第2話 オペレーション・ボッチ発動

 社長室の前で肩幅に脚を開き、平がドアと対峙している。息を整えて右手を軽く握ると、指の付け根にできた四つの丘陵を見つめた。平の脳裏に「君のMCPジョイントは実に美しいね」と、わけの分からぬ賛美をくれた、見合い相手の医師の顔がちらついて軽く頭を振った。

 平は改めて息を吐き、その美しいMCPジョイントで軽くドアを二度叩いた。

「ノック、ノック」

 ドアを叩く音に被せて、平は声を発した。中から少しくぐもった社長の声が返ってくる。

「誰だね? 今忙しいのだが」

「カヌー」

「は? カヌー? 誰だ、カヌーって?」

「キャンユーヘルプミー?」

 そう答えながら平がドアを開けると、七代目社長の宮辺光一がアンパンを咥えて、パットの練習をしていた。

 平の姿を認めた宮辺が、パターのグリップを出っ張った腹で支え、アンパンを手に取り、胸を拳で素早く八回叩いた。

「社長の中のリトルピカイチにお伺いのノックですか?」

 忙しいと言いながら遊んでいるとしか見えない宮辺に、平は嫌味たっぷりに口撃した。宮辺はそんな平を睨みつつ、デスクの湯呑を掴んで、ぬるくなった茶を喉に流し込んだ。

「平君」

「はい」

「キミ、社外でも私のことを『ピカイチ』とか言っとるだろう?」

 宮辺の睨みにも、平は平然としている。

「いいえ。でも、社長のお名前と、その実に美しい頭を見たら、誰でもそう呼びたくなりますわ」

 平は、まだ頭の片隅に残る医師の言い草を真似て言った。

「で?」

「は?」

「用件は?」

「ああ。あの、その前にさっきのノックノックジョークはスルーですか? 『カヌー』と『キャンユー』の発音が似ていてですね」

「何度も言わせるな。私は忙しい」

 宮辺は胸を張ってそう言うと、残りのアンパンを口に放り込んだ。

「ま、いいですけどね。じゃあ本題ですが、木曜日辺りにオペレーション・ボッチを実行しますのでご協力をお願いします」

 平の発言を聞いて、宮辺は元々細い目を更に細くした。

「オペレーション・ボッチ。ターゲットは?」

「営業部隊の安部四等兵、あ、いや、営業部の安部君です」

 途中挟まれた宮辺の咳払いに、さすがに平も悪乗りが過ぎたと反省したようだ。

「またアレをやるのか。効果は認めんでもないが、安部君は筋金入りのようだ。私も何度か名前を聞いているからね。そんな彼にも通用するかは疑問だな。しかも、リスクがとんでもなく高い」

 宮辺はそう言って苦い表情をしながらも、平の要求を拒否する様子はない。

「それでは実行に向けて動いていいですね?」

「いや待て。せめて来週の火曜日まで待ってくれ。繁忙期ではないと言っても、各所に迷惑を掛ける」

「では、金曜日」

「火曜日だ」

「月曜日!」

「火曜日以外は認めん。おい、平君」

「何でしょう?」

「キミ、テレビの見過ぎだ」

「私、テレビなんて飲みませんよ」

 二人の不毛なやり取りに、すっかり気配を消して座っていた、平と同期の社長秘書が小さく笑った。

「持田さん、居るなら居るって言って下さいよ」

 平にそう言われた持田は、更に声を出して笑った。

「どのタイミングで言うんですか? 社長室に入ってきた時に『平さん、私も居ますよ』って手を振れとでも? 最強のかまってちゃん現る、じゃないですかそんなの」

 持田のもっともな言葉に、平はぐうの音も出ない。

「それにしても、お二人って本当にご親戚とかじゃないんですか?」

 持田が何度目かになる同じ質問を宮辺にぶつけた。無理やり新しい指導課なる部署を作り、新入社員研修が終わったばかりの平が課長職に置かれたのは、数ある宮辺物産の謎の中でもトップクラスだ。社員の間では、親戚説、愛人説、それに隠し子説などというのも上がっている。

「社長、今更ですけど、私にも理由を教えて頂けませんかね?」

 平も持田に便乗して社長に詰め寄った。

 平が入社して十年。四月から三か月間の新入社員研修の時以外は、他の総務部従業員と同じ業務をこなしている。つまり、わざわざひとつの「課」として独立させる程の業務はないのだ。

 宮辺はこれまでその答えを濁していて、この日もやはり二人に答えを与えなかった。

「まあ、そのうちな。平君が大仕事を持ち込んでくれたお陰で本当に忙しくなった。持田君、とりあえずデパートから回ろう。オペレーション・ボッチとなれば、私が出向かねばな。さあ、平君も出たまえ。社長室は閉める」

 宮辺はそう言って平を社長室から追い出し、自身も持田を伴って出かけて行った。


 宮辺はイノベーショナルな経営者であると自負している。会社の歴史を尊重しながらも、社会の変化には柔軟に対応している。自らハンドルを握り、細かい碁盤の目を縫って走っているこの車だけは別だが。

 従業員の間でも、この車自体の評判はいい。ただ、生花店に似合いそうなモスグリーンとオレンジのツートンカラーに塗装されたその車を、ハンプティダンプティのような体型をした還暦男が操るのはミスマッチだ。

 六五年式スバルサンバーライトバンデラックス。先代社長から、成人のお祝いに中古で譲り受けたというが、車を複数台所持しているならまだしも、このサンバー一台だけを乗り続けているのは、平曰くある種の変態にしかできない。

「社長、ところでオペレーション・ボッチというのは?」

 助手席の固いシートに座る持田は、最初のデパートを出て次のデパートに向かう途中で宮辺に訊いた。たった今訪ねた担当者に、宮辺は「弊社の業務がほぼ一日停止するので、急な発注には応えられない」と光る頭を下げていた。

「持田君、今の回想に『光る』っていうのは必要だったかね?」

「あら、声に出ていました? 失礼しました。でも、実際何をなさるんですか? 全社的な事だとは想像できますけど」

「まあ、あんな大層な呼称を平君は付けたが、別にたいしたことじゃない。ターゲット以外の全員で年休を取るんだよ。適当な理由を付けてね」

 それを聞いた持田は、眉間に皺を寄せて頭を抱えた。

「あの、もしかしてそれ、私が入ったばかりの頃もありました?」

 持田は、随分前に上司から「適当な理由を書いて年休を取ってくれ」と言われたことがある。当時はまだ周囲に親しく話す者もおらず、年次有給休暇を一日も消化していない自分だけに出された命令だと思っていた。

「君と平君が入社二年目の時だ。その年に初めて新入社員研修で指導する側に立った平君が、入社一週間目にくだらん理由で年休を消化した新人に怒ってね。社会の一員として働くことの意味を教えてやるとか言っていたな」

 持田は話を聞きながら自分の顎がだらしなく下がってゆくのに気付いて、慌てて口を閉じた。

「それ、考える平さんも平さんですけど、それを実行する社長も突き抜けてますね」

「まあな。あの時は暇な時期でもあったし、面白そうだと思ったからな」

 持田が社長室に居て、度々耳にする言葉だ。

 ――面白そうじゃないか。やってみろ。

 社長秘書になって間もない頃の持田は、そんな宮辺に対して、なんと無責任な発言をするのだろうと思っていた。だが最近では、宮辺がそう言えるのも、部下が失態を犯しても自分が責任を取れる自信があるからだと理解している。それはさておいても、宮辺はとにかく「面白いこと」が好きだった。

「社長、何となくですけど私、どうして社長が平課長に役職を与えたのか、分かった気がします。面白そうだからですよね?」

 宮辺はその推測に笑った。

「まあな。しかしそれでは丸はやれん。面白そうだと思った理由がないから三角だ。だが、酒の席での思い付きで決めたことだし、私自身ここまで面白くなるとは想像していなかった」

 持田は再び下がりゆく顎を閉じた。

「酒の席かあ。なんだかとてつもなく下らない匂いしかしませんね」

 呆れつつそう言いながらも、持田は正解が激しく気になり始めた。

「社長、ヒント下さい。ヒント」

「ん? そうだな、平君の下の名前は知っとるか?」

「いいえ」

 持田と平は同期だが、特別親しいわけではない。名前など聞いたこともなかった。

「名前を知らないんじゃ答えは出ないな。信号で停まった時に教えてやろう」

 宮辺はその予告通り、停車した時に駐車場のレシートの裏へ「平沙院」とフルネームを書いて、その名前の由来を話しながら持田に渡した。

「それで『しゃいん』と読む。珍しい名前だろう? ご両親が新婚旅行で訪れた中国の片田舎の地名らしい。お二人にとって何か印象的なことがあった場所なのだろな」

 その紙を見て、持田は一秒と要することなく理由が見えた。

「平社員なのに課長、ですか?」

 持田の言葉に宮辺は、まるでダムに沈みゆく故郷を眺めているかのような哀しい表情をした。

「酔ってね、いたのだよ」

 持田もまた、冷蔵庫に入れてあったプリンを家族に食べられてしまったかのような哀しい表情で、窓の外を流れる景色を見ていた。


「えーっくしゅっ! ぶぇーっくしゅ! やだ、もしかしてブタクサ?」

 その頃、おにぎりふたつを袋に下げてコンビニから出てきた平は、季節外れの花粉症に怯えていた。

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