指導課長・平沙院

西野ゆう

第1話 身勝手社員を指導せよ

「おい安部、待て! おい待てって! おっ、くそっ!」

 江戸時代からの歴史を持つ宮辺みやべ物産株式会社。時代劇でよく耳にする「ちりめん問屋」が始まりの、衣類を主に扱う卸売業者だ。自社ビルロビーには、当時の屋根看板が受付横に置かれている。その歴史ある看板ひとつで、ロビー全体が洗練された上品な空気に包まれていた。

 だがそんな看板の力も、営業部がある六階フロアーまでは及んでいないようで、電話口で叫んだ後、受話器を持った左手を耳の横からだらりと力なく下に降ろした男は、「もーっ」と情けない声を上げていた。

真鍋まなべ課長、どうされました? 何となく予想はできますけど」

 その男に近づき、両手に持ったコーヒーのうちひとつを差し出しながらそう訊いてきたのは、真鍋の上司である曽我そがだ。

「ああ、部長。安部が今日休むって電話してきたんですけどね。あ、コーヒーすみません。いただきます」

 曽我は口元に薄く笑みを浮かべると、立ったままコーヒーに口を付け、喉を湿らせてから真鍋を落胆させた原因を推量してみせた。

「『かちょー。自分、今日怠いッス。仕事できそうもないッス』とか言われたかな?」

 五十歳手前の曽我が、自分の息子と同じ年だという安部の口調と声色を真似して言った。それを聞いていた女子社員は声を出して笑っていたが、真鍋は頭を抱えている。

「いや、もう、その通りなんですけど、笑えないですよ」

 真鍋の嘆きに、曽我も表情を引き締めた。

「確かにね。月に少なくとも一回はありますからね、彼。真鍋課長、安部君の年休は残り何日ですか?」

 真鍋はデスクに置いてある部下の業務日報の中から、安部のものを抜き出して確認した。

「えっと、安部は二年目だから、あと五日ですね」

 それを聞いた曽我は、真鍋のデスクにあった卓上カレンダーを手に取った。

「まだ九月だというのに。三月まで持ちますかね?」

「さあ、私に訊かれても。あいつ、変に営業成績は良いし、口が達者というか、生意気というか。迂闊に叱ると、こっちが疲れて参っちゃいますから」

 曽我は再びコーヒーを一口飲み、口を開いた。

「『えー、なんッスかそれー。マウンティングってやつッスか?』でしょう?」

 再び女子社員が笑い、今度はそれにもう一言付け加えた。

「言う、言う! あとあれ。『そんなことばっか言ってっから老害って言われるんッスよ』とか!」

 楽しそうな顔をしてそう言った女子社員の顔を、曽我は真顔でじっと見て言った。

「町田さん。その『老害』って、もしかすると私でしょうか」

 女子社員の町田は、曽我の哀しそうな目を見て慌てた。

「いや、どうでしょうか? あ、私、そろそろ外回り行ってきますね! では、行って参ります!」

 町田がひったくるように自分のデスクの下から営業カバンを取ると、他の社員が一斉に「お気を付けてー」と返した。

「真鍋課長、老害って」

「部長、私も出てきます」

 逃げるようにして出て行く真鍋を見送り、曽我は肩を落として自分のデスクに座った。

「一度相談してみましょうかねぇ」

 曽我はそう呟くと、受話器を上げて内線番号を押した。

「営業部の曽我です。はい、お疲れさまです。たいら課長はお手すきでしょうか?」


「はい、総務部田丸たまるです。ああ、曽我部長、お疲れさまです。平課長ですか? ちょっと待って下さいね」

 曽我からの電話を受けた田丸は、座ったままで受話器を持った腕を前に伸ばした。

「平課長、営業部長から内線です」

 総務部のフロアーに、コの字に並べられたデスク。その中央のスペースに、長机を二つ合わせた共用の作業スペースがある。そこにスポーツ紙を広げて、三面の片隅に載った「新助っ人外国人三日で帰国」という記事を読んでいた平が、大きな黒縁眼鏡の奥で面倒くさそうに目を細めた。

「平は昨日、死にました!」

 平は、自分の方に向けられた受話器にそう言って紙面に視線を戻した。

「だ、そうですけど。はい。分かりました。え? いや、まだだと思いますよ。今スポーツ新聞を読んでいるところですから。はい。はい。お疲れさまです」

 受話器を置いた田丸が、ノートパソコンのモニターを少し閉じて平と向き合った。

「曽我部長、来るって言ってましたよ。コーヒーを持って」

 田丸の呼びかけに、平がゆっくり顔を上げた。

「おまる」

「田丸です」

「くるって言ってたの? コーヒー持ってくるって?」

「ええ」

「『ブエヘヘヘ! 焦がした豆のエキスを含んだお湯をお見舞いしてやろうか!』とか言ってた?」

「ん? ああ、狂ってないですよ。曽我部長が来られるそうです」

「おまる」

「田丸です」

「私帰る」

「指導課長がそれじゃ駄目でしょ」

 平は盛大に嘆息して、スポーツ新聞の上に突っ伏した。

「曽我部長苦手なんだよなぁ。ふざけた顔してふざけたこと言うくせに、変に真面目だから」

「私はあなたが苦手ですよ、平課長」

 田丸の言葉に平が勢い良く身体を起こすと、緩くウェーブのかかった長い髪が、平の顔の半分を覆った。

「おまる」

「田丸です」

「部長だからって、私より偉いと思ってるのね」

「部長だからあなたより偉いんですよ。ほら、曽我部長がいらっしゃいましたよ」

「えっ? 早っ」

 平が振り向くと、片手に赤いケトルを、もう片手にネルをセットしたカップを持った曽我が、ドアを腰で開けて姿を現した。

「失礼しますよっ、と」

 平がその姿を見てスポーツ新聞を畳むと、そこにできたスペースに、曽我がコーヒーカップを置いた。カップの中は空だ。

「向こうで淹れていたら逃げられてしまいそうで。いやあ、昨日死んでいらしたわりに今日もお綺麗で」

「おま、いや、田丸部長、曽我部長がセクハラ発言をしています」

 平が情けない声でそう訴えたが、田丸は請け合わなかった。

「どの口が言っているのですか。それにお綺麗ですよ、確かに」

「ずりぃな、オッサン」

「何か言いましたか?」

「何でもありません! もう。それで、曽我部長、どんなご用件でしょうか?」

 平が曽我の方に向き直ると、曽我はパートの事務員にお湯を沸かすように赤いケトルを渡していた。

「ああ、すみません。実はですね、営業部の安部ですけれど、少々休み方が自分勝手でしてね」

 曽我はそう言って背広を脱ぐと、高座に立った落語家のように首を上下かみしもに振りながら今朝のやり取りを再現した。

 曽我の口から繰り出される軽妙な言葉と、絶妙な表情と所作に、田丸は時折頷き、笑い、食い入るように聞き入っている。

「旦那、そうと決まりゃあ、御上おかみにお伺い立てやしょう。おうハチ、ま、女将おかみと言っても独り身だがの。と、言うわけなのです」

 終始口を半開きにして聞いていた平が、最後の落ちサゲに再び田丸へ訴えた。

「おま、田丸部長、やっぱり曽我部長がセクハラ発言をって、今のそんなに面白かったですか?」

 田丸は口を手で押さえて笑いを堪えている。

「え? 面白かったじゃないか。さすがは曽我部長」

 当の曽我は涼しい顔をして脱いだ背広を再び着ている。

「そもそも毎回小咄こばなしする度に上着脱ぐのって何なんですか?」

「それは、マクラから本題スジに入る時に羽織を脱ぐ癖がね。いや、それよりも安部君です。どうしたものでしょうか?」

 真剣な表情で言う曽我に、平は眼鏡を外した。そして、その眼鏡を持った手の甲に顎を乗せ、この日初めて真面目な眼をした。

「久しぶりにやってしまいましょうか、アレを」

「アレを、ですか?」

 その視線を正面から受けた曽我が生唾を飲んだ。自分のデスクにのんびり座っていた田丸も立ち上がった。

「平課長! さすがにやりすぎでは」

 平は目を剥く田丸にニヤリと笑って立ち上がった。

「早速社長に談判してきます」

「平課長、コーヒーは?」

 平は曽我の目の前に手のひらを広げた。

「ひと仕事終えてからご馳走になりますわ」

 平が眼鏡を長机に置き、長い髪をなびかせながら颯爽と社長室へと向かう。残された田丸と曽我の耳に、フロアーを叩くハイヒールの尖った音と、平の笑い声が響いた。

「田丸部長、アレって何でしょうか?」

「さあ、何でしょうね」

 なんにせよ平に任せれば悪いようにはしないだろうと、曽我は沸いた湯をネルの中で乾いているグァテマラに注いだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る