銚子水産軍事大学 第3話「パック寿司をサコッシュに入れる人 リターンズ」
若者のあいだでわさびの人気が低迷していた。
そこで、教授になんとかしてほしい、という依頼がきたのだった。
わさび、いいのにな。それなのに皆、これを苦手という。そう教授はいって、リニアレーンの上を飛んできたえんがわのお皿を取った。
つづいてわたしの頼んだサーモンがやってくる。わたしはお皿を取り、お箸でお寿司をつまんで口に運んだ。
かくいうわたしもわさびは苦手だった。
頼んだ寿司もとうぜん、さび抜きだ。
あの、突如として鼻の奥に刺激がはしる感覚が、急にびっくりさせられて嫌だった。
この店は銚子や木更津といった、房総半島でのみチェーン展開する回転寿司店だった。銚子の漁港で水揚げされた新鮮な魚や、各地から取り寄せた新鮮なネタを売りにしていた。価格帯はやや高めだが、魚の味がそこまでわかっていないわたしでもおいしいと思うぐらいには、おいしかった。
教授は箸を使わず、手づかみで寿司を食べる。さらりと流れるように、ちょん、とネタにお醤油をつけて、ぺろりと平らげてしまう。
教授が頼むネタは白身や光り物、そして貝が多かった。たまに気まぐれでハンバーグ軍艦を頼む。こだわりがあるのかないのかわからない。〆はいつもわさびなすだった。やっぱりこだわりがあるのかもしれない。
おとなだ。わたしはそう思う。なんとなく。妙にこどもっぽいところもある教授だが、寿司に関してはやたら洗練されていた。
さて、わたしたちの研究対象は、海洋生物が発する未知の粒子についてだった。そんなわたしたちになぜこのような依頼が舞い込むのか。それはふしぎだった。
ただひとついえることは、教授は過去に同様の依頼をされ、そしてうまい感じに成功したらしい。そのときの依頼は、ガリの消費量を上げるものだったという。
「それは、どうやったんですか?」
わたしは訊ねた。
「ほれはね」教授は米粒のついた指先を軽くしゃぶってから、いう。「それはだね、きみ、ガリってどういうときに食べたい」
「はあ、お口直しとか、でしょうか。口のなかをさっぱりさせたいときとか」
「そうだね」それから教授は、こともなげにいった。「つまり、ネタの味を濃くしたんだ」
じわっとね。
そう教授は付け足すと、レーンを飛んできたこはだを口に運んだ。
じわっと。わたしは繰り返した。
「それは、品種改良とかですか」
「それは手間がかかりすぎるからね、散布したんだ」
「散布」
「味を濃く感じる粒子が、打ち上げられたダイオウイカから検知された。きみがたぶん、中学生ぐらいのときだったかな。ニュースにもなったよ」
わたしは記憶を辿り、思い出した。白っぽいぶよぶよした巨体が、浜辺に打ち上がっている空撮映像のことを。ただでさえ珍しいのに、いままでにないほどでかかった。
ほら。教授はいった。イカって、イカ墨がおいしいっていうじゃあないか。みんなあのおいしいイカ墨を目当てに、イカを捕食しようとがんばっているのさ。
わたしは大むかしに見た、海洋生物を特集したテレビ番組を思い出す。捕食されそうになったコウイカが、真っ黒な墨をぶべっと煙幕のように吐き出す。コウイカを狙っていた魚は、おいしいイカ墨に夢中になってしまう。
おいしいイカからおいしいイカ墨がとれるのならば、ダイオウイカからそういった味に関する粒子が検出されるのも、当然なことだとは思わないか。教授はいって、ちょっと高めのイカのお寿司を口に放った。
わたしも同じものを頼んでいた。口に運ぶ。新鮮でねっとりしていて、舌の上でとろけそうなイカを味わっていると、教授のいうことも、まあ、それはそうだろうなという気持ちになった。
■ ■ ■
さて。金髪でショートボブの女の子がいった。よおく、ごらんください。黒い不織布マスクをとおして声が聞こえる。
金髪の女の子は、肩から提げた小さめのサコッシュを示した。
サコッシュは、ぱんぱんというほどではないにせよ、ある程度の膨らみがあった。お化粧ポーチとかモバイルバッテリーとかが入っていそうな、そんな厚みだった。
次に女の子は、わたしたちがお寿司屋さんで買ってきたお土産のお寿司を手に持つ。十貫入りで、スーパーで売られているパック寿司と、見た目がそんなに変わらない。
パック寿司を持つ。
サコッシュの口を開ける。どう見てもお寿司は、サコッシュに入りそうになかった。
すす。そう、女の子が鼻をすする音が、かすかに聞こえた。
それと同時に、するりとお寿司が、サコッシュの中に滑り落ちていく。
じゃじゃん。女の子はそういって、手を広げた。
わたしと教授は、研究室のくたびれた方のソファに座りながら、おーとちいさく声をあげて拍手した。
驚くのはここからですよ。女の子がそういうと、彼女はサコッシュに手を突っ込んだ。まず、モバイルバッテリーが出てくる。やっぱり入ってた。わたしは内心、得意げになる。女の子は四角くて黒いバッテリーわたしたちにしっかりと見せ、それをローテーブルに置く。つぎにお化粧ポーチが出てくる。それもローテーブルの上に置く。
これだけじゃあないですよ。女の子は期待を煽りつつも静かに宣言した。
食べかけのハリボーのグミ。
ぺったんこになったフエルト地のちいさなぬいぐるみ。
やたら長いテレビのリモコン。
ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔 スペシャル・エクステンデッド・エディション(後編)のレンタルDVD。
バナナ。
お化粧ポーチその2。
使い終わったのに現像に出し忘れたままのインスタントカメラ。
携帯ショップの店頭で行われていたくじ引きでもらった特にいらない電子レンジ使用不可のマグカップ。
緑色のタバスコ。
居酒屋の名前が書かれたマッチ箱。
溶けたあとまた固まったフルーツ味の飴。
そういったものたちがつぎつぎと出てきた。ちらと、横に座る教授の顔を見る。教授はいつもみたいに薄く微笑んだまま、その様子を見ていた。
最後に、パック寿司がするりと出てきた。
おー。わたしたちはまたしてもちいさく拍手した。
「おや」教授が違和感をあらわにした。「でもなんだか、ちがわないかな」
わたしはパック寿司を引き寄せ、見てみた。いろんなネタで構成されていたはずなのに、出てきたものはたまごと納豆軍艦だけで構成されていた。
「あちゃあ」
女の子はそういって、バツが悪そうに細い目を歪めた。すすん。そう、どこか申し訳なさそうに鼻をすする。
女の子は、教授の知人の弟子だという。サコッシュやウェストポーチなどに、なんでも物を詰め込める達人だそうだ。
「教授さんのことはじいさんから聞いています。じいさんはナンボーまでわざわざ行きたくないと、そのような失礼な理由で本日はわたしが
女の子は隠しごとをせずに話した。
「すみません嘘つきました」嘘だったらしい。「じいさん本当は来たがってましたが、今日は競艇に行ってます」
教授はたまごと納豆軍艦に変わってしまったパック寿司を開けて、たまごをひとつ、口に放った。
ふむ。教授はいった。なんに対してのふむなのかはわからなかった。たまごの味なのか、それとも、目の前で披露された女の子の力量に対してなのか。
教授は、もごもごと動く口の前にゆっくりと両手を持ってきて、口元をおさえると、叱られている小さなこどものようにまぶたをぎゅっとさせた。
ややあって、マグカップに淹れたぬるい緑茶を飲む。
「しゅば、素晴らしいお手前です」教授はいった。目が潤んでいた。「ですが、プラスとマイナスが、これでは逆、ですね」
わたしは割り箸で、海苔の帯でシャリに固定された黄色いたまごをめくった。ひっ。つい、ちいさな悲鳴をあげてしまう。
長方形に切られたたまごとシャリのあいだには、緑色のわさびがべったりと塗られていた。
女の子もそれを確認する。彼女はまたしても、あちゃあといった。
■ ■ ■
「彼女に任せてしまって、大丈夫なんでしょうか?」
わたしは、水槽のなかで退屈そうにとぐろを巻いているお湯取りホースのパフェちゃんを見ながら、いった。
そうだね。教授はいう。たしかに、あの子だとちょっと危ういかもしれないね。それでもまあ、今日は来なかっただけで、おじいさんの方も協力してくれるから、大丈夫だと思う。
なるほど。わたしはうなずいてみせた。
しかしあれはいったい、どういう仕組みなのだろう。漁船にも搭載されているワープエンジンとは、原理が同じなのだろうか。
あれはね。教授がいう。あちこちの波と波のあいだにしまってるんだよ。
わたしは、はあ、といった。
たとえばさっきの子は、お寿司が不得意だったろう。お寿司はむずかしいからね。お米粒がたくさん集まっているから。
リモコンとかも複雑なのでは。わたしは疑問に思った。
だってほら、リモコンはなかが見えないだろう。なかが見えないということはなかに干渉することができないってことだよ。なかのことなんて知らないってことさ。知らなくても問題ないのさ。なかを知らなくてもどう動くか知ってれば、それは動くというものだよ。対してお寿司はどうだい。お寿司はぜんぶ丸見えじゃないか。見えてるってことは難しい。把握してなきゃいけないからね。板前のお寿司職人さんたちも大変だというじゃないか。握ることが。
握ることが。わたしは繰り返した。
たゆたう波のなかでもお寿司を握りつづけ、それを手放さないでいること、お米粒をひと粒も取りこぼさないということ、取りこぼしたかもしれないお米粒に想いを馳せつづけることは、それはきみ、至難の業だよ。
教授は珍しく饒舌にいって、薄くなった緑茶をマグカップから飲む。
やたらと具体的に知っている、ということは、きっと教授もできるか、試したことがあるのかもしれなかった。でもわたしは詳しく訊かなかった。教授が自分でやらないということに、きっと理由があると思った。
もしかすると、教授がやったらお寿司がもっと悲惨なことになるのかもしれない。わたしはそう、考えたりした。
ところで、わさびをいったいどうするつもりなんだろうか。わたしが訊ねると、教授はいった。
お米粒の、一粒一粒のあいだに、わさびをうすーく浸透させるかたちになると思うよ。とてもうすーく。
「それって……」
それって、いいんだろうか。
「わさびの消費量が上がることには、変わりないからね」
「でも、農家さん的にはやっぱり、わさびの魅力を知ってもらいたいのではないでしょうか」
そういうわたしは、繰り返しになるけれど、わさびが苦手だった。いった途端に、なんだか後ろめたい気持ちになる。
そこはね、あまり心配しなくてもいいよ。教授はいって、女の子が置いていったレンタルDVDを手に取った。ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔 スペシャル・エクステンデッド・エディション(後編)のレンタルDVD。
見るんですか。わたしは訊ねる。
いや、見ない。教授はいった。長すぎるからね。
なんで置いていったんでしょうか。
わたしの疑問に、教授は答える。
かならず戻る、という意味だと思う。
べつにこういうことをしなくてもいいのに。そう思ったわたしの心を見透かしたのか、教授は薄く笑いながらいった。
延滞料金を払うことほど、いやなものはないよ。
■ ■ ■
3ヶ月後。若者のあいだでわさびの人気が高まっていた。
生わさびを削ってサラダに振りかけてみたり、アクセントになるからといってスイーツに添えてみたり、いろんなわさびの品種を食べ比べるわさびバーが開店したりしていた。わさび味のスナック菓子も以前より増えた。わたしは、この件を引き受けてから、すこしでも苦手意識をなくそうと、わさび味のスナック菓子を食べるようになった。流行を先取りしたようで、ちょっと鼻高々だった。
「しかし教授、どうやってここまで流行らせたのでしょうか」
わたしの問いに教授は、ピザポテトのわさび味を食べながら答える。
「サブリミナルと刷り込みだよ」教授は当然のようにいった。
味にも慣れがある。お米粒とお米粒のあいだにわさびをうすーくうすーく浸透させることによって、じょじょにじょじょに、わさびへの苦手意識をなくしていったらしい。
対象になったのは限られた人数だよ。教授はいう。限られた人数って、どのくらいですか。わたしの質問に教授は答える。ざっと20人。
「それだけですか」
「うん、それだけでいいんだ」
そのなかに、きみも入ってるよ。
そう、教授はいって、緑がかったチップスを口に放る。
はあ。わたしは反射的に発し、それから、はあっ、ともう一度発した。今度は驚きの声だ。
「きみもふくめた20人は、いわばインフルエンサーというわけさ。でもべつに、わさびの良さを、だれかにことさら広める必要はない。なんかわさび味のお菓子食べてるなとか、おや、隣の席の人、サビ抜きじゃないんだなとか、そういうのでいいんだ」
「ほんとうにそんなので効果があるんですか」
「現にあるだろう、こうやって」
教授はわさび味のピザポテトを掲げた。
あと半年もしないうちに、ブラジルに到達するよ。世界的なわさびブームがやってくる。ちょっと、やりすぎかもね。そう、教授はいう。
わたしは恐ろしくなった。
半年後。教授の予測どおり、わさびタコスにわさびブリトー、そしてわさびエンチラーダが南米で大流行したという。
第3話 おわり
銚子水産軍事大学 都市と自意識 @urban_ichi
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