明日は来るの?

紫陽花の花びら

第1話


 午前三時。一樹のアラームが鳴る。私は背中を向けたまま彼の気配を追う。

 一樹はアラームを止め、そっとベット抜け出しリビングへ降りて行った。

 息を止めていた訳ではないのに、私は苦しくて思いっきり息を吐いた。

 この半年、一樹は毎週末、雨でも降らない限り釣りに出かける。

 一人息子が独立して寂しいのはわかるが、それは私も同じことだ。車のエンジン音が微かに鼓膜を揺らす。私はまた眠りに落ちた。

 私たち夫婦は、ほとんど会話がない。二人に流れる空気は、痛いほど乾き、毎日心のなかで、一樹への思いがひび割れていく。 「あなた、明日も釣りいくの?」

 昨夜、嬉しげに釣り支度をしている一樹に声をかけた。一樹は、ああと気のない返事をする。

「気をつけないと、熱中症になるわよ。今年の暑さは異常なんだから」

 頷く一樹は雑誌から目を離さなかった。私は、わざと大きな音を立ててサイドテーブルの引き出しから本を出した。

「裕子、また赤毛のアン読んでいるのか? ほんと飽きないな」

 私はカチンと来たが、聞こえない振りをした。言い返せば気分が悪くなるのは、自分だからだ。

 暫くすると寝息が聞こえて来た。サイドランプはついたまま、雑誌はお腹の上当たりに置かれていた。チラチラと様子を見ていたが、起きる気配はない。私は仕方なく雑誌を手に取った。表紙には青い海と船に乗る若い女性が写っている。何気なくページを捲っていくと、若洲海浜公園に、小さく明日の日付が書きこまれていた。

 たったそれだけのことなのに、 隣で気持ち良さそうに眠っている一樹に腹を立てている自分がいる。私は苛つく気持ちを抑え、一樹の体に触れないように、雑誌をサイドテーブルに置いた。

 一樹は、私から離れるように、寝返りを打った。私を避けたように思え、心はまた一つひび割れた。

 翌朝、一樹のアラームで起きる。一樹は私が起き出したことに驚いていた。

「裕子、ごめん、起こしちゃったな」

「別に。いつも起されてるから」

 自分でも可愛げないとは思うが、どうしようもない。

「そんなことより、私一緒に釣りにいくから。いいでしょ?」

 一樹は唖然としてる。

「別にいいけど、どうした熱でもある?」

「ありません! 今日若洲海浜公園なんでしょ? 前から行きたいと思っていたの」

 一樹は適当に相槌を打つと、リビングへ降りて行ってしまった。

 一瞬気持ちを削がれたが、とにかく出かける支度を始めた。下へ降りて行くと、一樹は準備を終えてソファに腰を下ろしていた。

「ごめんなさい。待たせて」

 一樹は首を横にふると、立ち上がった。

「お弁当と飲み物は出して、そこのバスケットに入れたよ」

 見るとテーブルに出してあった紙皿やコップ、箸も入れてあった。

 私は冷蔵庫を開けて、グレープフルーツ、スイカ、レモンの蜂蜜づけの入ったタッパを取り出した。保冷バックに入れてバスケットの一番上に置く。

 一樹はバスケットを持ち、玄関を出た。私は急いで戸締まりをすると、一樹の後を追った。無言。車を走らせ20分は経つのに、私たちは一言も話さない。

 一樹の携帯から、懐かし曲が流れて来た。私が初デートの時に好きだと言ったバリーマニロウ。それも私の大好きな「Ready to Take a Chance Again」だった。洋楽はビ−トルズしか聴かない一樹が、これを聴いていたことに正直驚いたが、それでも私の気持は頑なだった。一樹が歌い出す。

「これ良いよな。今やカラオケで、僕の持ち歌だよ。意外に評判良いんだ」

 一樹の口から息子以外とカラオケに行ったなんて聞いたことなかった。仕事人間の一樹は、息子の事以外はたいして興味を持たない。私のことなんて家政婦? いや家政婦さんなら、少しは気を遣い、話しもするだろう。それすらしない私なんて、いてもいなくてもいい存在だ。その証拠に、もう何年も愛し合っていない。男性は他の女性を目にする機会はいくらでもある。お金を出せばそれなりに事は済せられる。それが現実だ。専業主婦の私は、エイやっ! とかけ声をかけても踏み出せない。たがは簡単には外せないのだ。

「コンビニによる」

突然の一樹の声に驚く。車は、見えて来たコンビニの駐車スペースに止まった。ピンクの可愛い軽自動車が目を引く。

「トイレ平気?」

 頷く私を見て、一樹はちょっと待っててと言って降りて行った。

 同時にピンクの軽自動車から釣り女らしき女性が降りてきた。三十代中頃の綺麗な女性だ。二人はにこやかに挨拶をして、親しげに話し始めた。一樹の大袈裟なジェスチャーが不愉快だ。ズボンのポケットに手を入れて何かを取り出すと、一樹はその女性にそれを渡した。嬉しそうに受け取る女性。突然、その女性が、一樹のポロシャツの襟に触れた。一樹は頭を掻ながら、私の方を振りかえった。女性は、にっこり笑うと軽く会釈をした。私もお辞儀はしたが、笑えなかった。ふたりは手を振り、それぞれの車に戻った。

「お待たせ」

 一樹はそれだけ言うと車を発進させた。音楽はビートルズに変わっていた。

 一樹は目的地を通り越した。私は思わず叫んだ。

「かず! 通り過ぎてる!」

「ゆう、やっとまともに声出したな。声帯ないのかと思ってた」

「そんなことある訳ないじゃない!」

 そしてまた沈黙。でも居心地は悪くない。私は思い切って聞いた。

「ねぇ、かず、あの女性」

「気になるか?」

 朝日に輝くさざ波が、私の頑な心を溶かしていく。

「気になる」

 私は一樹を見つめて答えた。

 車は小さなカフェの前で止まった。

「オープンは十時からだから、大丈夫。まあマスターには断ってあるし」

 一樹が先に降り、私の方へ回り込んでくると、手を差し出した。

 一瞬躊躇した私の顔を覗き込むみ、知り合いなんていないんだからと笑い強引に私の手を取った。信号を渡り砂浜に降りる。

 一樹は、時折砂に足を取られる私を抱きかかえてくれた。

「この辺でいいか」

 木陰を見つけると、一樹はバスケットを置いた。いつ用意したのか、小さなシートを私の前に敷いてくれた。

「さあどうぞ! お腹すいたよ!」

「一緒にすわろうよ」

 一樹は嬉しそうに頷いてくれた。肩が触れると、お互いに顔を見合せる。私はおにぎりを渡し、冷たいお茶を入れてシートの上に置いた。

「あの女性ね、何度か接待で行った銀座のホステスさん。ひとりで釣りするのに嵌ってて。まだ初心者だって言うから、待ち合わせして針をあげたんだ」

「ポロシャツの襟」

 私は、一樹の襟に触れる。

「仕事柄気になるそうだ。奥様に申し訳なかったってさ」

「そうなんだ。ねぇかず、私たちってこのままでいいと思う?」 

 私の言葉に、一樹は少し驚いた様子だった。ほんの少しの沈黙のあと、僕も正直に話すと前置きをして話し始めた。

 ここ数年、浮気を考えたこともあったし、チャンスもあった。ただ、裕子が韓流に嵌って行くように、自分も現実から離れた時間が欲しくて、昔息子といった釣りをまた始めた。今は結構嵌っているし、結局理性が邪魔をして浮気は先に進めなかったと一樹は笑った。

「それから、半年前ゆうに久しぶりに触れた時、一瞬にして硬直した体が痛々しくてな。拒否された? まさかとは思ったけど、僕の悪い癖でそれ以上踏み込めないでいた」

 私だって覚えている。あまりに唐突で固まってしまったけれど、あれで終ってしまうとは夢にも思わなかった。一樹が、そのあと何か言って来ると思っていたのに、何も聞いてくれなかった。話したい事、聞いて欲しいことたくさんあったのに。赤の他人が家族として突然住み始める。何年、何十年も共に生きている。察することはできても、それが相手の本意とは限らない。常にときは流れ、私たちにも新しい朝が来ていたのに、変わりばえしない毎日だと決めつけ、心の中でかずに期待と思いやりを要求していた。かずだって同じことだ。踏み込めないで終らせていたのは逃げていただけ。

「私、今日来てよかった」

ふいに抱き締められ、触れるだけの口づけに懐かしい感触が蘇る。

 痛みは消えない、少しヨレヨレになった私たちの第二恋愛期。

輝きは増していくと信じて生きる。


 



 

 


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