荘周之夢(下)

*****

「見事な舞であった」

 秋も深まってきた夜。

 蟋蟀の鳴き声が遠く響き、朱色の提灯が辺りを照らし出す中、大王様は飽くまで穏やかに微笑んで頷いた。

「皆、良くやってくれた」

 浅黒い顔に比して鬢には急速に白い物が増えた呉王夫差は語る。

「そなたたちはわしの宝だ」

 自慢や満足よりも苦渋のどこか滲む声だ。

「中原のどこを探してもこの宮殿につどいしそなたたちほど美しく、また、才華に恵まれた女子おなごたちはおるまい」

 大王様の目は、しかし、剣舞を終えてひざまいた私たちはもちろん、すぐ傍らで琴を携えた西施様でもない、あかい提灯の途切れた向こうに広がる秋の夜空に注がれているようであった。

「ここに来ると、全てが夢のようだ」

 返事の代わりにさっと秋の夜風が私たちの間を通り抜けて、蟋蟀の鳴き声が浮かび上がるように大きくなる。

蛾眉がびの月は早いのう」

 風に紛らすような笑い声の後に苦味を潜めた声で付け加えた。

「もう沈むところだ」

 大王様の肩に西施様がそっと着物を掛ける。

 その様は権力者と寵姫というより年寄った父親と気遣う娘にこそ相応しく見えた。

 老いの気配すらない瑞々しい面差しの西施の隣にあってはいっそう老けの際立つ呉王夫差は目尻の皺を深く刻んで告げる。

「皆も、良く休むように」


*****

 目が覚めると、まだ蟋蟀の鳴く声が扉越しに聞こえてきた。

 尻の下に微かに生温かく濡れた感触がする。

 これは……。

 起き上がると、白い敷布の上に夜目にも黒々とした血の跡が確かめられた。

 ふっと息を吐いて頭を抱える。

 この世界でもとうとう初潮が来たのだ。


*****

 まだお腹が痛い。

 トイレから出て来た私は下腹部を撫でる。

 経血で汚した寝巻きは着替えて前々から用意していた月経帯――これはショーツを履かないこの時代の女性が月経時だけ着用する紐で縛るショーツのようなものだ――は着けたものの、生理痛だけは如何いかんともしがたい。

 どうしてこの世界に生まれ変わっても元の自分と同じ女性で生理痛の酷い体なんだろう。

 こんな風に大人の体に成長したところでもうすぐこのくには、この館娃宮きゅうでんにいる自分は……。

――大王様の状況は良くない。

――二伯の姉妹が暇を取ったのは生家がもう呉に見切りを付けて逃れる算段をしていたから。

 宮女たちもそんな噂をしているし、二十一世紀の日本人としての記憶を持つ私は呉王夫差がどうなったかを知っている。

 だが、それでどうにか出来る立場ではない。

 体に見えない重しを付けられて沈んでいく感慨にまた囚われる。

 さっと目の前を黒い目玉を見開いた黄土色のふくろうの顔じみたものが通り過ぎた。

 ビクリと身を震わせてそちらを見やると、その顔じみたものは灯火近くの壁に貼り付くようにして止まった。

 蛾か。

 恐らくはヤママユガ科の種だ。普通の蝶や蛾の倍ほど大きさもある。

 だが、別に殺傷能力はない。

 そこまで思い出してほっと息を吐く。

 元はゴキブリはもちろん大きめの蛾も苦手で目にすれば固まった自分だが、この世界に来てからはこちらの命に害をもたらすほどの力のない生き物は段々怖くなくなった。

 一番恐ろしいのは人だ。今の自分にとっては害虫や害獣に殺されたり病気で命を落としたりするよりも、他人に命を奪われる可能性の方が遥かに高い。

 黒い目玉のような、小さいが底知れぬ穴のような模様を持つ蛾はまるで壁の一部と化したかのように貼り付いたまま微動だにしない。

 今、この城が崩れたらこれはこのまま元の世界での化石になるのだろうか。

“館娃宮の跡地発見”

 蛾の化石とこの宮女の寝巻を纏ったまま骸骨になった自分が今の世界からは遥か未来である元の世界で瓦礫の中から発見される場面が浮かんだ。

 館娃宮は元の世界でも私が生まれた時点ではもうとっくに名所旧跡として復元されて一般公開されていたはずだからさすがにそれは有り得ないだろうが、今のこの人生としての自分は一体どうなるのだろう。

 と、視野の中で黒い目玉めいた模様のはねがサッと残像の尾を引きながら揺れる。

 梟の顔に似た蛾が夜の闇の中に飛び去って行く。

 その闇の中に蛾と入れ替わりに発光するかのように白く小さな顔と黒玉じみた双眸が浮かび上がった。

 あ……。

 こちらを見詰める円らな瞳が優しく細められた。

「私も今夜は眠れずにいるの」

 こちらと変わらぬ質素な寝巻姿にも関わらず最高級な物を纏っているように見える――どうということのない品でもこの人が身に付ければ価値ある物に映るのだ――西施様は静かに語った。

「鄭旦が亡くなったのも、やっぱりこんな蛾眉の月の晩だった」

 蟋蟀の遠くで鳴く声が浮かび上がるように私たちの所に響いて来る。

やまいとこで次の満月までには治して大王様に新しい舞を見せると」

 新しい舞、と語る瞳に一瞬、希望の色が通り過ぎた。

「二人でそのために色違いの衣装を作ってたの」

 鄭旦様には会ったことはないが、目の前の西施様と双子の姉妹のように面差しも体つきも似た人だったように思えた。

「あの子の舞には誰も敵わなかった。大王様も鄭旦は蝶のように舞うと」

 懐かし気に微笑む顔にも声にも嫉妬や暗さなど微塵もなく、まるで西施様と大王様の二人にとって今は亡い人が純粋に愛らしい妹であったように思われた。

「でも、段々と床で語るあの子の息が苦しくなってきて、もう一度、二人で故郷のうみで小魚を採ろうと」

 小さな白い面に痛みが走って、ぐっと着物の胸の上で手を握りしめる。

 双子は片方が苦しむ時は他方にも痛みが現れるという話を頭の片隅で思い出した。

「それが最後の言葉だった」

 相手は大きな瞳に透き通った光る粒を溢れさせて笑う。

「あの子ね、郷里さとにいた頃は本当に不器用で小魚一匹、まともに採れなかったの」

 啜り上げると、蟋蟀の鳴き声に紛れるほど密やかな声で付け加えた。

「一緒にこちらに来てから一言も苧蘿のことなど口にしなかったのに」

 雪じみた白い頬に涙を伝わらせながら、重たい光を宿した黒髪の頭を横に振る。

「呉と越は今、また戦っている」

 静かな語りなのに耳にしたこちらは体が震えるのを感じた。

「私は大王様についていくことにします」

 相手は大丈夫よ、という風に微笑んでいる。

 抜けるように白い顔とどこか蒼みを含んだ黒髪の光沢つやが冷えた空気の中で冴え冴えと浮かび上がって見えた。

 この人は死ぬ。

 サッと背筋に冷たいものが駆け抜けて胸が締め付けられるのを感じた。

 この美しい人が、どこにもよこしまな気配など無い人が、殺される。

 と、視野の中で鮮やかな白と黒が大きく迫ってきた。

「あなたは帰るのよ」

 相手は丈だけは同じ目線にまで伸びたこちらを抱き締めてこちらの背を擦る。

 優しく撫でさすられた箇所からほんのり温かさが広がった。

 それで、自分の体が秋の夜の気に冷え切っていたことに改めて気付いた。

 西施様も恐らくは同様だろう。

「自分の家へ」

 月の沈んだ夜の闇の中、蟋蟀のおすたちの鳴き合う声が私たちを取り囲んでいる。

 黒髪を豊かに垂らした雪白のうなじからは涼やかで清浄な蓮の香りがした。


*****

「それでは、留守の間は皆も体に気を付けて、互いに助け合って過ごして下さい」

 西施様は恐れや湿っぽさなど微塵もない、穏やかな面持ちと声で並んだ私たち宮女に告げる。

「はい」

 せめて自分の声だけでもはっきり聞かせたい気持ちで返した。 


*****

「もし姑蘇こそが落ちたら私たちはどうなるの?」

「大丈夫よ」

 広間の一角から呉人の宮女たちのまた同じやり取りが聞こえてきた。

 私は編み直し始めたばかりのむしろの目を確かめる体でふっと息を吐く。

 昼の空は晴れ渡っているのに冷えて乾いた空気がどこからともなく袖の間に入り込んでくる。

 西施様と大王様が経って半月。

 私たちは昼間はこうして広間に集まって時を過ごす。

 誰がそうしようと言い出したわけではないが、皆、一人でいるのは怖いのだ。

 そうやって一つどころに集まって、しかし、皆で一つのことをやるわけではなく、元から一緒にいた人たちは固まり、一人で過ごすことの多かった者は一人でただ時をやり過ごすのだ。

 自分はこの半月は広間の端で繕い物をしたり寝具に使う筵を編み直したりしていた。

「越人にはすっかり騙されたわね」

 広間の一角から尖ったものを含んだ声が飛んできた。

 振り向かなくても背中に複数の視線が突き刺さるのを感じる。

 やっぱり莚編みは自分の部屋でやろう。

 立ち上がったところでバタバタと後ろから足音が迫ってきた。

 振り返ると、西孫せいそんと呼ばれている十五、六になる呉人の宮女が目を吊り上げてこちらに近付いてくるところだった。

 一緒に話していた呉人の宮女たちも離れた場所からそれぞれ冷ややかな憎悪やあるいは得体の知れないものを目にした恐怖を浮かべた眼差しをこちらに向けていた。

「私、見たよ。大王様がお発ちになる前の晩にあんたが西施と二人で話してんの」

 西施、と憎々しげに呼び捨ててまるで私がその憎むべき当人であるかのように呉人の西孫はこちらの襟首を掴みかかる。

 バサリと莚が足元に落ちる音がして、藺草いぐさのまだどこか青臭い匂いが通り過ぎた。

「越人同士ではかりごとしてたんだろ」

 話す内にもまだ面影に幼さの残る西孫の目は血走り、こちらの襟首を掴んだ手は絞め殺さんばかりに握り締められる。

 この子(といってもこの世界では初潮を迎えたばかりの私より一つ二つ上だが)は普段は仲間の呉人の宮女たちとはしゃいで笑っているような気質なのに、今はまるで憎しみに取り憑かれた別人だ。

「そんなこと……」

 言い掛けたまま息が一気に苦しくなった私の耳に別な方角から声が飛んだ。

「ちょっとさ」

 いつの間にか踊りの練習を止め、木の枝を後ろに放って眺めていた北周の顔に皮肉な、翳った笑いが浮かんでいた。

「そいつにそんな謀なんてやる頭があると思うかい」

 楚人の娘は尖った顎でぞんざいにこちらを示す。

「そんな気の利くやつならとっくにここから……」

「あんたもよ!」

 最後まで言わせず西孫は血走った目を北周に向けると、絞め上げんばかりに掴んでいたこちらの襟首を突き飛ばした。

 私は落ちて広がっていた筵の上に無様に尻餅をつく。

 「越やら楚やらよそからやってきた連中が大王様をたぶらかして」

 叫びながら殴りつける西孫の右の拳を表情の消えた北周の平手が受け止める。

「この国をめちゃくちゃにしてくれたんだ」

 西孫の左の拳も北周はまた平手で受け止めた。

「やめて、西孫」

 こちらは東孫とうそんと呼ばれる、やはり呉人の宮女が泣きながら駆け寄って来て朋輩を羽交い絞めにする。

「殺されるわよ」

 日頃は西孫より大人しかった東孫は腕の中の相手に言い聞かせると、石のように硬い面持ちで自分たちを見下ろしている北周を指さした。

「この女ならそのくらい平気でやるわ」

 北周を示した指がそのまま線を引くようにまだ尻餅をついた格好のままの私に向けられる。

「こいつらなんて人じゃない」

 シンと辺りが静まり返った。

「ワアアア!」

 一瞬の沈黙を破って、地面を揺るがすような叫びが四方から響いてくる。 

「越軍が来た!」

 誰かが叫んで、後はバラバラに駆け出す足音が耳の中を打った。


*****

 翰児は、あの小さな子はどこに……。

 焦げ臭い匂いのする中、近頃は爪先がいっそうきつくなってきた浅いくつの足で石造りの階段を駆け下りる。

 次の瞬間、足が動かなくなった。

 そこには身なりからして城の下働きの人たちがそれぞれ身体に矢を受けた格好で倒れていた。

 落ちる城から少しでも身を護る物を取って逃げ出そうとしたのか、それともその人たちなりに戦おうとしたのか、事切れた手元には鍬や包丁が落ちていた。

「ワアアア!」

 背後から轟いてきた声の大群に突き動かされるようにして足がまた駆け出す。

 履がたちまち破け、足があちこち擦り剝けるのを感じたが、もはや止まることは出来ない。

「翰児……翰児……」

 目に入るどのむくろも背筋をぞわつかせるが、探し求める人ではない。

 不意に蓮池が目の前に現れた。

 いつの間にかここに走ってきたらしい。

 嘘のようにひっそりとしている。

「かあちゃん」

 行く手から幽かに聞き覚えのある声がした。

 血の沸き立つ感じを覚えてそちらを見やる。

「かあちゃん」

 粗末な着物の左肩に矢を刺して横たわった幼い娘は虚ろな目で遥かに上に広がる空に向かって呼び掛けていた。

「どこにいるの」

 晴れ渡る空を通り過ぎる雲の影が小さな体を覆ってまた吐き出していく。

「ここだよ」

 私は幼い娘の肩に刺さった矢を抜いて放ると、小さな体を抱き締めた。

「お母さんはここ」

 この世界ではこの子は自分の子ではないはずだが、そんなことはどうでも良かった。

 温もりの中から血の匂いがする。

 これはこの小さな尊い体から流れ出ている命の血だ。

 玲羽とは同じ血液型だから今すぐにでも自分の血をこの子の体に分け与えたいが、そんな設備はこの時代のこの場にはない。

 ジリジリと焼け付くように熱いものが体の底からせり上げてくる。

「うちにかえりたい」

 耳の直ぐ脇でいとけない声が呟いた。

「うん」

 砂埃で汚れた小さな頭を撫でながら極力落ち着かせた声で続ける。

「おうち帰ろうね」

 もう秋も終わりの風が吹いている。

 大王様が贅を凝らして建てた城が焼けていく。

 蓮の池には放たれたまま落ちた矢が漂っていた。

 吸い込む空気には焦げた臭気と血の匂いが入り交ざっている。

 ここはもうおしまいだ。

 私たちの帰るべき「おうち」はどこにあるのだろう。

「放せ!」

 突如として声の上がった方角を振り向くと、北周が自分の腕を捉えた兵士の顔に唾を吐きかけるところだった。

「こいつめ!」

 兵士は迷わず北周の胸をグサリと刺した。

 こちらは胸に幼子を抱き締めたままゾワッと全身が震えあがる。

 私と目が合うと、北周は涙の宿った瞳で笑った。

「あたしゃ、くにの村でも一番の別嬪べっぴんと言われて呉の大王様の宮女に選ばれたんだ」

 十八に未だ届かぬ朋輩の頬に涙が伝い落ちる。

「約束した人とも別れてさ」

 語る内にも血に染まる衣装に比して顔は紙のように白くなっていく。

 北周はバタリと庭土の上に倒れた。

 半ば解けた彼女の黒髪から瑪瑙の簪が転がり落ちる。

 虚ろになっていく目が口づけた形に彫られた番の鴛鴦を見詰めた。

「今さら越人えつもんになんか……身売り……できる……かい」

「馬鹿女め」

 顔に唾を吐きかけられた兵士が怒りの収まらない様子で息絶えた北周の体を蹴り上げる。

 そして、いきり立った武装の男の目がうずくまっている私と翰児に向けられた。

「お前も呉王の側女そばめだな」

 実際のところは大王様の寵愛どころか触れられたことすらない十四歳の顔から薄べったい体つきを眺めまわされるのと同時に、八方から目線に囲まれる気配を感じた。

「越女なら倍額だろ?」

「西施じゃなくてもむら一つは貰えるってさ」

 斜め後ろから囁き合う声も届いた。

 一つ一つの顔は確かめられないが、耳に聞こえてくる声が段々大きくはっきりしてくる。

「べっぴんさん、俺たちゃ越から迎えに来たんだ」

故国くにに帰りたいだろ?」

「そんな死にかけのきたねえガキなんか放せよ」

「さっきの女みたいにくたばりたくないだろ」

 槍を構えた男たちの影が私たちを取り巻くようにして近付いてくる。

「降伏か、死か?」


*****

「ママ」

 幼い呼び掛けが頭の上から響いてくる。

 冷え冷えとした服の布地が肌に触れるものの、体を受け止める柔らかな感触は紛れもなく二十一世紀日本のソファだ。花の香りを模した洗剤の匂いも含めて。

 全てが遥か昔に触れたもののような感慨を覚えつつ瞼を開ける。

「今日は英語に行く日でしょ」

 黄色の地に黒い網模様の入ったワンピースにお下げ髪に結った童女がこちらを見詰めていた。

 思わず抱き締める。

「ママ?」

 壁の時計は二時半を回ろうとしている。

「ごめんね」

 今までのことは一時間の昼寝で見た夢だったのか。

「お母さんばっかり随分長いこと寝てたんだね」

 抱き合う私たちの足元には空色の地に白い蝶の模様が入ったブランケットが落ちていた。


*****

 娘を英語教室に送り迎えする時に通る、いつもの道。

 街路樹も、植え込みも、道脇の図書館も、ドラッグストアも、コンビニも、アパートも何一つ変わっていない。

 だが、何だか遠い昔に目にしたような、それでいて初めて目にしたような感じがする。

 足の形にフィットした硬いゴム底の靴も、アスファルトで滑らかに舗装された路面も、ずっと馴染んできたもののはずなのに快適過ぎていかにもこしらえ物臭く感じた。

 現実的に考えれば、自分は一時間ばかり昼寝して夢を観ていただけだ。

 呉国の青銅貨の詰まった袋を渡されて泣いた母も、「待て」と臆せずに叫んだ東施も、「あなたは帰るのよ」と微笑んだ西施も、楚からやって来た北周も、そしてあの世界では矢にたおれたこの子も、全部。

 一睡いっすい夢幻ゆめまぼろしに過ぎなかったと安堵すべきなのに、初めから失ったものなどないはずなのに、何かが永久に自分から飛び去って二度と戻って来ない感じがした。

 どうせ夢ならばもっと思うように生きて、誰か一人でも救えるように力を尽くせば良かった。

 自分は何て不甲斐のない人間なのだろう。

 隣を進む娘の小さな手を握り締めながら、秋も半ばを過ぎて乾いた風が頬をひやりと撫でるようにして吹き抜けていくのを感じた。

「過ぎたことは仕方ないよ」

「次のことを考えないと」

 声のした方を振り向くと、たった今、擦れ違った、ユニフォームを着た女子高生三人のラクロスのラケットを背負った後ろ姿が遠ざかっていくところだった。

 どうやら左右の二人が真ん中で落ち込んで泣いている一人を慰めているようだ。

 右側は浅黒い丸顔にドングリ眼、左側は卵色の顎の尖った顔に切れ上がった瞳をしていた。

 初めて目にするはずなのに、どこか懐かしい面影だ。

「そうだよね」

 真ん中にいる、こちらからは後ろ姿しか分からない少女が声を発した。

「私たちはまだ、戦える」

 顔は見えないが、澄んだ優しい声が届く。

「ちょうちょだ」

 習い事用のミント色のリュックを背負った玲羽は象牙色のふっくりした頬に笑窪を刻んでやはりふっくりした傷一つない小さな手で指差した。

青条揚羽あおすじあげはだね」

 黒地に鮮やかな浅葱色の筋が入った翼。

 あれはいにしえの大地を舞っていた蝶の何代目の子孫だろうか。

「本当に綺麗だ」

 呟くこちらをよそに闇と光を併せ呑んだがごときはねを持つ胡蝶は風に漂うようにして飛び去っていった。(了)

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胡蝶之夢 吾妻栄子 @gaoqiao412

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