第6話 身勝手から出たわびさび

「ざーッス」

 翌日から、また平凡な日常が訪れた。

 安部はオフィスに入るといつもの挨拶をして、椅子に座りパソコンを立ち上げた。営業部のスケジュールを確認して、この日の自分の動き方を決める。直接他の従業員と声を交わさなくても、パソコンの画面を見れば仕事ができる。稟議書でさえ、パソコンで回す時代だ。

 メールをチェックし、自分のスケジュールを打ち込んでいると、芳ばしい匂いが安部の鼻を抜けた。立ち上がった安部は、給湯室へと向かった。

「部長、おはようございます」

「おはようございます、安部君」

 曽我は、ケトルから糸のように伸びる湯をネルに注ぎながら安部に挨拶を返した。

「部長、淹れ方教えて下さいよ」

 ネルの中で膨らむ泡を見ながら曽我は微笑んだ。

「ええ、喜んで。それでは明日はもう十分程早く出社して下さいね」

「はい、お願いします」

 曽我に頭を軽く下げて安部が自分のデスクに戻ると、真鍋が腕組みをして立っていた。

「急に変わる必要もないし、急に変われるものでもない」

「はい」

「どうだった? 昨日は」

 安部はお白州を眺めてそこに昨日の自分と平の姿を思い浮かべた。

「もう、くっそ面倒くさかったッス。もう二度と御免ッスね」

 そう笑顔で答えた安部の肩を、真鍋も笑いながら叩いた。

「だろ? 暫くはトラウマになるかもな。夢に出てくるぞ、平課長」

 今朝の夢で既に出てきていた安部はそれに苦笑した。


 その日の夕方、安部が外回りから帰ると、買い物袋を下げたベテラン主婦二人が会社の正面入り口を見上げていた。

「あら、こんな看板あったかしらね?」

「まあホント、素敵な看板。随分古そうね」

 縦長の木製看板の上に三角の屋根がついた屋根看板。その看板が、空を写すガラス張りのビルに映えている。

「来年で創業二百年なんですよ。あの看板は創業当時の物です」

 横で説明をした安部に、二人の主婦は「へえ」と感心して去っていった。

 その後も一分近く看板を見上げていた安部は、ついつい緩んでしまう表情を隠すことなくオフィスへと戻った。

「只今帰りました!」


 了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

指導課長・平沙院 西野ゆう @ukizm

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画