死んだら、正一、あの大家の嬢ちゃんの元にゃあ帰れんなァ」


 ──鈴。

 瞬間、正一の脳裏に駆け巡る、鈴と過ごしたいっぱいの時間。

 己の勝手さに散々叱られた記憶。

 幼いころ、遠くまで行こうと手を引かれた思い出。

 たくさんの握り飯を持ってやってきた、あの笑顔。

 濁流の様に押し寄せる時間が、正一の脳髄を埋め尽くしていく。

「どうなるんだろうな、あの嬢ちゃんは。可哀想だよな、一人残されるってのは」

 老年は憐れむ様に吐いた。

「──どうせだったら一緒に送ってやろうか、嬢ちゃんも」

 その言葉は、これまでになく正一の心臓を大きく打った。

 早鐘が加速する。

 己に切っ先が向けられた時よりも、ずっとけたたましく凄まじかった。

「一人であの世は寂しいだろ。けんどまあ、あの嬢ちゃんがいればちゃんと手を引いてくれるだろうな」

 いつもの調子で軽く笑った声が、ひどく下卑たものにしか聞こえてならなかった。

 己が死ねば鈴も死ぬ。

 このまま何も出来んとあいつが死ぬ。

 あのカマキリのように、死ぬ。

 帰る場所が、無くなる──


「──嫌じゃ」


「何呟いてんだ。ンな駄々みたいな我儘が通ると思ってんのかい」

 老年が、また一歩踏み込む。そおっと上段に刀を構える。

「心配するこたァねえ、ちゃんと痛みなく斬ってやるさ、嬢ちゃんも」

 切っ先が天を向いた。

 老年の腕に力が籠る。

 ──刹那、全身が総毛立った。

 本能のまま地を蹴って、飛び退った。

 一瞬後に、一閃は奔っていた。

 正一の剣だった。

 はらはらと草木が舞う。

 ゆらりと立ち上がった。

 振り放った剣をそのままに、正一が真っ直ぐ老年を見据える。

 肝が据わった眼をしていた。

 怖気から来る切っ先の震えは、どこを見てももう無かった。

 なんだったら、震えているのは老年の方だ。

 目にも捉えられぬ一閃に、いつかの奴が被ったように老年には見えていた。

 顔が、ほころぶ。

「それでこそ、だ」

「るッせえのぉ、いい加減に閉じんか、その口」

「ハッ──初めて聞いたぜ、お前さんの口からそんな言葉をよ」

「こちとら必死なんじゃ。余計な口は挟んでくれンな」

 嘘は無かった。

 早鐘はまだ収まらぬし、緊張を切らしたら今にも膝はくず折れてしまうだろう。

 老年の剣が怖いのも変わらない。散々稽古をした間柄だ、その強さを嫌と言うほど知っている。

 先の太刀捌きだけでも恐ろしさはひとしおだ。

 冷や汗は止まらない。荒れた息を整えようとするだけでも一杯一杯だった。

 勝てるか。

 斬れるか。

 ────否。

 逡巡とする思考を、正一は即座に斬り捨てる。

 今更思考など、要らなかった。

 深く息を吐いて、身体中に気を迸らせる。

「斬るも張ったもめんどくせえ。こないなこともしたかァねぇ──じゃけんど、大事なもん守るンはテメエしかいねェ、ちゅうンじゃろ」

 目の前で踏み潰されるカマキリに届かないほど、正一の手はもう幼くなかった。

 今は、理不尽という名の刃を向けられて、己もまた刃を振るうことのできる腕がある。

 ──なんもできんで終わったかつての己を、繰り返してたまるか。

 選ぶ道は一つだった。


「やる──やっちゃろうじゃあねえか」


 正一が疾駆する。

 一気に間合いが詰まった。

 未だ変わらず上段を取る老年に、迫る。

 老年は悠然に笑っていた。

「羨ましい奴だわな、正一ッ」

 火花が散った。

 刃と刃がぶつかり合ったのだ。

 続けて、さらに数合鋼と鋼が絡み合う。

 鋭い金属音が幾度も響き渡った。

 激しい剣戟が肌をかする。

 鋭い剣風が次々と傷を刻む。

 一歩も退かない攻防だった。

 鮮烈な斬撃を交わし合いながら互いの体がすれ違い、振り返りざまにまた対峙した。

 着物の裾が僅かに切れていた。

 この死合に膠着は無い。

 老年の放つ横薙ぎに、正一も突進して応えた。

 甲高い鋼の音が鳴り、刃と刃が鍔迫り合う。

 拮抗した力が破れれば刃がどちらかを切りつける、そんな間合いにまで二人は迫っていた。

 意識が刀に向きつつあった時、正一の腹が弾けた。

 老年の足が腹を蹴りつけたらしい。唾がこぼれて体が崩れる。

 刀を握っていた手も払われ、老年の刀が振り上げられた。

 開いた身体に一閃瞬く。

 正一の体がごろりと地を転がったが、すぐさま立ち上がって刀を構える。

 崩れるに任せて一撃は退けた。

 が、ぼたぼたと血が滴った。

 額を浅く斬られていた。

 瞼に血が落ちていく。視界が赤に潰れて対手の姿がはっきりしない。


「チェアアッ!」


 容赦無し。

 気を発し、すかさず老年が風を巻く。

 正一目掛けて豪快な一振りが横一閃に放たれた。

 老年の太刀筋は、しかし、風を切っただけだった。

 躱していた。

 視界はままならないはずなのに老年をはっきりと見据えて、太刀筋を頭一つ沈んで躱し抜けた。

 踏み込むことも忘れちゃいない。

 老年の懐に足を滑り込ますや、腹から肩までを正一の刀が切り上げに抜けていった。

 老年の着物に血が滲む。

 咄嗟に体を跳ねるように反ったおかげか、皮一枚で済んだのが不幸中の幸いだった。

 それでも、冴えた太刀筋は老いて乾いた皮を冷たい汗で濡らすには十分過ぎた。

 今度は老年が切っ先を正一の喉元に向けて牽制する。

 いつか逃げ足をとらせた懐かしい恐れが、老年の体を巡っていた。


「血で目が潰れたと思ったがなんて剣だい、正一よお」

「舐めんなが」


 正一は、目に落ちる血を袖で拭う。

 汗に濡れながら、据わった眼がまた老年を捉えた。

 稽古で見てきたどんな眼差しよりも、容赦の無い色をしていた。

「やはり奴の倅だ、お前さんは。はらわたが震えてくるぜ。そうでなくっちゃ、おいらの恥もすすぎ落とせねえってもんだがな」

「……るッせえのお」

 苛立ち紛れのため息と一緒に、低い声が正一から漏れる。

「どうした、褒めてるんだぜ正一よ」

「嬉しかねえわ、ンなもん。なんじゃさっきから倅じゃ倅じゃと、るッせぇんじゃホントに。──わりゃをここまでにしたんは誰か忘れたんかい」

 正一は、指をさす。


「おっちゃん──おんしと交えた剣がわりゃをここまでにしたんじゃ。顔も知らん奴のおかげに全ッ部してくれんなや」


 その指先は老年に向かって真っ直ぐだった。

 驚きに、老年の口は呆けたように塞がらなかった。

 この期に及んでそんなことを言ってくれるか、この坊主は。

 なんという弟子に恵まれたのだろう。

 そうそうもらえた言葉じゃあない。

 師匠冥利に尽きるじゃないか。

 ふつふつと込み上げてくる感慨を、だが、老年は必死に殺す。

 これ以上浸ってしまうと、刃が鈍ってしまいそうだった。

 一度押した背中を引き戻すなどという真似を、男はできなかった。

「もう、小競り合いは終いだな」

 老年の刀が上向いていく。

 纏う圧も上向くにつれて研ぎ澄まされていくようだった。

 切っ先が天を衝くと同時に、殺気の密度が頂点を迎えた。

 背を向けてでも逃げ出したい衝動を抑えて、正一も剣を構えて対峙する。

 ごくりと息を飲んだ正一に向かって、老年は牙を剥き出した。

 獣のツラをしていた。


「ケリぃつけようかい──正一ィッ!」


 ゾッ、とした。

 熱波の如き凄烈な剣気が正一を叩きつける。

 桁違いだった。

 身体中の全てに怖気が石火で疾り抜けた。

 全身を駆け巡った恐怖に気圧された一瞬に、老年の足が地を駆ける。

 疾風劈く勢いだった。

 気づいた時には、老年の間合いに正一はいた。

 遅れず振るった一刀が、正一の眉間目掛けて真っ直ぐに振り落とされる。

 躱すにも遅い。眉間は避けても半身を穿つのは明白だった。

 自身の体が真二つに裂ける様が脳裏に過ぎった。

「ッ──」

 たまらず足が竦みそうになる。

 刃が届くまで刹那も無かった。

 万事休す、死が迫る。

 鈴の顔も見れず。

 鈴が作るあの漬物ももう二度と口にせぬまま、死ぬ。

 己が死ねば、鈴も斬られる。

 ──死ぬ。

 そんなのは嫌だ。

 嫌だった。

 許せるわけがなかった。


 そうだ──

 死にとうもなければ

 死なせとうも、ない


「──ないンじゃあ、ボケがァッ!」

 老年の一閃が正一を斬る。

 その一瞬前。

 括った腹で背を思い切りに押して、正一は踏み出した。

 刃が正一の肩を撃つ。

 赤い飛沫が宙に散った。

 だが、驚愕に眼をいっぱいに見開いたのは老年の方だった。

 その刃は正一の肉を斬っても骨を断つには至らなかった。

 正一を撃ったのは刃は刃でも、″鍔元″だった。


「テメッ──正一ィッ!」

「ぬ、あァりァアッ!」


 ありったけに振り絞った力を刃に乗せて、渾身の一刀は唸る。

 凄絶無比の太刀筋が、老年の腹を真一文字に掻っ捌いていた。

 斬り抜けた切っ先は、血の軌跡を描く。

 恍惚も、ましてや安堵も無かった。

 肉を斬る感覚が。

 骨を断つ感触が。

 様々な初めてが襲いかかるように刀を伝って、正一の五感を怒涛に揺さぶる。

 経たこともない戦慄だった。

 足が滑って、思わず膝をついた。

 全ての音が滅茶苦茶な鼓動で掻き消されていく。

 胃から色んなものが込み上げてくる。

 刀を握った手はどうしようもなく戦慄いていた。


「勝ちを獲った男が……情けねえ、ぜ」


 掠れつつある声に弾かれるようにして顔が上がった。

 老年はまだ立っていた。

 刀を杖代わりにしながら、尻を土につけた正一を見下すように立っていた。

 しかし、掻っ捌かれた腹はみるみるうちに血でいっぱいになっていく。

 裂いた傷からはらわたの淡い桃色が顔を見せ、足元には黒く重い血溜まりが広がりつつあった。

「刃に向かって踏み込んで体で受け止める、たあ……よう、やらぁ。無茶しやがる……が、鍔元なら、確かに斬れんわなぁ。刀のどこが一番斬れにくいか……ソイツを教えたのも、おいらだった、っけか」

 言葉と共に、口からも血がこぼれていく。

 ニッカリを笑った歯も、真っ赤に染まっていた。

 血が流れ出ていくとともに顔から色が抜けていく。

 時間の問題だった。

「──お、っちゃん」

「ンな顔すんな。なんの咎もねえお前さんに刃を向けた──報い、ってェやつ……だ」

 ふいに、老年の体が崩れる。

 草っぱらに大の字になって転がった。

 指先の感覚も随分遠い。

 なのに、老いた男は握っていた刀を離そうとはしなかった。

 正一はやっとの思いで立ち上がると、おずおずと老年に近づいていく。

 老年の瞳に灯っていた火は、もう僅かしかなかった。

 そんな顔をするな、そうこの男は言った。

 だが、正一は己が今どんな顔をしているのか、わからなかった。

「強うなったな、正一……」

 老年の眼差しが、正一を向く。

「やっぱ正一、おまえさんは……奴の倅だよ」

「……まだ、それを言うんかい。言ったろうが、わりゃをここまでしたのは、おっちゃんだって」

「わあってる。わあってるけど、さ……言ってやんねえと、奴が浮かばれねぇ……お前さんを守って逃して、死んでいったんだろう……奴の最期がよ」

「──わりゃ、を」

「そうさ」


 そうでなければ、あんな大立ち回りなんてせずに逃げ仰せていたに違いない。老年の記憶にある奴とは、それほどの猛者だった。

 正一も、同じだ。

 あの時、一人だったならガキどもに囲まれても逃げることができたはずだった。それだけの体捌き、体のこなしが正一にはあった。

 なのに、カマキリなんかを守ろうとして、守れなくて涙を流した。

 本当は、奴の死を前にして諦めたはずだった。残った倅などを殺したって溜飲は下がらない。

 恥に恥を上塗りするだけだ。

 わかっていた、はずなのに。

 正一の逃げなかった姿を見たら。

 思わず出てしまった剣をやるかという言葉に、

 ──やる

 そう答えた正一の眼差しを見てしまったら。

 もう、止まれなかった。


「悪かったな……おいらの意地に付き合わせて、よ」

「今更遅いが。謝るくらいなら、初めっからやってくれんながっ」

 声が震えていた。

 きっと、見たら我慢もできず吹いてしまうくらいのひどい顔をしているのだろう。

 今際の際では、もうそんな正一の顔を見ることも叶わない。

 帳は降りてしまっていた。

「そう、さな……」

 老年の火が消える。

 刀を握っていた指が柄から離れていく。

 意識が虚空に、落ちる。


「でもよぉ……うらやましかったんだぁ──」


 戯言のように呟いた言葉を最後に、老年はそれっきりだった。

 


 ──



 道場に近づいていくにつれて、刃が風を切る音が聞こえてくる。

 近づけば近づくほど、その音ははっきりと鼓膜を叩く。

 戸を開くと、正一が一人剣を振るっていた。

 木刀ではない。

 真剣だ。

 抜き身の刃を上段に構えて、次々と空に向かって弧を描いた。

 確かに一人。

 一人だというのに、正一が構えた切っ先の向こう側にもう一人、正一にしか見えない誰かと剣を交えているように、鈴には見えていた。

 ごくっと息を呑む。

 抜き身が躍る道場の中は、下手したら、老年と稽古をしていた時以上に緊張感が満ち満ちているような気がしていた。

「正一っ」

 鈴が声をかけると、刀を振るっていた腕が止まる。

 汗でびっしょりになった正一の顔が、鈴に向いた。

 それまであったわずかな幼さも抜けた、一皮剥けた男の顔をしていた。

 その顔に、また一瞬胸をつかれた。

 もう何度も見た、馴染みの顔のはずなのに。

 胸をついたものが一体何なのか、鈴は言葉にできなかった。

「……ほら、昼飯持ってきたよ。アンタが好きな胡瓜の漬物も一緒さ」

「んが」

 そう一言だけ答えると、刀を鞘に納めてとてとてと早足で鈴に歩み寄る。

 持ってきた風呂敷を受け取ると、早速板間の上に開いて一つ二つと胡瓜の漬物を頬張り始めた。忘れず、おにぎりにも手を伸ばす。

 そこにいるのは、普段と変わりない正一だった。

 のほほんとしていて、食い意地が張っていて、頬に米粒をつけるうっかりさんな正一だ。

 さっきの顔つきが嘘のように、無邪気だった。

「どうしたが」

 じっ、と見つめすぎてしまっていたのだろう。正一が怪訝な面持ちで鈴を見やる。

「わりゃの顔に、なんかついてるが?」

「いや、そういうわけじゃ……ないわけでもないわね。アンタ、口の周りにどれだけ米粒つけてるのよ。みっともないわねえ」

 正一の口元に指を伸ばすと、慣れた手つきで米粒を取ってぺろっと口に運ぶ。

「全くもう、いつまで世話を焼かせば気が済むのやら」

「さあの」

「さあのって……しょうがないやつよねえほんと」

 クスッと、鈴は笑みを溢す。

 正一の握る得物が木刀から真剣になろうと、纏う雰囲気がいくら変わろうと、そのままなものも確かにある。

 それに少し安堵する鈴がそこにいた。


 道場の格子から風が吹く。秋色をした風だった。

 黄金に実った稲穂もすっかり刈り取られて、肌を焼くような日差しも珍しい季節になっていた。

 二人で飯を食う道場の中がやけに寂しさを漂わせているのは、煩わしいくらいの夏が去っていったからだろうか。

 それとも、いつもは三人で飯を囲んでいたのが今は二人だけだから、だろうか。


「おっちゃん、今どこをほっつき歩いているんだろうね」


 飯を食っていた正一の手が止まる。

 鈴は、遠くを見ながら思い出したようにふと言ったようだった。

 正一は、老年との一件を鈴にも言わなかった。

 出稽古から帰った日、おっちゃんは旅に出たと、それだけ言った。

 嘘をつくのは苦手だった。それでもなんとか周りに通じたのは、老年と付き合いがあったのが正一や、正一を甲斐甲斐しく面倒を見る鈴くらいなものだったからだろうか。

「さあ。どっか、適当なとこをほっつき歩いているんじゃあないんかの」

 興味もなさげに取り繕うが、どうしても声が硬くなった気がしていた。

 自然と顔がそっぽを向いていた。


 ──うらやましかった


 老年が最期に溢した言葉を思い出す。

 何がそんなに羨ましかったのだろう。

 いまだにその意味を正一は測りかねていた。

 思えば、正一が知る老年というのは、常に剣を交えた姿ばっかりだった。

 木刀を構えて、下手すれば死んでしまうかもしれないほどの稽古ばかりで。

 あと残った記憶といえば、鈴が作った昼飯を競うように食ったことくらいか。

 何も知らなかったんだと、改めて思う。

 最後の最後で、老年の心の丈にちょっとばかし触れただけ。

 老年のことを一から十まで理解できたなんて、口が裂けても言えなかった。

 それでも。

 老年の言うように、未だに顔も思い出せない父親から剣の才を継いでいるのだとしても。

 老年が唯一の師であったことは、天地がひっくり返っても変わることはない。

 じゃなければ、ここで今も稽古を続けちゃいなかった。


 食べかけのおにぎりを頬張る。

 塩が効いた濃い味付けがされているはずなのに、味がわからなかった。

「せーいーいーち?」

「──!?」

 にゅうっと、鈴の顔が正一の顔を覗き込む。

 いきなりだったからか、飲み込んだおにぎりがあと少しで喉に詰まりそうだった。

「そんな驚かなくてもいいでしょ。というか、あんたこういうのに弱いわよね」

「るっさい」

 胸をとんとんと叩きながら、ぶすっとした目で鈴を見やる。

「そんな顔しても謝らないわよ。いつもさせられてんのはこっちなんだから」

 と、鈴はにべもない。

 自覚はある。その証拠に、なんの言葉も返すことができなかった。

「でもさ……珍しいことをするのね、正一」

「珍しい?」

「アンタが頑なに嘘つき続けてるところ、初めて見た」

 鈴の目がじっと正一を見つめる。

 今度は、そっぽも向けなかった。 

 鈴がおもむろに、正一の額に手を伸ばした。

 そっと触れた先には、刀傷があった。

 あの日、老年につけられた傷だった。

 昨日つけられたと言ってもおかしくないほど、生々しく残っている。

 肩に受けた傷も、同様だった。

「ほんとのことさ、やっぱ言えない?」

 正一は、口を噤む。

 言葉にできない。

 というよりも、どう言葉にしていいのか、正一にはわからなかった。

「そっか」

 傷に触れていた手が額を滑り上がって、正一の頭を撫でる。

 母が子を慈しむような手つきだった。

「撫でられるような歳じゃあないが」

「だったら、もう少し綺麗に飯を食べられるようになりなさいな」

 む、っと口を窄める正一にふふっと笑みを見せながら、鈴はなおわしわしと頭を撫でる。

 ひだまりのような笑みだった。

 悪態を吐く口とは裏腹に、払い除けることはしなかった。

 むしろ、されるがまま。

 安息を覚えるこの暖かさに甘えてしまいたくなっている己を、否定することはできなんだ。

 己が体たらくに、内心呆れる。

 いくら剣が強くなっても──人を斬り殺していたとしても──鈴にはどうしたって敵いそうになかった。

「ま、話せる時になったらほんとのこと教えてちょうだいよね。アンタほどじゃないけど、付き合いは濃いからさ」

 おう、とだけ正一は応えた。



 道場で一人、また正一は剣を握る。

 鈴は帰っていった。夕飯時には遅れないように、なんてお節介を残して。

 握った剣を、正一はじっと見つめる。

 老年を斬って捨てた、あの剣だった。相変わらず無骨な刀身をしていた。

 重い。

 ずっしりとした重みが腕だけじゃなく、身体中にのしかかるようだった。

 きっと、剣だけの重さではない。

 凶器の重さに加えて、今は命を奪った重さもそこにはあった。

 剣を振ると、その重さはさらにひとしおだ。

 ビュンと、刃が風を切る。

 瞬間、まざまざと蘇る。

 肉を切った感覚が。

 骨を断った感触が。

 身体中に鳥肌が立って仕方がない。

 心臓の鼓動が早くなる。

 早鐘に周りの音がかき消されていく。

 

 ──恐れをなしたか


 もうこの世にはない声が、鼓膜を打った気がした。

 幻以外の何物でもないということは、わかっている。

 けれど、

「恐えよ」

 呟くように正一は答えた。

 命を張った戦いをしたところで、恐怖が拭えるなんてことはなかった。

 思い出すだけで、はらわたはやたらに震える。

 この恐怖は、いくら強くなろうが、人を斬って殺そうが、拭い切ることはできるまい。

 きっと、剣を握り続ける限り一生付き合い続けることになるのだろう。

 荒い息の中、今にも握った刀を投げ捨てたいという衝動に、しかし、正一は必死に抗う。

 人を斬った。それだけの理由で今更剣を手放すなんざ、正一にはできなかった。

 師への──己が斬り捨てた男への義理立てでも、ましてや供養でも、そんな大層なものではない。 

 ただ、怖かった。

 命を張るという恐怖よりも。

 人を斬るという恐怖よりも。

 何よりも怖いものが、ある。

 何もできんで、終わりたかはない。

 

 ──だったら、剣をやるかい


 今度は、懐かしい言葉が脳裏を過った。

 思えばそれが、始まりだった。

 己を押しつぶそうとする重さを、もう一度正一は振りかぶる。

 息を殺して構え、澄んだ眼差しでまっすぐ前を見据えた。

 瞳に揺らぎは無かった。


「やる」

 

 括った腹で背中を押す。

 地を踏み蹴って、刃は奔った。

 沸き続ける恐怖に向かって、挑まんばかりの一閃だった。

 


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死線の先へ 一齣 其日 @kizitufood

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