死線の先へ

一齣 其日

一 稽古

 絡み合った刃は硬く乾いた音を鳴らす。

 弾かれた反動を乗せて一合、呼吸も置かずまた一合と撃ち合いは続いた。

 正一は顔どころか、雑ったらしい総髪に纏めた髪も水を浴びたように濡れている。額にも張り付いていた。

 呼吸に荒い息が混じりかけている。

 先ほどから腕に痺れるような痛みも走っていた。

 既に、時間なんて忘れるほど彼らの撃ち合いは続いていた。

 気を抜けない撃ち合いだった。

 この頃流行りである撃剣お馴染みの防具や面の一切を、正一は身につけていない。

 握っている得物も竹刀ではなく木刀だ。打ちどころが悪ければ、最悪死に至ってもおかしくない。

 江戸の大道場で竹刀稽古に励む武士たちからすれば、乱暴極まりない代物だろう。

 加えて容赦がないことに、時に剣線は急所を狙って描かれる。

 今もそうだ、肝臓を狙った一振りが正一に迫った。

 これを躱し、切っ先を対手の喉もとに向けて牽制しながら正一は間合いを取る。

 一度膠着したとて、緊張を途切れさせることはできない。

 実戦に限りなく近い稽古が、そこでは行われていた。

 老境を迎えつつある対手の男が、切っ先をゆったりと上げる。

 老年の方も汗が数十年使い古しの皮を濡らしてるが、顔は涼しげだ。

 緩やかな空気が二人の間に数秒流れる。

 老年が動いた。

 切っ先が正一の眉間目掛けて振り下ろされる。

 先の緩やかさが嘘のように鋭かった。

 半身に躱すが、刃は軌道を変えて反撃を許さぬとばかりに正一の木刀を弾き落とす。

 構わなかった。

 正一は木刀を捨てながら、老年の懐に滑り込む。

 老年の膝裏に足をかけると、顎下に手を当て勢いのままに投げ倒した。

 板間が軋む。

 正一は拳を握る。

 上を取るや、板間の上の老年に狙いを定めて振り下ろした。


「はい、そこまでっ。あいっ変わらず殺し合いじみた稽古をしてんじゃないよ、お二人さんは」


 手を打つ音とともに響いた娘の声に、正一の拳は止まっていた。

 あと二、三寸で老年の鼻を打つあたりまで拳は迫っていた。

「いいところで大家の嬢ちゃんが割ってきちまったなあ、正一」

 老年がにいっと微笑う。

 娘が止めなければ鼻は無事じゃすまなかったというのに、名残惜しそうな口ぶりだ。

「いいところって、誰が後で手当すると思ってんのさっ。骨折られでもしたらこっちが大変なんだから……」

「うっさいのぉ。それより飯なんじゃろ、鈴。はよくれ」

「そうだそうだ、正一もこう言ってんだ。早く飯にしてくれや、嬢ちゃん」

「心配してんのにその口は無いでしょうがっ。そんな口を叩く奴らには米一粒あげないよっ」

 せかせかと口を荒げる鈴を前に、正一も老年も態度を改めようとはしない。むしろ、息の合ったへらず口で鈴の口撃にも応戦の構えだ。

 鈴自身、この二人が言葉を尽くしたところで態度を改めるような相手じゃ無いことを知っている。そのうち諦めたように、持ってきた包みを二人の前に開いた。

 綺麗な三角に握られたおにぎりと、添え物にきゅうりの漬物があった。

 正一の目が俄かに輝く。胡瓜の漬物、それも鈴お手製渦巻漬けの小口切り。天保年間に発刊された料理指南書にも載っている渦巻漬は、正一の大の好物だった。

 正一は渦巻漬を鈴が漬ける姿も食い入るように見るほど、胡瓜の漬物に目がない。いただきますも無しに手が伸びるのもしょうがないだろう。

「あ、こらっ、あんた手を合わせるくらいはしなさいって」

 ペしんと胡瓜を摘む手を叩いても、正一は構わず次の獲物へと手を伸ばす。ポリポリと歯ごたえのいい音を立てて、また一口だ。どこか、微笑ましい光景が繰り広げられていた。

 老年も、正一に続いておにぎりに手を伸ばした。一口噛むと、口の中に塩気がよく効いた旨味が広がっていく。具は入ってなかったが流した汗も相まって、この塩気だけで十分飯は進む。

「相変わらず、大家の嬢ちゃんは飯が美味い。いい嫁さんになれるなあ」

「嫁さんだなんてよしてちょうだいよ、おっちゃん。あたしはこいつの世話で手一杯よ。旦那なんて先の先さ」

 と、今度は口いっぱいにおにぎりを詰め込んでいる正一の背中を叩く。

 稽古では絶えず緊張感を保っていた正一だったが、少し剣を離すと呑気と食い意地が過ぎる。その姿を、どうにも鈴は放っておくことができないらしい。弟でも構うように甲斐甲斐しく世話を焼いている。

 事実、二人は姉弟同然と言ってもいいような間柄だった。

 ──もう十年とちょっと前のある夜のことだった。老年が住み、また鈴の両親が大家をする長屋に、一人の童が逃げ込んできた。傷は無かったが血に塗れて憔悴し切った様子だった。

 面倒ごとに巻き込まれているのは火を見るよりも明らかだったが、大家は見て見ぬ振りができぬお人よしだった。ほとぼりが冷めるまで童を長屋に匿った。特に詮議やら何かの追手が来るなどということはなかったが、何の因果か童は記憶を失ってしまっていた。身よりもわからない童を、大家はさらに放って置けまいとついには自分の元に引き取って、一人娘の鈴と一緒に今日まで育ててきた。

 それが、正一だった。

 思い出してみると、鈴も両親と一緒になって正一の看病をしていた。同じ年頃の子が血に塗れて這々の体だったのだ、放って置けなかったのだろう。夜通し心配そうに手を握っていた。

 出会いが出会いだったからだろうか、鈴の世話焼きは今の今まで及んでいる。

 大層なことに巻き込まれたろうに、成長するにつれてすっかりのんびり家になった正一を、慌ただしくあっちらこっちら引っ張っていく鈴。二人のそんな姿を小さな頃から見ていたからか、老年はすっかり大きくなった背中に感慨深さを覚えてならなかった。

「時が経つのは早えな。どおりで、おいらの顔にも皺が増えるばっかりだ」

「なんだいなんだい、そろそろおっちゃんからじっちゃんになるってかい?」

「冗談はよくねえ、嬢ちゃん。まだまだおっちゃんでやらしてもらうよ」

 くいっと竹筒に入った水を飲み干す。稽古で乾いた喉がみるみる内に潤っていく。腹もまだ満足とはいかぬようで、鈴の握ったおにぎりをまた一つ手に取った。

 稽古に打ち込んでいる時には全く耳にも届かなかった蝉の鳴き声に、今更ながら耳を傾ける。隣の夫婦じみた漫才も相まって、心地のいい時間だった。



 元号が安政に変わって三年目になる。

 数年前に浦賀湾に来航してきた黒船をきっかけに、江戸のみならず全国各地が混乱の渦中にあった。

 追い打ちをかけるように、昨年は江戸の街々を破壊し尽くした大地震も起こった。水戸のお偉い先生が亡くなっただとか、世直しの為にナマズが起こした地震だとか、この地震を巡ってさまざまな風説が飛び交っているが、どうも正一も老年もそういった類の話には興味がないらしい。

 夢中になるのは剣の稽古ばかり。流行りの大道場では剣のみならず世の中を大いに熱く論じているという話だが、二人はもっぱら剣でしか語り合わない。

 たらふく飯を食って一息つくと、また剣を握って撃ち合いを始めた。

 間合いを取り合って、隙あらば果敢に打ち込むを繰り返す。

 鈴は背中が冷える心地でそれを見守っていた。

 殺し合いじみた──と鈴は言ったが、間近で見てみるとそれはもう殺し合いにほど近い代物だ。

 互いに紙一重で剣線を捌いているが、手元が狂えばどんな怪我を負うかもわからない。

 正一の額に切っ先が掠った時は、ひっ、と思わず悲鳴を上げてしまうほどだった。

「なんだい嬢ちゃん、怖かったかい?」

 どうやら、剣風飛び交う中でも老年には鈴の悲鳴が聞こえたらしい。揶揄うような顔を鈴に向けた。

「こ、怖くなんか無いわよっ。散々見ているんだし、い、今更怖いわけ……」

 必死に取り繕ってみせるが、強気な口とは裏腹に顔はいく筋かの冷や汗が滴っている。

 老年は鈴の顔を見て、構えていた木刀を下ろした。

「まあいいか。正一やい、今日はここまでにしとくかい」

「ん、そうかいの。んじゃあとっとと体流してくるが」

 体にベッタリと張り付くほど濡れた道着を脱ぎながら、正一は外にある井戸へと向かってく。少しして、ざばっと水を打つ音がした。

 緊張感の抜けた道場に、ゆるい空気がまた戻っていく。

 張り詰めたものを吐き出すように、鈴は息を一つこぼした。

「随分強くなったと思わんかい、嬢ちゃん」

 老年が、また水の音が鳴った方向に顔を向けながら口を開く。

「もう、三度に一度はおいらのタマを取っている。嬢ちゃんも見たろ、おいらの額に拳を落とそうとした様を。よう強くなったわ」

 実際、強くなった、とは鈴も思っている。

 正直いきなり剣術を始めると言った時には驚いたものだ。しかも、師匠が長屋で呑気に過ごしていた浪人の老年──鈴曰くおっちゃんだというから、鈴の驚きは二重だった。

 正一は寺子屋ではロクに学問に励まず、サボりや昼寝もしょっちゅうだった。夢中になっていることいえば食い物に虫、あとはシャボン玉くらいなものだ。

 加えて、かつての正一はいじめっ子に対しても反抗もせず、むしろ意にも返さず脱兎のように逃げるくらいの童だった。あまりの逃げっぷりに情けなさすら感じていたのを覚えている。

 そういう訳もあって正一が剣に打ち込むどころか、剣術と正一がどう繋がるのかもわからなかった。

 だが始めてみればどうだ、剣だけにはやたら正一は真面目だった。老年の声があれば途中だった飯もかきこんで飛んでいき、夕暮れ時になってやっと身体中を汗いっぱいにして帰ってくる姿が日常になっているほどだった。

 いつのまにか、ヒョロリとしていた正一の体は、どきりとしてしまうほど肉が引き絞られて筋張っている。道着も鈴が洗濯しているが、いくらすすいでも落ちない汗染みの数々が、正一の稽古の量を物語っていた。

 今では真っ向からの撃ち合いにも果敢に応じてみせていた。冷静に剣線を見切って、時には老年の首に切っ先を突きつけるといった光景ももう珍しくない。

 頭は鈴をやっと越す程度の小ささなのに、剣を握っている時はやたら頼もしく、大きく見えていた。

「でもさ、せめて防具くらいつけて欲しいなとは思うよ、おっちゃん。江戸のどんな道場でも竹刀に防具つけてやってんじゃん。というか、昔は正一もおっちゃんも防具つけてたじゃん。どうしてやめちゃったのさ」

「道場剣術なんて、実際の斬り合いじゃあ役に立たん。それに防具をつけてたのは強くなる前に死んじゃあもったいねえと思ったからさ。元からいつかは外すつもりだったよ」

「実際って……何言ってんのさ、正一は斬り合いなんてしないよ。アイツ、争い事はとかく面倒だって言ってるし。斬り合いどころか喧嘩だってする姿見たことないよ、あたし」


「避けられンこともあるだろう、人生。男ってのは、時にゃあ真っ向から我を通さなきゃいけねえ時があるのさ」


 冷えた声だった。

 つい先程の軽快な調子が嘘のような、腹の底がゾッとするような圧が滲み出ていた。

 やたらにぎらついた瞼の奥から、知らない男の貌が覗いているような気がした。

「おっ、ちゃん……?」

 鈴の声に、ハッとしたように老年は顔を向けた。

 さっきのような圧はもう無かった。

 知らない男の貌は、もう瞼のどこにも見えなかった。

「まああれだな、逃げずに立ち向かうことができる強さってのがたまにゃ必要ってことさな」

 黄味がかかった歯を見せて、にっこりと老年は笑みを見せた。

 目を擦ってしまうが、気軽さのある雰囲気は鈴がよく見知った老年のものだった。

 何かの錯覚だったのだろうか。

 しかし、もうそこに見たものは無かった以上、鈴は余計に踏み込むことはしなかった。

 長く一緒の長屋に暮らしていても、人には言えぬ過去がある者は多い。大家の娘という立場もあり、そういう者たちを多く見ていた。己の影に追いやったものを暴く趣味など、鈴には無かった。

「つか、嬢ちゃんも剣術やったら、正一より強くなるかもなあ」

「嫌だねえ、あたしゃ炊事に洗濯で手一杯だよ。ま、正一に負けないってのは同感だけどね」

「確かにな。いくら強くなろうが嬢ちゃんには、アイツは敵うまいねえ」

 そんな話をしている内に、流した体を手拭で拭いながら正一が戻ってきた。

 いつの間にか口に細い麦わらの管を咥えて、シャボン玉を膨らませていた。

「全く、相変わらず好きだねえアンタも」

「別にええじゃろ……と、そいやおっちゃん、確か明日は出稽古じゃったな」

 荷物をまとめながら正一が言う。鈴は寝耳に水だった。

「出稽古? 一体どこに行くってのよ」

 正一と老年は、鈴の両親である大家が知り合いに掛け合って借りた、古い建物を改装して道場としていた。

 街中からは外れており、周りには田園が広がっている。まだ江戸が田舎であった頃の面影を残す静かな場所だ。人通りも少なく稽古をするにはうってつけだった。

 正一以外に門人はいない。そもそも、正一以外の弟子を老年は取ろうとしなかった。稽古であればわざわざ出稽古などに行かなくとも、この道場で事足りる。

 加えて、正一が剣術を始めてから今日まで出稽古なんてやったなどという話は聞いたことがない。

 先ほど見えた顔も相まって、つい訝しげな視線を老年に投げる。

 それに老年もどうやら気づいたらしい。

「心配すんなって、嬢ちゃん。正一が強くなったのを見たろ。そろそろ外の流派や剣とやり合ってみるのもいいかな、と思ってよ」

 彼の口ぶりに誤魔化しているような素振りはなかった。

 とりあえず、鈴は納得することにした。

「……それで、行くアテはあるのかい?」

「ま、そうだな……武州の多摩あたりに知り合いの剣客がいるからな、ちょいと久しぶりに顔と弟子見せしてくらあ」

「それ、出稽古っていうのかしら……」

「どうせ剣を交わすことになるんだ、稽古にゃ変わりねえ」

「そういうものなのかしら、ね……」

 呆れたように頭を掻く鈴を横目に、正一はすっかり帰り支度を済ませたようだ。

 昼もたらふく食べていたというのに、外の蝉に負けず劣らず盛大に腹の虫が鳴っている。気づくと、老年と会話を続けていた鈴に、訴えかけるような眼差しを送っていた。

「あー、はいはい、わかったから。帰ろっ、正一」

「んが。そんじゃあ、おっちゃん、また明日もよろしゅうな」

「いつも正一をありがとね、おっちゃん」

 御両人ともどもぺこりと頭を下げると、日が西にすっかり傾いた道を並んで歩いていく。

 腹が減ったとうるさい正一を、鈴が荒っぽくも宥めている様子が窺えた。

 青々とした稲穂が揺れる。

 二人がいた時は火照った体を気持ちよく冷ましてくれていた風が、老年一人になるとどこか荒涼然としていた。


「明日、か」


 二つの背中が見えなくなると、老年は道場の戸をぱたんと閉じた。

 日が没して道場の中に陰が満ちていく。

 二人に見せた笑みは無かった。

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