銚子水産軍事大学 第2話「足が早いアレを食べに行こう」
銚子水産軍事大学は文字通り、銚子の漁港と縁がある。教授(とわたし)のおもな研究内容は、水生生物から発せられる未知の粒子についてだったから、どの生き物をどういう条件下に置くとどういった粒子が発生するのか、ということを知るために、わたしたちは定期的に漁港に行って水揚げされ網に引っかかった魚たちを観察する。場合によってはもらったりする。
競りにかけられてるときってどうなんだろうね。そう教授はいって、わたしたちは競りを見せてもらったこともあった。
競りの桁が億までいったことを魚は認識できているんだろうか。教授は思いつきでそういって、なんてことないマイワシたちを億までつりあげて、それを本当に買ってしまったこともある。わたしは、これは一匹いくらするんだろうと思いながら、教授と一緒にフライにしたり天ぷらにしたりなめろうにしたりしてありがたく全部いただいたりした。値段が値段なので、いつもよりおいしく感じられた。
ある日のこと、研究室のソファに座る教授がいった。そういえば、漁港の近辺のお店でも出回らない、とっても足の早い食べ物があるそうだよ。なんでも、水揚げしたときにそれが引っかかったら、すぐに船の上で食べてしまうんだって。
魚ではなく食べ物と形容したことが気になったけれど、わたしは対面の教授に、はあ、すぐに食べてしまうってことは、それは美味しいってことなんでしょうか、と返した。さぞ。
さぞ、ね。教授は繰り返した。なにせみんな、話したがらないんだ。
なんだかんだ出入りしているので教授とわたしの顔は漁港で広かったし、それなりに親しかった。教授さん、これはどうだい。学生さん、珍しいもんが引っかかったんだ、見てかないかい。そんなふうに気軽に声をかけてくださる。これは足が早いからあんま食えるもんでもないし、先生たちも食いなよ。そうお誘いを受けたこともある。
食べ物っていいました? わたしは教授に訊ねた。具体的な、その、魚の名前は?
教授はゆっくりと首を振り、肩をすくめた。わからない。そこまでは教えてくれなかった。グイさんも、口を滑らしてしまったぞ、いっけね、という感じだったんだ。
「よっぽど、ですね」わたしはいった。
「よっぽど、だろうね」教授はいった。
わたしは平静を装っていたが、知的好奇心と、何よりも食への探求心でこみ上げる唾液で頭が溶けそうだった。
閉じられた教授の薄い唇の端からも、微かによだれが出ていた。
■ ■ ■
銚子の漁港に来た。
「帰りにまた呼んでくださいね」
送迎カーに乗り送迎課の人は帰っていった。わが校は研究内容が研究内容なだけに、そして優秀な人材が集まっているだけに、こうして送迎をするだけの課があるのだった。
教授はバスが好きで、タクシーがきらいだった。そもそも教授は、送迎というもの自体が好きではなかった。時刻表どおりに来たり遅れたりするバスという乗り物の些細なランダム性を好んでいた。バスはまるで、回遊魚のようじゃないか。教授は以前いった。バス停に立っている、もしくはベンチに座っている。本を読んでいる、あるいはただ呆然としている。時間を気にしたり気にしなかったりしているさいちゅうに、ゆっくりとバスがやってくる。その瞬間がたまらなく好きだという。それにバスは大きい。教授はつづけた。前乗り後ろ乗りどちらにせよ、わたしはバスという巨大なもののなかに入っていくそのさまも好きなんだよ。後ろ乗りの場合は魚卵の気分さ。
しかし教授も人の子だった。送迎カーの乗り心地は素晴らしい。シートはなめらかで、わたしたちのお尻と背中をやさしく受け止めてくれる。こりゃたまらんと教授は毎回いう。乗るたびにいう。本当にいう。そして見るからに機嫌が良くなる。そういうこともあり、教授もたまには送迎課の送迎カーの利用申請をするのだった。
送迎カーに手を振る教授はにこやかだ。毎回使えばいいじゃないですか。わたしがいうと、教授は、たまにだからありがたみが増すのさ、大トロばかりでは飽きるだろう、という。教授のこういう庶民的な感覚は好ましくもあり、どこかがっかりする気持ちもあり。教授も人の子。いつでも超然としているわけではない。
さて、夜がまだ明けていない、波の音がざわざわと聞こえる真っ暗な漁港をわたしたちは歩いていき、グイさんの船のところにたどり着いた。事前に話をとおしてあったらしいけれど、グイさんの表情はやや引きつっていた。これは教授がだいぶ無理をいったのだろう。
わたしは、お、と思い出し、タンブラーの蓋をぽこんと開けてぬるま湯で酔い止めの薬を飲んだ。教授、教授飲みましたか。わたしは教授に訊ねる。今回は大丈夫そうな気がする。教授はいう。
酔い止め薬を飲んだわたしから放たれる未知の粒子によって今回の漁が阻害され、また魚たち海藻たちその他カニ、タコ、イカ、キンメダイ、ミル貝、スズキ、ホウボウ、アジ、サンマ、キンメダイ、イカ、タコ、カニ、その他海藻たちやまた魚たちに何らかの悪影響を及ぼすにいたって、それすなわち今回目的とする足の早い例の食べ物が引っかからなくなる可能性は高い。酔い止めを飲んだきみ、そして飲まないわたし。酔い止めを飲んだきみ、そして飲んだわたし。分裂する可能性に思いを馳せたまえよ。どちら「んもー、屁理屈いわないで飲んでください」……んあ。
んあ、といって教授は無防備に口をがぱりと開けた。わたしは酔い止めの白い錠剤を口にぽいと放り込んでぬるま湯を飲ませてあげる。教授は首を痛めるんじゃないかというぐらい思いっきり頭を上下に振って嚥下した。こどもか、とわたし思う。今度からおくすりゼリーを持ってきたほうがいいのかもしれない。
乗船した。出港した。トロッ、トロッ、と船は黒い夜海を割ってゆっくり進んでいく。
「ワープ!」と酒焼けした声でグイさんがいった。しかし何も起こらなかった。「ワープ!」
船は特に変わらなかった。
教授。わたしは耳打ちする。やっぱり嫌なんじゃないんですか、今日。
あれえっ。そう素っ頓狂な若者の声が響いた。グイさん、曲げエンジンのプラグ抜けてますよ、これあぶねえって。操舵するグイさんの背中が、かすかに強張るのがわかった。ぶつぶつとちいさくひとりごつと、がらがらした声で、おー悪いな、ちょいとおめえ、はめてくれやといった。ちょっとわざとらしい。
エンジン、かけなおしやしたあっ。そう若衆がいうやいなや、教授がすっくと立ち上がった。
「ワープ!」
教授が宣言すると、船の周囲の空間がパタパタと折り畳まれていき、やがて船体ごとわたしやグイさんや若衆や教授もパタパタと畳まれて縦2センチメートル横7.4センチメートルの物体になってしまった。板ガムっぽい。わたしはそう認識する。
そう、わたしたちは板ガムになってしまった。
そしてわたしたち=板ガムは夜明け前の海ではなく、海の模様が描かれたプレイマットの上にあることがわたしにはわかった。サイボーグ化した武装マッコウクジラやバイオダイオウイカ、恐ろしい海底原人らが誇る鋼鉄の戦艦や潜水艦といったコンポーネントがヘックス状に区切られたマス目に配置されていて、それらに混じってわたしたちだった/であるものが確実に存在してしまっていた。
板ガムを細くてきれいな指がつまみあげる。〈上〉にいる教授、だと思う。またですか。だれかがそういった、という結果だけがわたしの脳に入ってきた。〈上〉にいるわたしだろうか。わたしは折り畳まれてしまっているのでよく見えなかった。そもそも見えるとか聞こえるとかがどうしてわかるのだろうか。プレイマットもわたしにはそう感じられているだけかもしれなかった。
〈上〉の教授はがぱりと口を開けるとわたしたちだった/であるものを口に含みくちゃくちゃと何度か咀嚼をし、ぺっ、とプレイマットの上に吐き捨てた。ぐちょぐちょに揉まれたわたしたちはシャコ型強襲艦にぶつかるとプレイマットの荒れ狂う波のイラストのなかに落ち込んでいき、いつの間にか船体も体も元に戻って海の上に帰還していた。
舵を握ったグイさんはぴくりとも動かない。若衆の人らも目と口を見開いたまま船体にしがみつき動かない。しっかり手すりを握っていたわたしは気を失いかけて、教授に抱きかかえられた。
起きて、まだ調査中だよ。教授が静かにいう。教授の口から、アセロラの香りがした。わたしは訊ねる。アセロラ味だったんですか、わたしたち。教授は、さあ、〈上〉の人のことは、そこまでわからないから、といった。
教授はわたしから離れると、グイさんの方に行ってしまった。われを取り戻したグイさんらはGPSなどの計器類を慌ただしく確認しだした。
どうやら今日の漁場に着いたらしい。曲げエンジン(とあと教授)のおかげで一瞬で。
わたしは、酔い止めの薬をむりやり教授に飲ませたときに見た、きれいに並んだ歯のことを思い出していた。
わたしのからだからも、アセロラの香りがほのかに立ちのぼっていた。
船酔いをしたふりをして、わたしは周囲の人から見えないように座り込み、紅潮していく顔を隠した。冷たい海風のせいで、耳がいっそう熱く感じられた。
■ ■ ■
グイさんたちが網を引き上げた。さまざまな魚が引っかかっていた。銀色の小さな、無数の魚たちが、ぎらぎらと反射していてきれいだった。と同時に、あまりにも輝いているため、むしろどこかつくりもののように感じられた。
「うーん、なさそうっすね~」若衆のひとり、アツさんがいった。
アツさんはその、例の足の早いアレというものを食べたことがあるのだろうか。わたしが訊ねると、一度だけ、といった。どういうものなのだろうか。わたしは再度訊ねると、それは実際に自分の目で見たほうがいいっすよ、あれはすごいっすよ、まあ、今日獲れてればすけど、といった。
グイさんがね。アツさんはつづけた。グイさんがね、一回だけ、かなり無理してあれを港に持っていこうとしたことがあったんすよ。でも無理っしたね。腐る、とか。わたしの推察にアツさんは頷き、笑いながらいった。くっせえんすよ、ほんとに。
それから時間が過ぎた。
もう今日は諦めるしかないかもしれないですね。そう、わたしが教授に話しかけようとすると、教授はすんとにおいを嗅いだ。
オオーッ! という歓声がグイさんたちの方から上がった。網を見た。たくさんの魚たちに混ざってそこにかかっていたのは、バレーボールほどの大きなカプセルだった。クリアとクリアブルーのセパレート。カプセルフィギュアでよく見かけるカプセルにそっくりだった。
えすえすあーるだね。教授はいった。興奮しているのが、使い慣れていない言葉を使ったことでわかった。
わわーっと若い衆が我先にと向かうが、グイさんがコラーッとかいう。みんな思い出したようでそのカプセルをつぎつぎに手渡していき、最終的にグイさんが両手でわたしと教授に差し出した。
本当にカプセルだった。なんかちょっとぬめっているけれど、間違いなくプラスチック製──のように思えた。わたしはカメラを取り出してすぐさま写真を撮り、そのカプセルの組織をレーザーカッターで採取しようとした。
教授の鼻がひくついた。グイさんがいった。そんなことより早く食べねえと。
ぬるんと滑るカプセルをふたりなんとか押し開けた。
中から出てきたのは、巨大なパフェだった。
「パフェだ」わたしはいった。しかもいちごのやつ。
教授は明言を避けた。
ご丁寧なことに、パフェ用の細長いスプーンが、しかも先端がよごれないように紙ナプキンで丁寧に包まれたものがなかにはあった。
教授は素早くそれを取ると並々盛りつけられたホイップクリームといちごをすくって口に入れた。教授の目がかっと見開かれ、鼻の穴がぶわっと広がった。
教授はつぎへつぎへとスプーンでパフェを手繰っていく。ガラスの器に銀色のスプーンがぶつかり、かつぉん、かつぉん、と軽快な音を立てる。
「ひみもはふぇまぱえ」教授は正気に戻り、わたしにスプーンを差し出した。わたしはうおーと食べ始めた。
そのときのことはあまりおぼえておらず、強いていえば天にも昇るおいしさだったことはおぼえているが、教授が撮影した映像資料をあとから見たところ、鬼のようにパフェを食べ進めるわたしが映っていた。わたしはわたしの姿に引いた。わたしのまわりにいた漁師さんたちもちょっと引いていた。
いいんですか先生。グイさんが画面外から訊ねた。なくなっちゃいますぜ。教授は、わかりましたから、といった。味が。
時系列を戻す。
われにかえったわたしは空になった容器を見た。口のまわりにべたべたついたクリームやいちごソースを舌でぺろりと舐め取る。名残惜しく、もう一周ぺろりとやってしまう。
ごちそうさまでした。ビデオカメラをおろし、教授がいった。呆然としつつわたしもいった。ごお、ごちそうさま、です。
ハンカチで口のまわりをぬぐうも、まだそこにあのたとえようのない、たまらん味が残っていそうで、気になって気になって仕方がなかった。
みんなこんな感じっすよ。漁師のひとりがいった。そうなんですか。わたしはどこか虚ろな目でいった。
見るともなくぼんやりとしていると、波打つ海面に何かがいた。つるりとした頭部を持ち、ぬぼーっとしたちょっと間抜けな顔だけ出して、こちらをうかがっていた。
海底原人だ。わたしはいった。絵に描いたような。
こら。
教授がわたしをたしなめた。
水棲人、と呼ばないと。
水棲人は鱗であやしく輝く片腕を水面からあげた。わたしと教授も同じように片腕をあげた。グイさんたちもあげた。
水棲人はつぎに、こちらを指さした。どう考えてもわたしだった。
水棲人は長い舌で分厚い唇を何周も舐め、満足げにうなずく。
とぷん。水棲人は海中へと戻っていった。
そういうわけですか。教授はいった。そういうわけです。グイさんが答えた。
条例的にグレーってところですね。わたしはいう。
ざばり。水棲人がまた頭を出すと、水面から細長い管のようなものが射出されてこちらに飛んできた。グイさんが手持ち網でそれをキャッチする。慣れた手つきだ。
網のなかには蛇腹のからだを持った、クリーム色の物体がいた。
お湯とりホースだった。
お湯とりホースは頭をもたげ、口というかスリットから海水をちろちろと吐いた。
近年、野生化したお湯とりホースが問題となっていた。お湯とりホースたちは海底の砂を飲み込み、お尻からそれを排出するだけの生態だが、生き物を飲み込んでしまうこともあった。漁の網に引っかかったときは、ほかの魚たちを勢いよく吸い込み、勝手になめろうにしたりフライにしたり、なんかくさい汁にしてお尻から出すのだった。海岸に打ち上げられた、海水でべちょべちょになった無数のアジフライやイカフライのニュースを以前見たことがある。
学生さん、相当気に入られたんだと思いますよ。食いっぷりを。グイさんがやや興奮したようにいう。きっとそいつ、石油玉を出すに違ぇねえ。
わたしは、石油の玉や砂金でてきた玉を排出するお湯とりホースを飼い、ちょっとした小銭稼ぎをしている人々を思い出していた。
水棲人はもういなかった。わたしたちは帰港した。
■ ■ ■
研究室に大型の水槽が置かれ、そのなかでお湯とりホースはじっとしたり、思い出したかのように砂を吸い込んではお尻から砂を出すという行為を繰り返していた。
パフェちゃん。それがわたしがホースにつけた名前だった。ワームめいたホースにそんな名前をつけるのはいささかファンシーすぎる気がした。でももしかすると、あの巨大パフェを出してくれるかもしれない。そうあってほしい。
パフェちゃんがお尻からたまに出すプラスチック製のカプセルはぬめっていて、入浴剤のにおいがした。
カプセルを開けると、そこにはたいてい、ミニチュアモデルが入っていた。歴史ある戦略型ボードゲームのコンポーネントだった。ほんらいはプラモデルのようになっており、自分で組み立て、自分で色を塗るらしいが、なぜかもう組み立ててある。
何が出た? 教授が細い筆で細かくミニチュアに色を塗りつつ、訊ねる。わたしたちは、じゃあこんなにミニチュアばかり出るなら、せっかくなんだし、ねえ……とこのボードゲームをはじめ、割とはまっていた。
漁業組合のドンブリメック兵です。わたしは答えた。ドンブリメック兵は丼型のパワードスーツに搭乗して戦う漁師だ。巨大な鉄の丼から機械の手脚が生えていてユーモラスだけど、人類軍と海底原人軍との終わりなき戦いにより漁にまともに出られなくなった怒りと悲哀がその姿には込められている。丼の柄を考えて塗るのが楽しいユニットでもあるし、人気があった。
いいね。教授は目を離さずいった。
わたしは教授の対面に座り、筆をとる。
パフェちゃんが頭をもたげ、ガラスごしにこちらに意識を向けているのがわかった。
わたしたちがこうしてゲームをつづけることによって、またいつかあのパフェを出してくれるかもしれない。
プレイマットの上に、いつのまにか銀色の包み紙が置いてあった。板ガムだ。
教授。わたしは声をかけた。わたしが目を離した一瞬のうちに、板ガムはすっかり消えていた。
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