第5話 変化は緩やかに、確実に
安部は集中して年次有給休暇届に目を通している。宮辺の言葉を借りれば「小規模大企業」である宮辺物産の従業員数は二百人を僅かに超える。その数の届に目を通し終えた安部は、ふとあることに気が付いた。
「あの、電話鳴らなくないッスか?」
安部が出社してきて、一時間が経過していた。その間、電話が一度も鳴っていない。その事実には平も気が付いていなかったようで、安部の指摘を受けて腰を上げた。手近な端末の外線ボタンを押し、スピーカーから発信音が鳴っているのを確認すると、今度は自分の携帯電話で会社の代表番号へ発信してみた。すると静まり返ったオフィスに呼出音が響いた。
「ちゃんと繋がってるね。うん。ピカイチが頑張ったのかな」
「社長が何をですか?」
「取引先への周知よ。相当な数だったはずだけどね」
安部はその仕事を想像してゾッとした。営業の実動部隊は八人。その八人が分担して回っても、まだ人手が欲しくなる程度には取引先が存在する。全ての取引先へ実際に出向いたわけではないだろうが、一週間で頭を下げて回るのは容易ではないはずだ。ただの挨拶ではないのだから、メールひとつで済む話ではない。
驚く安部に、平は追い打ちをかけた。
「社長だけじゃないよ。営業部の他のメンバーも、他部署の人たちも。今日という日のために、この一週間は必死だったと思う」
平の言葉に、俯いていた安部が顔を上げた。
「そんなの、俺っていうより、みんなが罰ゲームみたいじゃないッスか」
眉間に皺を寄せてそう言った安部に平は頷いた。
「そう。罰ゲームね、一種の。特に営業部に対しては、お互いに見ようとしていなかった罰」
平の言葉の真意を読みかねている安部は首を捻っている。
「さっきも言ったけど、安部君って頭いいじゃない?」
「そう聞かれて『はい』って答える人いないッスよ」
「それはそうかもね。でも、それは置いておいて、仕事ができる安部君には、一度説明したら後は自分でそれなりにやってくれるって甘えが他の人にあったみたいね。逆に安部君は少し分からないことがあっても、周りに聞こうとしなかった」
そう指摘された安部だったが、自覚はないのか釈然としないようだ。
「それともうひとつ。安部君って、思っていることが顔に出やすいよね。そのことで学生時代に注意されたり、嫌な事があったりしたんじゃない?」
それは自覚しているようで、「あっ」と小さく声を出して俯いた。
「確かにね、大人として本音と建て前って大事だと思うよ。でも、本音を隠そうとする癖が染みついて、顔を見せないようにすると同時に、周りが見えなくなっていたのよ。今日も出社して、他の人がいないのにも、お白州にこんな模造紙が広げられていたのに気付かなかったでしょ。でも、それは安部君が悪いってわけじゃなくて、周りが気付いて指導してあげるべきなの。自分で気付いて改善できる人なんて、悟りを開いた聖人ぐらいなものよ」
ふざけて見える平に鋭く指摘をされた安部は、ふざけたことばかり書いてある年次有給休暇届を読まされたのにさえ意味があるのではないかと考え始めた。だが、とても指導的意味があるとは思えなかった安部は、たった今暗に教わった「分からないことは聞け」ということを実行した。
「あの、平課長。ところで、こんなの俺に読ませた狙いって何なんッスか?」
「あら。分からない? それ読んで思ったこととか、感じたことはなかった?」
分からないから聞いているのだと言わんばかりに、安部は口を尖らせた。
「そうね、例えば営業部の町田さん。彼女は安部君の一年先輩だよね。彼女が提出した年次有給休暇届にはなんて理由が書いてあった?」
平がそう聞くと、安部はその届を探すことなく答えた。
「えっと、確か『自分探しの旅で自分を忘れてきたので、自分探しの旅で忘れた自分を取りに行くため』だったかと」
「すごっ。一度見てもう覚えてんだ。で、どう? 感想は」
安部は、最初に佐竹が書いた理由に対する感想を流されてしまったのを思い出し、控えめに返した。
「まあまあ、じゃないッスか?」
「そうじゃなくて、もっと具体的に感じたこと。面白いとかつまらないとかじゃなくて」
具体的にと言われてもどう答えていいかわからない安部は、その豊かな表情でそのことを訴えた。
「思ったことそのままよ。もう一度紙を手に取って読んでみて。そして心に浮かんだことを言葉にするの」
既に平の言う通りに行動することに抵抗も疑問も感じなくなっていた安部は、言われるままに町田の名前を探した。
「えーっと、やっぱり『自分探しの旅で、ホテルに自分を忘れてきたので、自分探しの旅で忘れた自分回収の旅に行くため』で」
心に浮かんだこと。意識するとなかなか言葉にするのは難しいと感じた安部は、自分の部屋で、一人で漫画でも読んでいるような気分になってもう一度町田が書いた理由欄を目でなぞった。
「町田さん、割と女の子っぽいこと書くんだな。にしても、『自分探しの旅』とか、ちょっと古臭い」
安部はそう口にした後、とんでもなくバカな真似をやっているのではないかと、慌てて顔を上げて平の表情を見た。その安部の目に映った平は、満足そうな笑みを浮かべていた。
「どう? 中には知らない人も結構いたでしょうけど、少なくとも営業部の人たちのは顔を思い浮かべながら読んで、普段のイメージと比べたでしょ? 興味を持った人もいたりしたんじゃない?」
「ええ、まあ」
「それからもうひとつ。これはオマケみたいなものなんだけど、もし今日、どうしても人手が五人必要だったとして、この中から年休を別の日に変えてもらうようにお願いするとしたら、どの五人を選ぶか」
「五人、ですか?」
安部は平の言葉を聞いてすぐ、届けをもう一度流し見始めた。
「ねえ安部君、今何してるの?」
「え? 五人選ぶっていうから、もう一回見てるんですけど」
「どこを?」
「だから理由を」
再び顔を上げた安部の目の前に、満足そうな平の顔。それを見た安部は、上手く操られた自分に、思わず顔をしかめた。
「理由関係なく年休が取れるのは労働者の権利だけど、会社にはその日にちを変えてもらうようにお願いできる権利があるの。その時に理由が書いてあると、会社としては助かるのよね」
平はそう言うとオフィスの壁の時計に目を動かした。
「まだ十時前か。意外と早く終わっちゃうな」
平は「ヨイショっと」と掛け声をかけて立ち上がると、両手を上げて背伸びをした。
「んーっ、床に直接座ると体が冷えるね。安部君、コーヒー飲む?」
平にそう声を掛けられて、安部は慌てて立ち上がった。
「いや、俺が淹れますよ。課長に淹れてもらうわけには」
安部はそう言いながら、途中で笑い出した平に首を捻った。
「普段部長に淹れてもらっているでしょ? この会社では淹れたい人が淹れるのよ、コーヒーなんて」
「え? いつも部長が淹れてたんですか?」
周りが見えていないといっても、ここまでだったとは思っていなかった平は、安部の発言に驚き、息を大きく吸い込んで声を張り上げた。
「ああ! 旨いコーヒーが飲みたいなあ!」
その平の大声と、直後に聞こえてきた応接室からの声で、安部は完全に言葉を失った。
「コーヒーなら私が淹れますよ!」
九月二十六日火曜日午後四時五〇分。
宮辺物産ビル九階のエレベータホールから、社長室へと向かう廊下。近代日本画家が描いた夕陽を浴びる屈斜路湖の横に、平と安部が模造紙を掲示している。
「本当にここでいいんッスか?」
結局安部が絞り出した会社への要望はひとつだけだった。そのひとつが曽我の筆で中央に大きく書かれている。
「他にいいところある?」
「そう言われると困るッスけど」
要望が通れば剥がされる運命の模造紙は、角と辺の中央を短く切ったセロハンテープで貼り付けられた。平は模造紙から離れて見て、バランスを確かめると「よし」と頷いた。
「本当にこのひとつでいいのね?」
平が模造紙を軽く手のひらで叩いて、安部に確認した。
「はい」
安部はそう言って頷いた後、小声で続けた。
「本当はそれもどうでもいいけど」
安部が考え出した要望は、いくつかあった。最初に口に出した給料を上げてほしいという訴えは、そう言われることを予想していたのか、平が用意していた経理の資料を見せられて諦めた。そもそも、安部は宮辺物産の給料に全く不満はなかった。ならばと、次に福利厚生の面での要望を上げてみた。例えば、従業員が使えるスポーツジムがほしい、安く使える保養施設がほしい、といった類だ。ところが、これらは安部が知らなかっただけで、宮辺物産専用というわけではないが、かなりの割引で使える施設が全国に数か所あった。
「今、どうでもいいって言った?」
平に聞こえないように言ったわけでもなかった安部は、素直にそれを認めた。
「ええ、言いました。なんとか絞り出した要望、っつうか提案ですけど、通ったところで影響ないかなって」
安部は頭の後ろで手を組み、模造紙の中央に書かれた文字を眠そうな目で見ていた。
「そうかな。私はなかなかの提案だと思ったけど。ま、この提案が通ったら、また安部君の感想も変わってくると思うよ」
「そうッスかね」
――屋根看板は看板として外に掲げたし
午前中の囲碁の対戦で一勝二敗と負け越した宮辺は、曽我、平、安部の三人に会社近くの蕎麦屋で昼食をご馳走して帰った。残る三人が会社に戻った時、ロビーに飾られてある屋根看板が安部の目に留まった。安部にとっては単なる思い付きだ。平が安部に要望を絞り出させたのも、会社の事を考えるきっかけにしたかったのだろうと安部は理解している。要望の内容など何でも良かったはずだ。
「よし! じゃあ、帰るか!」
平が手を叩いて身体の向きを変えると、安部もそれに続いた。
安部の目の前で、スキップ寸前の軽い足取りで歩く平の後姿がある。左右に揺れるウェーブのかかった長い髪を何となく見ていた安部の歩調も、平に釣られて軽くなっていった。
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