三 嘘吐

 鬱蒼とした雑木林を、二人はもう半刻も歩いていた。

 草木を踏む感覚やふいに目の前に現れる枝木にも、いつの間にやら体は慣れてしまっていた。

 慣れたとはいえ、人が歩くような道ではない。

 進めば進むほど険しさが増していく。

 手入れもされていないのか、塞ぐように枯れ木が倒れている場所もあった。

 並の獣でも、鬱陶しいこの木々を分け入っていくことは難しいように思えた。

「おっちゃん。おっちゃんのダチっつーヤツの家はまだかいな」

 老年の背中に向かって言葉を投げかけるが、返事はなかった。

 雑木林に入ってから、ずうっとこうである。街道を歩いていたときは正一よりも老年の方が言葉が多かったのに、この半刻ついに老年の声を聞くことはなかった。

 ため息がわりにシャボンを吹かす。あてもなく伸びた枝木に触れてすぐ割れるから、つまらなかった。

 時々吹く風に草木が揺れる音ばかりが耳にこだまする。

 夏だというのにやたら冷たく、背筋を寒いものが撫でた。

 妙な雰囲気を正一が体感している最中、鬱蒼とした木々がうちつけに開けた。

 空地だ。

 木々に囲まれた、正一と老年が使う道場の広さほどある空地だった。

 老年の足が止まる。周りに人の気配もなければ、老年の知り合いらしき剣客がぬっと現れるということもなかった。

 もしかしたら荒屋でもあるのだろうかと正一は辺りを見回したが、草がほうぼうと生えているばかり。

 やっと見つけたのは人の手が入っていないような、朽ちた侘しい祠だけだった。

 ただの空地──それ以上でも、それ以下でもなかった。

「おっちゃん──」

「わりぃ、正一。全部嘘だ」

 老年が刀袋を下ろす。

 いつも使う木刀が入っているであろうと思っていた袋の中から徐に出したのは、二振りの真剣だった。

 その内の一振りに覚えがあった。

 剣をやる、正一がそう言った時に手に取ったものだった。その刀が持つ無骨さは見間違えようがない。ずっと脳裏に焼きついていた。

 それを、老年が投げ渡す。久々に掴んだ刀は、初めて握った時よりも手に馴染む。ずっと寝食を共に過ごしていたほどの感触さえあった。

 いや、正一の手の方が刀に馴染む代物になったのか。剣を取って十年近く、生半可に振り続けてきた訳じゃなかった。

 しかし、だ。

「なんで、今ンなもんを──」

 戸惑いを隠せない正一とは裏腹に、老年はもう一振りを腰に差して正一に向き直った。

 稽古をする時、老年の眼差しは普段の軽い調子と違って、眼光鋭いものがある。一度逸らしたら、途端に剣に斬られるような、油断ならないものがあった。

 それと同じ眼差し──否、稽古の時とは比べ物にならない、抜き身の刃のように鋭利で危殆な眼光に鳥肌が立った。

「嘘だと言ったろう、正一。出稽古も、知り合いだって奴も、全部嘘だ」

 淡々とした声色で、老年は言う。

「だいぶ前から決めておった。今日この日にケリをつけると」

「何……言っちゅうがか」

「まあ、聞け」

 老年は虚空を見上げる。

 いや、虚空よりももっと遠いところを見ているようですらあった。

「ちょっとした昔話だ、正一」

「どうして昔話なんぞ」

「言ったろう、ケリをつけるためさ」

 老年の視線に、矢で射抜かれたような錯覚を覚える。

 声にならなかった。

 混乱と動揺が目まぐるしく正一の胸中を苛む中、老年は淡々と言葉を紡ぐ。

「なぁ、知っているかい正一よぉ。男ってのはな、負け犬にもなれない時があんだよ、情けねえ話だがな」

 静かに語る老年の口には、いくら皮を被っていても隠しきれない黒いものが首をもたげていた。



 己よりも数段上の猛者を前にして、かつて男は逃げ出した。

 男は剣客だった。故郷の藩において敵は無く、名を轟かせたほどの剣技を持っていた。

 男は剣の腕を見込まれて、藩の闇の仕事を請け負うようになった。

 男に出世欲は無かった。剣を振い己と同じく闇に蠢く猛者と刃を交えることができればそれで良かった。

 武州多摩──男が仲間たちと仕事を終え朽ちた祠を目印に潜んでいる中で、奴は現れた。黒い羽織に身を包む、中肉中背の武士だった。

 奴は仲間を一太刀でたちどころに葬り去った。残る仲間達が抜きざまに斬りかかっても、軽やかな身のこなしで躱して一刀の元に斬り伏せた。

 猛者だった。

 望んでいたはずの猛者を前にして、男は逃げ出した。

 肝が震えて、鍛えた腕はろくに剣も握れなかった。

 剣線も見えなければ、身のこなしも追いつかない。実力の差を知った男が取ったのは、ただただ遁走。

 仲間の亡骸どころか、追ってくる武士にも振り返らなかった。一目散に逃げ走った。

 方向も知らずに走ったからか、江戸へと男は辿り着き、身を任せるまま人の密集する長屋へと隠れ潜んだ。

 数年は、奴の影に怯えて暮らした。外に出ることもせず、ひたすら日陰に身を潜めることに努めた。

 毎夜、悪夢に苛まれた数年だった。長家の戸がガラリと開いて奴の刃が向けられる、そんな夢をずうっと見ていた。

 それが、ある日ぱたんと止んだ。

 いくら寝ても、もう悪夢を見ることは無くなった。

 夢枕に奴が現れなくなって数日、やっと逃れることができたと、男はほっと息を吐いた。

 しかし、程なく男の安堵は失せた。

 代わりに、湧き出でたのは憎悪だ。

 拭い難い嫌悪だ。

 そして、すすぎ落とすことのできない恥だった。

 男の中で業火のように渦を巻いたそれらは、心身ともに焦がす勢いだった。

 猛者を求めて闇に沈んだはずなのに、その猛者からは背を向けて逃げ去り、挙げ句の果てに命を拾ったことに安堵した。

 恥知らずにも程がある。

 負け犬にすらなれなかった男は、斬られるにも値しない。とうとう奴が夢枕から失せたのも、そういうことなのだろう。

 酷い恥辱と屈辱とが男を襲う。

 もう二度と、剣なんぞ取る資格もないとさえ思った。

 なのに、男は剣を手放せなかった。

 己の誇りを捨てることができなんだ。

 一人の男として、武士として生まれ出た男は、屈辱と恥辱に塗れてなお誇りを握り締める。

 このまま惨めには終われない。どうせ終わるのなら、もう一度奴に挑んで終わりたい。

 逃げ出すことしかできなかった己に決別を。

 負け犬にすらなれなかった男はその日、新たな日の出を見た。

 目が焼けるほどの眩しさだったが、瞬き一つしようとはせなんだ。



 老年の語る昔話に、正一は身じろぎもせず耳を傾けていた。

 語りは淡々としていたが、時折頭を覗かせる激しい情動は、初めて老年に見るものだった。

 もう数えることも出来ないほど剣を交えてきたはずだった。なのに、この老年のことを何も知らなかった──何も知ろうともしなかったことを突きつけられたような気分だった。

「……おっちゃんのこたあ、ようわかった。わかったがな……」

 未だ受け止めきることの出来ない乱れの中で、正一は口を開く。

「それが、どうしてわりゃと関係あるが。どうしておっちゃんは、わりゃとケリをつけなきゃああかんのじゃッ。ケリをつけるんならおっちゃんを斬ろうとしたヤツじゃあないんかッ」

「正一よお、そりゃ簡単なことさ」

 スラリと、老年が刀を抜いた。大きく乱れを打った刃紋が刀身に浮かんでいる。刃が触れただけで、そこらに伸びた草木がはらりと落ちた。

 その切っ先をまっすぐに向けて、老年は薄く笑った。


「お前さんが、その男の倅だからさ」


「──は、」

 言葉が続かなかった。

 老年の言うことに理解が追いつかない。

 思考がすっかり止まって、薄い笑みを見つめることしか正一はできなかった。

「お前さんが長屋に逃げ込んできた時はびっくりしたぜ。あの男がついに現れたのか、そう思うほど幼いながらに面影があったからな。だが、同時に歓喜もしたよ。研鑽を積んで数年、さらに奴を探し続けて数年、ついに好機がやってきたのだと。皆がお前さんにかかりっきりになっている間にお前さんが残してくれた血の足跡を辿って、おいらは奴をやっと見つけた。もう刀も抜いてたっけな。けどよ──もう奴は、この世にゃあいなかったのよ」

 老年が辿り着いたそこは、血の海で満ちていた。

 畳も障子も赤い飛沫が数多に飛んでいた。

 夢にまで見た奴は、物も言わぬ屍とかしていた。多勢に無勢だったらしく、体のあちこちをなます斬りにされていた。

 だが、最期の時まで、奴は大立ち回りをしていたのだろう。握っていた刀はすっかり刃が溢れていた。広がっていた血の海も、一人のものとは思えない量だった。

 どうでもよかった。

 そんなこと、どうだってよかった、男には。


「おいらはさ、奴と戦い屈辱を晴らすことだけが全てだった。死んだっていい、負け犬になったっていい。奴と堂々に戦えさえすればおいらは十分だった。満足だった。──それがどうだッ、奴はおいらと戦う前に死にやがったッ! おいらを負け犬にもしねぇままで逝きやがったッ! 笑い者にも程があるぜぇ、全くなッ!」


 茫然自失。

 唐突に明かされた、脳の片隅にも記憶が無い父の話を聞かされても、全く現実味を感じることができなかった。

 顔も思い出も思い出せない父親など、正一には他人に等しい。

 むしろ、誰が父かと答えるなら、正一は──

「──だが、奴はお前さんという倅を残してくれた」

 冷氷よりも冷たい言葉が、正一を現実へと引き戻す。

 狂炎を帯びた老年の瞳が正一をはっきりと映していた。

「正一よお……お前がちゃあんと奴の血を継いでいてくれて安心したよ。稽古でおいらのタマを取るほどになってくれたからなあ」

「……おっ、ちゃん」

「抜けい、正一」

 渡された刀は、まだ正一の手の中で握られたままだった。柄に指すらかけちゃあいない。

「ほんとにやるんか、おっちゃん」

「やるさ。この期に及んで冗談なんぞ言うかい」

 愚問、だった。

 正一がわざわざ聞かずとも、老年の冷徹な眼差しは己が正気と真とを雄弁に語っていた。

 つうと、冷たい汗が頬を垂れていく。

 体の震えが止まらない。

 足が、ジリっと下がりそうになる。


「いつか言ったぜ、この世は面倒だと。その面倒ごとが今、お前さんの前で牙を剥いているんだ。その刀を抜く時じゃあねえのかい」


 心臓を鷲掴みにされたような気がした。

 あのカマキリが脳裏を過ぎる。

 正一は、歯噛みした。

「……ち、くしょうがッ」

 握った刀を腰に差すや、破れかぶれに刃を抜き放った。

 真剣の重みは知っている。物は試しと稽古で竹を斬ったこともある。すっぱりと斬れたが、己が斬るのはせいぜいこの竹くらいなものだろうと思っていた。

 それがどうして、人に向けようとは夢にも見ちゃいなかった。

 それも、師と仰いだこの老年を相手に、だ。

 人に向けた刃は、実際に加えて凶器としての重さがかさ増しされたように腕にのしかかってきていた。

「それでいい、正一」

 老年が構える。切っ先を正一の喉元に向けたまま、青眼を取った。

 いつもの稽古と何ら変わりない構えだ。

 違うのは、刃に乗った殺気の密度か。

「勝負──」

 たった二文字の言葉は、退けないところに立ってしまったと痛感させるには十分だった。

 どくどくとけたたましく鳴る鼓動を感じながら、正一は同様に青眼を取った。

 殺し合いじみた稽古をずうっと繰り返していたというのに、本物の殺気を前にして切っ先の震えは止まらない。

 静黙。

 時折吹いていた風も嘘のように止んでいた。

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