二 道中
江戸の西、日本橋を渡り甲州街道を行く途上に武州多摩はある。
ここを流れる多摩川により土地は非常に豊かだ。江戸で食べられる農作物の多くはここで作られているという。
本来は御法度で禁じられているが、多摩では剣術に精を出す農民が多い。甲州街道の宿場町である日野や八王子では強盗や殺人が頻発しており、地元民は自衛のために剣を取ることを奨励されていたからだ。
加えて、多摩は江戸に幕府が開かれて以来、幕府が直接治める直轄地の一つであったことも彼らの剣術熱を大いに煽っていた。農民たちは将軍様のお膝元で働いているのだという自負があり、忠誠心も人一倍に熱い。江戸から剣術の師範を招いて、道場を開く姿もここでは珍しくなかった。世が混沌としている今では、なおさら将軍様のために働きたいと熱意を燃やしている若者も多かった。
正一と老年は連れ立って街道を歩いていた。老年が刀袋を二つ背負い、そのほかの荷物を正一が持っていた。
猛暑だ。湿気が高いのもあいまって、足を動かしているだけでも自然と雫が落ちていく。
街道を行く者は十人十色だ。世情の騒がしさを現れているのか、行き来がやたらに慌ただしい。愉快げに神社仏閣巡りをしているであろう旅人もいれば、神妙な面持ちで江戸に向かう武士の姿もあった。
正一は、そんな旅人たちを対岸の火事のように眺めている。
世の動きに疎い男だ。ましてや動乱の渦中に飛び込もうとも考えちゃいない。世のことを考えるよりも、口に咥えた細い麦わらの管からシャボン玉をどれだけ大きく膨らませられるかの方にご執心だった。
街道は時折村落に差し掛かる。
青々とした水田の周りを子供達が駆け回っている姿が目に入った。走るのに飽きたら、今度は棒切れを手に取って剣術の真似事のように打ち合いを始め出す。ビュンビュンと振り回す様は無邪気そのものだった。
「正一が剣をやり始めたのは、あの坊主たちよりも背が少し伸びた頃だったな」
老年の口調は懐かしげだった。
「長屋にお前さんがやってきた頃は、おいらがたまに剣を振っていても興味を持たなかったくせにな」
「そうじゃの」
淡白に返事をする。
剣に興味を持つどころか、いかにも楽しげに棒切れを振るあんな子供達のような記憶は、正一には無かった。寺子屋で武士の真似事をする子供たちを横目に、シャボンを吹いたり虫をつっついている方がよっぽど好きだった。
いや、今でもそうだ。剣よりも、安穏に昼寝でもしてのんびりと過ごす方が性に合っている。
「だのに、よくもまあ今日までやってきたもんだ。しかもやたら真面目にな」
「そうかいの」
「そうさ。正直、お前さんがここまで剣に打ち込むたあ、思わなかったさ」
「火ぃつけたのはおんしじゃろう、おっちゃん」
「そうだったっけな」
「そうじゃけぇ」
棒切れを振り回す子供達のさらに奥を見やる。子供達より頭一つ分背の高い農民の子が、筋の良い構えで木刀を振っていた。
随分と前の己の姿と重なって見えた。
安穏というのはひょんな拍子で奪われかねない。
昔の話だ、まだ正一が剣を知らない頃である。
虫を可愛がっていた。若い緑の色をしたカマキリだ。目玉の大きい頭をくりくりと動かし、獲物を見つければ俊敏にカマを振り上げ捕える様に、正一の童心は魅了されていた。
どこに連れていくにもカマキリを肩に乗せ、寺子屋でもお師匠の話をろくに聞かず、カマキリを愛でていた。鈴にうるさく言われても、どこ吹く風でカマキリと共に日を過ごしていたほどである。
そんな呑気きままで好き勝手に過ごす正一をよく思わない子供は多かった。近所の長屋で一番を気取ってる餓鬼大将も、その一人だった。
寺子屋の帰り道、鈴と別れてカマキリと遊んでいるところを餓鬼大将率いる集団に囲まれた。棒切れや石を持っていた。正一に痛い目を見させようとする魂胆が見え見えだった。
正一は初め、意にも返さなかった。己の状況をちゃんと理解できていなかったというのもあるし、騒々しく喚く餓鬼大将の言葉に耳を貸すのに煩わしさを覚えていたのであろう。
子供にも子供なりの自負がある。餓鬼大将は相手にされていないとわかるや、堪忍袋の尾が切れたのか集団に命じて正一を袋叩きにしようとした。
正一の身のこなしは、剣をやる前から軽かった。子供が振る棒切れなんぞは訳もなくいなしていた。
しかし、肩に乗せていたカマキリがビュンと振られた棒切れに反応して地面に落ちた。そのカマキリに集団の足が殺到する。
頭を過ぎった悪い想像。心臓が、いても立ってもいられぬとばかりに早鐘を打った。
カマキリを踏み潰そうとする輩どもに向かってやめんかと叫びながら、カマキリを守ろうと手を伸ばす。
届かなかった。
逆に捕まって投げ転がされたところを、餓鬼大将の棒でめったうちにされた。
なんとか立ちあがろうとしても、今度は別の子供の棒切れに背中を殴られて倒される。地面に着いた手も払われ、頭を足で踏みつけられる。そのまま袋叩きにされた。
足掻いた。
足掻こうとした。
しかし、いくら伸ばしても、何度も伸ばしても、引っ掴まれた手はとうとうカマキリに届かなかった。
餓鬼大将たちの気が済んだ頃には、正一はボロ雑巾のようになっていた。
可愛がっていたカマキリも、目も当てられないほどぐちゃぐちゃに踏み潰されてしまっていた。
痛みが残る体を起こし、カマキリの亡骸を掬い取る。俊敏さを生み出す力強い体はもう見る影も無い。
正一は、じっと動かなかった。亡骸を掬った手をそのまま、うずくまって動かなかった。
胸に、ぽっかりと大きな穴が空いたような心地だった。
昔、ずうっと昔に似たような心地を突きつけられた気がしたが、今の正一は思い出すべくもない。
「どうした坊主」
どれくらいの時間が経ったかわからなくなった頃、上から声が降ってきた。見上げると、時折剣を振っている見慣れた男の顔があった。
後の老年だ。
男が膝を折る。正一と同じ目線になって、手のひらの上を覗き込んだ。
「……悔しいか」
男が問う。どうやら、先の経緯を全て見ていたらしかった。
「わからん」
正一はまた、カマキリだったものに目を落とす。
生気の失われた瞳と目が合った。
胸の奥から、込み上げるものがあった。
「わりゃあこいつを愛でていただけじゃ。それがなんで、こいつがこんな目にあったかがわからん」
「ほう」
「それに、じゃ」
ふるふると正一の幼い手が、体が震えていた。
呆然とした目から雫が一つ、二つと落ちて、亡骸が濡れた。
「なんでわりゃあ、こいつをむざむざ死なせてもうた。こいつと一緒に逃げることができなんだが」
「違うな」
正一の顔が、男を向く。
子供を宥めるような声ではなかった。
男が一端の男に投げるような声色だった。
「逃げようとするだけじゃあ、この世はどうにも好きに生きていけねえもんさ。お前さんが今逃げたところで、あの餓鬼どもは何度だって気に入らねえお前さんを追ってかかってくるぜ」
「……めんどいの」
「ああ。この世は面倒だ、嫌になる程面倒だぜ。けどな、その面倒ごとからテメエを救ってやれるのは──テメエごと大事なもんを救ってやれんのは、テメエしかいねえんだぜ」
「そう、いうもん……かい」
「そういうもんだ」
「……ほう、か」
少しして、正一は立ち上がった。
おもむろに手で穴を掘り始める。小さな穴だ。亡骸を葬るにはちょうどいい大きさだった。
そこにカマキリの亡骸を丁寧に埋めてやる。出来上がった土の山に形のいい石を選んで墓石にしてやった。
正一なりに立派にして作った墓だった。
そっと、その前に膝を折る。
「こういうんは、嫌いじゃ」
手を合わせながら、正一は呟く。
男は隣に立つだけで、何も言わなかった。
「めんどうごとは嫌いじゃ。喧嘩じゃってめんどうじゃ。じゃけんど……愛でてたもんがこんなにされちゅうに、なんにもできんかったおんどれは、もっと嫌いじゃ。こいつにどんな顔しちゃあいい」
絞り出すようだった。
まだ生え変わっていない歯がぎりっと鳴ったのを男は聞き逃さなかった。
「どうしたい、坊主。今のテメエに納得いかねえんだろ」
「そう、さな……」
合わせていた手を解く。
瞳に溜まっていた雫を拭い、天を向いた。
「繰り返しとうない。こないな思いは、二度と御免じゃ」
「だったら、剣をやるかい」
男は、腰に差していたそれを鞘ごとぐいと抜くや、正一の前に突き出した。
「俺が鍛えてやるよ。面倒ごともぶった斬って、そこに眠る奴にも顔向けできるような、そんな男にな」
不敵に笑う男をよそに、正一は刀に釘付けだった。
初めて刀をちゃんと見た。このご時世刀は珍しくないが、突きつけられるように刀を見たのは、初めてだった。
鞘も柄の拵えも、お世辞にも綺麗とは言えない。装飾など要らぬと言わんばかりに無骨だ。
その無骨さが、むしろどんな刀よりも刀らしく思えた。
「……やる」
突き出された刀を、掴んだ。
初めて手に取った刀はずしりと重く、背中にぞくりとしたものを走らせる。
しかし、己が手で取った刃だ。
力強い拳でしかと握りしめていた。
かつて剣を取った手を見ると、剣ダコでいっぱいになっていた。一端の剣客の手だった。
「大家の嬢ちゃんは、まだどうして正一が剣を始めたか知らんみたいだったぜ。話してねえのかい」
「話すか。話したらまた面倒ばかりやりそうじゃ、あいつは」
「違いねえ」
正一のあんな話を聞いたら、きっと鈴は顔を真っ赤にして餓鬼大将たちの元に殴り込んでいっただろう。血の気の多さは男顔負けの娘である、話が大きくなることは想像するまでもなかった。
それに、意地もあった。
普段は鈴に引っ張り回されたり、甲斐甲斐しく世話を焼かれていたりする正一だが、こういう揉め事に鈴を巻き込みたくはなかった。
理由なんてわからない。
ただ、迷惑をかけることは多々あるが、己の面倒ごとまで鈴にケツを拭いてもらうというのは、どうしても躊躇われたのだ。
そうだ、鈴の目があったからこそ剣に打ち込んだとも言ってもいい。一から十の全てまで、鈴の世話になるのは嫌だった。
己が手で取ったこの剣だけは、誰の手も借りたくはなかった。
「へへっ。普段はのんべんだらりと暮らしてるくせに、ちゃあんと一丁前な部分もあって安心するぜ、正一やい」
「馬鹿にすんなや」
口に咥えた麦わらの管からシャボンを膨らますと、当てつけに老年の顔へと放ち打つ。
パチンと鼻先でシャボンが割れて飛沫が飛ぶが、老年は瞬き一つしなかった。
「ま、でもあの嬢ちゃんは離さない方が良いぜ。あんな良い娘っ子は他じゃ見ねえからな」
コツンと、老年は肘を正一に当てる。
未だ恋も情事も知らぬ正一は、何を言うとるんだと言いたげな顔をするばかりだった。
「分かるさ。お前さんにとってあの嬢ちゃんがどんだけの存在か、そう遠くないうちにな」
軽い口調ながら、どこか鉛じみた重さがその言葉にはあった。
喉に骨が刺さったような違和感があったが正一は気にも留めなかった。細かいことを気にしないのが正一という男だった。
話しているうちに甲州街道もだいぶ進んでいた。府中の宿場町も越えて辺りは木々と山々でいっぱいだった。
ふと、老年の歩みが次第に緩み始める。
日はまだ西を向き始めたばかりである。真夏の暑さが和らぐにはもう少しかかりそうだった。
近くに休む場所もない。次の宿場町までもまだかかる。
「ここいらか」
ぼそりと老年は呟いた。
「外れるぞ、正一」
老年の足が、街道を外れて木々が生い茂る山の方へと向かっていく。全く人気のない道を行こうとする老年に首を傾げつつも、正一は老年の後をついて行った。
進めば進むほど足元の草が膝まで伸びていき、あたりは毒々しいほどの緑でいっぱいになっていった。葉に覆われて、うざったくてしょうがないくらいに肌を焼いた日差しもぽつぽつと少なくなっていく。
獣や鳥の気配も感じない、不気味なほどの静寂へと突き進んでいくようだった。
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