第3話 もふもふスープで決起集会

 会社に戻った平は数分で昼食を済ませ、オペレーション・ボッチの周知に社内を駆け回った。ターゲットとなる安部が休んでいるこの日のうちに告知するのが最も効率がいい。社内の半数近くはオペレーション・ボッチ未経験者だ。平は特に重要な点を、何度も各部署の長に対して念を押した。

「いいですか、大事なのは二つ。当日まで安部君には絶対に知られないこと。これは当然ですね。もうひとつ大事なのは、年次有給休暇届の理由欄は適当に書くこと。適切な理由を書くのではありません。適当に理由を考えて書いて下さい。社長に最優秀適当賞を用意してもらいますので」

 説明をしながら、平は胸に情熱の火を燃え上らせていた。久しぶりに感じる高揚感だ。営業成績だけは平均以上の従業員が、真に会社の戦闘員になれるかどうかが自分の口先にかかっている。だが、平一人がどれだけ奮闘しても成功はない。会社全体がひとつになることが最も重要だと、平は常に新人へ教えてきた。

 会社の経営は綱引きと同じだ。どれだけ力のある人材を集めても、息を合わせ同じ方向に力を出さねば意味がない。幸い宮辺物産は、ことイベントでの一体感に関しては目を見張るものがある。

 会社は生き物であり、その会社に平は恋をしている。「仕事が恋人」とはよく聞くフレーズだが、平は「会社が恋人」なのだ。真面目に自分が結婚しないのは、この会社と付き合っていると、普通の男がつまらなく感じて仕方がないからだと公言している。

 その平が、最後に営業部を訪れた。外回りに出ている従業員が帰社している時間を見計らって行ったが、まだ真鍋だけは戻っていないようだった。

「ああ、平課長。どうなりましたか?」

 曽我が真っ先に平の姿を見つけて声を掛けた。

「それを今からご説明します。真鍋課長はまだ戻られてないんですね」

「ええ。もうすぐ帰ってくるとは思いますけどね。コーヒーでも飲んで待ちますか?」

 やたらとコーヒーを勧めてくるのも、平が曽我を苦手とする原因のひとつだった。とは言っても、平がコーヒーを嫌いだからではない。むしろコーヒーは好きな方だし、曽我の淹れるコーヒーは下手な喫茶店よりも旨い。それだけに、空間として気に入って通っている喫茶店に失望したくないのだ。

「いえ、結構です。真鍋課長には細々した説明は必要ないでしょうから、とりあえず今いる方にだけ説明します」

「分かりました。おい、皆の衆聞いたか? 平課長からアレについて説明がある。お白州に集まれ」

 営業部のデスクも、総務部と同様にコの字に並べられてある。ただし、真ん中のスペースに長机はなく、何もない空間になっている。曽我の呼びかけで、その真ん中のスペースに人が集まったところを見ると、どうやらそこを営業部では「お白州」と名付けているらしい。今度総務部の長机にも名前を付けようと心に決めながら、平は口を開いた。

「来週の火曜日、オペレーション・ボッチを発動します」

 その第一声を聞いても、平より後に入社してきた者は首を傾げている。その中で、曽我が「あっ」と声を上げた。

「アレはソレのことでしたか」

 そう呟いた曽我に平は頷いた。

「若い方々は初めて聞くでしょうが、オペレーション・ボッチとは、一人に仕事を丸投げして、他の皆は年休を取って休んじゃいますよ、って作戦です。この作戦を成功させるには皆さんの協力が必要です」

 平はそこで一旦言葉を切り、話を聞くメンバーの顔を見渡した。とんでもない内容の話に、全員が真剣な表情で平に注目している。

「今回のターゲット。当日仕事をする一人というのは、今日休んでいる安部君です」

 平が安部の名前を出すと、少しお白州がざわついた。それが収まりかけた頃、町田が手を挙げた。

「あの、平課長、よろしいでしょうか?」

「どうぞ」

「ありがとうございます。つまりは、安部君には内緒で他の社員は全員休むって事ですよね?」

「そうです」

「そんなことしたら、安部君も帰っちゃいそうなんですけど。それか、最悪会社も辞めちゃいそうで」

 町田の意見に、他の従業員も頷いている。

「そうならないように私が居ます」

 自信満々に言う平だったが、安部を知る同僚たちの不安は簡単に拭えそうになかった。

「大丈夫ですよ、平課長に任せていれば」

 全員がドアの方から聴こえたその声の主に注目した。

「やるんでしょ? オペレーション・ボッチを。駐車料金精算しに総務に寄ってきたんですけどね。その話で持ちきりでしたよ。どうも、只今帰りました」

 そう言ったのは真鍋だった。集まっていた者たちが口々に「お帰りなさいませ」と返した。平も真鍋に向けて笑顔を見せながら続いた。

「お帰りなさいませ、おなべ」

「真鍋です。相変わらずですね、平課長は」

 真鍋は苦笑しながらお白州の輪に加わった。

「うん、丁度良かった。おなべ、ちょっとこっちに」

「真鍋ですけどね」

 手招きされた真鍋が平の横に立った。

「実はこの真鍋課長が」

「なんだ、ちゃんと呼べるんじゃないですか」

「うるさい。実はこの真鍋課長が、第一回オペレーション・ボッチのターゲットでした」

 そう平に紹介された真鍋は、素知らぬ顔で斜め上に視線を向けている。

「新入社員研修五日目に寝坊し、会社からの電話で目を覚ました彼はこう言ったのです『あ、今日は土曜日だと思っていました。まだ酒が残っているので出社できません』」

 その話を聞いて、真鍋より古株の人間は懐かしいと笑い、後から入社した人間は信じられないと驚いていた。

「いやあ、懐かしいですね。せっかくなので私が再現してみましょうか?」

 そう言って自分のデスクから椅子だけ引っ張り出してきた曽我を、平が何とか止めようと努力したが無駄だった。悲しいかな曽我を止めようとしたのが平だけで、営業部は全員曽我が椅子を持ち出した瞬間にその場に正座し、お白州が高座へと変わってしまった。

 仕方なく平も正座したが、座った場所が曽我の左側だったので、これではお囃子さんのようではないかと正面に座り直した。全員が座ったのを見て、椅子の上に正座した曽我がお辞儀をして膝をひとつ叩いた。

「えー、世間では飽きっぽい、辛抱が足りない人のことを指して、三日坊主だなんて申しますが、これが趣味とか遊びならまだいいんです。ところが、おまんま食う為の仕事が三日坊主だとさすがに具合が悪い。会社の為にも、本人の為にもなりませんからな、ええ。この宮辺物産にも、とんでもない三日坊主が居りましたようで」

 あらかじめ稽古をしていたのではないかと疑いたくなるほど滑らかに話す曽我が、ここで上着を脱ぎ始めた。

「旦那! 若旦那! おう、どうしたい、へいきち。どうしたもこうしたもありませんや――」


「――はあー、鍋蔵なべぞうも偉くなったもんだねぇ。へい、それもこれも平吉の旦那のお陰ですが、あんな目に遭うのはもう、まっぴら、御免です」

「まっぴら」という落ちの部分で、いやらしく表情を決めた曽我が最後に深くお辞儀をすると、平と真鍋以外は派手に拍手と歓声を上げた。

 平には今のはなしにやや不満もあったが、それでも平とオペレーション・ボッチに対する信頼度は上がったようで、平が最後に二つの重要事項を説明する段階では、全員の目が光り輝いていた。


 Xデイ前夜。平と真鍋は、会社近くのバルと呼ぶには気が引ける洋風居酒屋に居た。誘ったのは真鍋の方だ。

「ねえ鍋蔵、次はいよいよコレでしょ?」

 店に入って既に三十分。おなべと呼ばれるよりもマシと、鍋蔵と呼ばれることを諦めた真鍋は、メニューに置かれた平の指先にある文字を読み上げた。

「『本日のおすすめ、ウサギのシチュー・マルチーズスタイル』ですか。何でしょうね、コレ。もふもふ感がハンパない料理名ですけど」

 こういう時に、チェーン店系居酒屋メニューの写真付きというのが、いかにありがたいかが分かる。そう考えている真鍋の心の内を見透かしたように、平が返した。

「頼んでみないと分からないってのも面白いじゃない?」

 そう言った平もまた、自分の発言に項垂れた。何でも面白さを優先するのは、宮辺物産に相当毒されているような気がしたのだ。それはもう、真鍋にも分かるくらい表情に出して。だが、真鍋はその平を見ていないふりをして、店員を呼んだ。

「コレ、お願いします。ウサギのシチュー。平課長、ひとつでいいですよね?」

 平は無言で頷いた後に天井を見上げた。見上げた先にあった、ジョージアのエルサレム十字をあしらった国旗に目が止まる。

「またいるかよはねまるこ」

 ポツリと呟いた平に、真鍋が首を傾げた。

「何ですか? またイルカよ羽根まる子って」

「福音書」

「福音書? ああ、マタイ、ルカ、ヨハネ、マルコですか」

「何だと思ったの?」

「いや、どこにイルカとか、まるちゃんがいるのかと」

 そう言った真鍋に向けられた平の顔は、何を考えているのか分からない、いや、魂が抜かれたように無表情だった。

「分かった。分かっちゃった」

「何が分かったんです?」

「研修後、すぐに私が課長になった理由。くっそピカイチめ」

 どういう思考の巡りで平が気付いたのかは分からないが、ようやく理由に辿り着いた平を、真鍋は同情の目で見つめた。

「とうとう気付いちゃいましたか」

 真鍋の予想外の反応に、平は思わずテーブルを叩いた。

「なに? 鍋蔵知ってたの?」

「知ってたというか、社長、ってか、この会社のやりそうなことだなって。平課長の名前を見た瞬間に思いましたよ。なんか、子供の頃から『平社員ひらしゃいん』って呼ばれてたんだろうなって。逆に今まで平課長が気付かなかったのが不思議ですよ」

「だって、子供の頃は『尼さん』ってあだ名だったもん」

 そう言った平は、今度はゼンマイが切れたおもちゃのように額をテーブルにコツリとぶつけて停止した。

「こんな会社、一生祝ってやる」

「祝うんですか?」

「呪うと間違えたのよ」

「書き間違えることはあっても、言い間違えることはないでしょうに」

 その後しばらく平はテーブルに額をぶつけたまま動かなかったが、五分程して額の赤くなった顔を上げた。

「鍋蔵、マルチーズはまだか。マルチーズ、マルチーズ、マルチーズ、マルチーズ」

 その声が聴こえたわけではないだろうが、マルチーズと連呼する平の横に料理を持った店員が来た。

「お待たせしました。マルチーズのシチュ、んっんん。ウサギのシチュー・マルチーズスタイルでございます。お飲み物はよろしいでしょうか?」

 店員に二人とも「大丈夫です」と答え、テーブルの中央に置かれたシチューと対峙した。

「ねえ」

「あの。あ、平課長どうぞ、多分同じことを考えているんだと思いますけど」

 店員が去った後に同時に口を開いた二人が、顔を見合わせていた。

「これって、実はマルチーズの肉とか、ってあるわけないから、鍋蔵、お先に召し上がれ」

「はあ。まあ、匂いはいいですね。じゃあ、遠慮なく」

 ウサギの肉など初めて食べるし、ましてやマルチーズの肉など食べたことがあるはずもなく、食べてみたところで何の肉か判別できない真鍋だったが、一口食べた後に発した言葉には疑いようもない真実味が溢れていた。

「旨いですよ、これ。めちゃくちゃ柔らかいです」

 腕組みをした両肘をテーブルに乗せ、前のめりに真鍋の食べる様子を見ていた平が小さく溜息を吐いた。

「鍋蔵って、何でもおいしそうに食べるのね。感心するわ」

「実際旨いんだから仕方がないですよ」

「明日の安部も鍋蔵ぐらい素直だったら楽なんだけど。そんな奴だったら、初めから私にまでまわってこないよね」

 平はそう言って、とりあえずひと口サイズの小さな玉ねぎひと玉を口に放り込んだ。

「うん、おいしい。味付けはビーフシチューと同じみたいね」

 次にいよいよ肉をスプーンに乗せた平に、真鍋が声を掛けた。

「あ、肉に骨が入ってますから気を付けて下さいね。あ、なんなら明日、私も顔を出しましょうか?」

 平は、真鍋の忠告に「ありがとう」と答え、申し出には「大丈夫」と答えた。

「曽我部長からも顔を出そうかって言われたけど、断ったわ。そんなに出てきたらオペレーション・ボッチの意味がないもん」

 確かにそうなのだろうが、平一人ではさすがに負担が大きそうに思えた真鍋は、首を横に振った。

「ずっとは居ません。三十分もしたら帰りますから。だいたい、平課長には安部の仕事内容が分からないでしょう?」

 真鍋が言う仕事内容とは、宮辺物産従業員としての包括的な仕事のことではなく、安部個人の具体的な仕事内容だ。

「そうね。じゃあ、甘えちゃおうかな」

 顔を少し斜めに傾け、柔らかい笑顔を浮かべながらそう言った平に、真鍋は体重をやや背もたれに預け、顎を引いた。簡単に言えば、年甲斐もなくかわい子ぶった平に引いた。真実を言えば、平を可愛いと思ってしまった自分に引いていた。

「ま、まあ、恩返しだと思って下さい。返せるかどうかは分かりませんけどね」

「鍋蔵も偉くなったもんだねぇ」

「なんだかんだ言って、曽我部長の落語、結構好きなんじゃないですか」

「まあね。みんな好きよ。会社そのものもね」

 また少し胸が高鳴った真鍋は、アルコールのせいにしようと、グラスに残ったワインを飲み干した。

 マルチーズがマルタ島原産の小型犬ではなく、マルタ料理を意味する言葉で、ウサギのシチューがマルタを代表する料理であることを二人に教えたのは、帰りの電車の中で見たスマホの画面だった。

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