第4話 いざ始動

 九月二十六日火曜日午前七時三〇分。

 普段よりも一時間近く早めに出社した平は、ビルの守衛室の前に立っていた。

「おはようございます。六階の鍵をお願いします」

 平が小さな窓越しに中にいる守衛へ話しかけると、守衛はキーボックスを開いて首を傾げた後、手のひらを打った。

「そういえば、六階なら朝一に社長が持って上がられましたよ」

「え? ピカイチ来てんの? っつうか、朝一って何時?」

「六時ぐらいですかね。うん、はい、五時五七分ですね」

 守衛がパソコンのモニターを確認して正確な時刻を告げた。

「五時? 年寄りめ」

 朝一番に、まだ誰も来ていないオフィスのドアを開ける。そんなささやかな平の夢は、宮辺によって砕かれた。

 六階でエレベーターを降り、営業部のオフィスのドアノブを回すと、重りを一番上に上げたメトロノームのような音が平の耳に届いてきた。その音は応接室の中から聞こえてくる。平がノックもせず扉を開けると、碁盤を挟んで宮辺と曽我が座っていた。

「なーにやってるんですか。あ、『見れば分かるだろう、碁だよ』とか言わないで下さいね」

 平に先手を指された宮辺は、赤潮で苦しむ魚のように口をパクパクとしている。

「これは平課長、おはようございます。もうそんな時間になりましたか」

 曽我がそう言いながら腕時計を見ている。

「おはようございますじゃないですよ。休んで下さいって言ったじゃないですか」

 平の小言に、曽我は頭を掻いた。

「いやあ、用事もないのに会社を休んだら、妻からリストラされたんじゃないかと心配されやしないかと思いましてね」

「仕事がないのにスーツ着て家を出る方が余程怪しいですよ」

 曽我は平の指摘に「なるほど」と頷いただけで、碁盤に新しく石を置いた。それを見た宮辺が眉間の皺を深くしている。

「そうだ、社長。私が課長になった理由、分かりましたから」

「ああ、そうか」

 わざとらしく囲碁に集中しているかのように顎をさする宮辺に、平は軽く苛立った。

「もう私が社長をピカイチって呼んでも怒れませんね」

「光って文字はピカとは読まん」

「『沙院』はしゃいんでも輝くシャインですよ! アレ? なんか違うな」

 宮辺は、自分の発言のおかしさに頭を両手で押さえている平を鼻で笑った。

「平君、見ての通り我々は遊んでいる。気にせずに仕事をやってくれ」

 宮辺は碁笥ごけの中の碁石をかき混ぜるように指で弄びながら、野良犬を追い払うような手つきで平をあしらった。そんな態度をしながらも、二人が平の仕事と、安部のことが気になって仕方がないのだと分かっている平は、それ以上何も言わなかった。


 宮辺物産の始業時間は八時二〇分。普段は八時過ぎに出社してくる真鍋も、十分ほどではあるが早めに出社してきた。出社と言っても普段のスーツ姿ではなく、長袖のTシャツにチノというラフな格好だ。その真鍋がオフィスに入って最初に見た物は、お白州の中央に巨大な模造紙を広げている平の姿だった。

「おはようございます。平課長、それ何ですか?」

「おはよう、おなべ。これはちょっとした小道具」

「はあ、おなべに戻ったんですね」

 そう言って悲しい表情になった真鍋は、応接室の曽我に「鍋蔵」と言っているのを聞かれたくないという平の思いには気付かない。

「小道具って、何に使うんですか?」

「会社への不満とかね、要望を書くの。で、社長室の前に張り出す。その作業を、安部君のスケジュールが空いている時に手伝ってもらうのよ」

 説明されてもその目的も効果も全く想像できなかった真鍋は、「へえ」とだけ返して給湯室に向かった。

「平課長も飲みます? コーヒー」

 よく通る声でそう言った真鍋に、平は舌打ちをした。

「真鍋課長、コーヒーなら私が淹れますよ!」

 真鍋の耳に、それはまるで天の声のようにでも聞こえたのだろう。滑稽なほど曽我の声に反応して周囲を見渡している。

 十分後に淹れられた曽我のコーヒーはやはり、平の怒りのケトルが笛を鳴らすほどおいしかった。平は一瞬、曽我が店を出せばいいのにと思ったが、カウンターの中で妙な小咄などされては落ち着けないとその考えを振り払うと同時に、営業部長という立場が曽我には最適な気がしてきていた。

 そうこうしているうちに、始業時間を知らせる宮辺物産社歌オルゴールバージョンがスピーカーから流れ出し、最後の和音の残響が消える寸前に、安部がオフィスに登場した。宮辺と曽我は既に応接室へと退場している。

「ざーッス」

「安部君、おはよう」

 自分の席に座りながらだらしない挨拶をした安部が、返ってきた挨拶に初めて異変に気がついた。

「あれ? 課長、どうしたんッスか、その格好」

「うん。今日は俺、休みなんだけどね、ちょっと忘れ物したから取りに来ただけ。もう帰るよ」

 安部は真鍋の言葉を聞きながら辺りを見渡した。

「他の人は?」

「皆も休みっぽいね」

「部長も?」

「部長も」

 どうやら出社しているのが自分だけらしいと悟った安部は、とても取引先には見せられないような不満と怒りが入り混じった顔をした。

「っんだよ、それー。俺もアポ取り直して今日は帰ろうかなあ」

 予想した通りの反応に、思わず真鍋は苦笑いした。

「皆は年休届をちゃんと出しているからね。もちろん私も。それに、総務の方でどうしても今日中にやっておきたい仕事があるから手を貸してくれって言われていてね。今日は安部君しか出社しないって伝えたら、じゃあ安部君に頼むってさ。空き時間、あるだろう?」

 営業部のメンバーは、オンラインスケジュール管理ソフトに全てのスケジュールを入力している。成果を報告する日報の役割も兼ねているので、入力漏れは基本的にない。

 普段、スケジュールの空白部分では、発注が落ちてきている店舗などから順に顔を見せに行くのが常だが、仕事の優先順位としては低い。総務から仕事を頼まれれば、そちらを優先するしかなかった。

 そして、今日の安部のスケジュールは、三時まで真っ白だ。

「と、いうわけで、今日は営業事務の派遣さんも休みだから、発注受けたら安部君が入力しておいてください。それと、電話も当然全部出ること。今日は代表電話もここで取れるように主装置の設定を変えてもらっていますから」

 伝える事を伝えて帰ろうとしている真鍋を、安部が悲痛な声で呼び止めた。

「ちょっ、ちょっと待て下さいよ。代表電話って。休んでいるの、営業部の皆だけじゃないんですか?」

「え? ああ、そうだよ。社長もお休み。指導課長の平さんだけは出社しているけどね」

「平課長だけ? もしかして俺に対する嫌がらせッスか?」

 さすがに頭の回転が速いようで、企みに気付いた様子の安部と、やはり最初は嫌がらせだと感じていた昔の自分を思い出して、真鍋は苦笑した。

「嫌がらせじゃないさ。それを証明するのは安部君自身だけだけどね。じゃ、そういうことで」

「は? なんッスか、それ? 課長!」

 安部の声を背中で受けてオフィスを出た真鍋と入れ替わりに入ってきた平を、安部は思い切り睨みつけていた。

「おはよう、安部君。真鍋課長から聞いたと思うけど、ちょっと手伝ってほしいことがあるんだ」

 安部は挨拶も返さず、膝を揺すって不機嫌さを露わにしていた。

「先週サボった罰かなんかッスか、これ?」

 安部は揺する膝に肘を置いた態勢で、横に立つ平を下から睨みつつ言った。

「へえ、サボったって自覚はあるんだ」

「違いますよ。あの日はマジで怠かったんです。会社側はサボったって思ってんでしょ、どうせ」

 まるで中学生だ。平はそう思ったが、ここで中学生に対して叱るようなやり方をしても無意味だ。とりあえず平は安部の次の言葉を待った。

「好き勝手に休んだら、他の社員に迷惑を掛けるって言いたいんでしょ? こんな事しなくたって、ひとこと言えば分かりますよ。俺も馬鹿じゃないッスから」

「そんなの、私だって分かってるよ。でもね、別に身をもって分かってもらおうと思ってオペレーション・ボッチを実行しているわけでもないの」

「は? なんッスか、その名前。はあ、もういいですよ。なんか俺にやらせたいことがあるんでしょ? 何すればいいんッスか?」

 打ってもまるで手応えがない。暖簾に腕押しとはこのことだろうな、などと思いながら、平は安部の要求通り仕事を与えた。

「ほら、お白州に模造紙を広げてあるでしょ? あれに安部君の会社に対する不満とか要望を書いてほしいんだよね」

 それを聞いて安部は椅子に座ったまま背筋を伸ばし、お白州に視線を向けた。

「うわっ、模造紙とか久しぶりに見た」

 その様子を見た平は、安部の大きな問題点を見つけて小さく頷いた。

「うん。懐かしいでしょ。で、もう一年半この会社で働いているわよね。何か不満とか出てきているんじゃない?」

 そう言うと平は安部にマジックを差し出した。条件反射的に安部はそのマジックを受け取ったが、その後どうしたら良いか考えが追いつかない様子だった。

「そこに座っていても何も書けないよ。とりあえず模造紙に向かいなさい」

 安部は言われるままにお白州に移動して模造紙の前に胡坐をかいた。平は意外と素直に応じる安部に安心すると同時に、その安部を最初の研修期間中に指導しきれていなかった自分を悔やんだ。

「これ、書いたとしてどうするんッスか?」

 安部はマジックのキャップを片手で開けたり閉めたりしながら平に尋ねた。

「社長室の前に貼る。ピカイチに見てもらわないと意味ないでしょ、要望なんだから」

 平が答えても、安部の手は模造紙の上に伸びなかった。

「どうしたの? 何もない?」

 顔を覗き込んで来た平の目を安部が見返すと、マジックの蓋をしっかりと閉めて、模造紙の上に転がした。

「別に不満とかないッスよ」

 そう言って頬杖をついてしまった安部に、平は別の質問を投げた。

「安部君って、馬鹿じゃないどころか、頭いいよね?」

 平は模造紙の横に置いてあった紙袋に手を伸ばし、中から一冊のファイルを取り出して、それを捲りながら話した。

「は? 別にフツーじゃないッスか?」

「いいや、賢いよ。大抵の仕事は一度で覚えるし、効率のいい方法も、自分なりに考えられる」

 急に褒められ始めた安部は、首を横に向けて耳の穴を小指で掻き始め、平に対して否定も肯定もしない。

「営業成績も二年目にして中の上ってところかしらね。書類の作成も丁寧でミスも少ない」

「だからなんッスか? もっと真面目に働けって?」

「これ、安部君がこれまでに出した年次有給休暇届。理由の欄だけどさ、病気で休んだ後に出されたものには『体調不良のため』って書いてあるのに、事前申請のやつは空白なのはどうして? 仕事の書類は完璧に書けるのに」

 平は安部がどう答えるのかわかりきっていたが、敢えてその質問をした。そして、やはり平の想像通りの答えが返ってきた。

「今時理由を訊く会社の方が少ないんじゃないッスか?」

「あら、どうして?」

 平の反応に、安部は嫌悪する物を嘲る様に口の端を歪ませた。

「年休を取るのに理由は必要ないんッスよ? 労働者に与えられた権利なんッスから」

 予想していたとはいえ、平は悲しくなった。安部が言っていることは正しい。だが、正しいだけだ。

「安部君。もしかしてさ、年休取得に理由は必要ないってことと、どんな理由で年休を消化しても構わないってことがイコールだと思ってる?」

「同じッスよ。どんな理由でも権利なんッスから、文句を言われる筋合いはないってことでしょ?」

 こういう考えを持つ若い労働者が増えていることは平も知ってはいたが、ここまで自信たっぷりに言い放たれるとは予想外で、言葉を失いそうになっていた。

「そ、そっか。でもね、うちの会社がわざわざ理由欄を設けているのにはそれなりのワケがあるの。そう、これはね、会社から従業員に対してのお願い、要望なのよ。欄の下にも書いてあるでしょ? 理由は書ける範囲で詳しく書いて下さいって。安部君は会社に要望がないから、会社の要望にも応えてくれないのかな?」

 平の少々回りくどい言い方に、安部は小さく舌打ちをした。「こいつ今舌打ちしやがった」と平は心の中で思いつつも、何とか笑顔を保った。

「今日ね、みんな年休取ってるでしょ。だから当然年次有給休暇届も出してもらっているのね。今後の参考になるか分からないけど、他の人がどんな理由を書いているのか見てみて」

 平が紙袋から束になった年次有給休暇届を出すと、仕方なさそうに安部が一枚ずつ理由欄を流すように読み始めた。平は安部の表情に注目している。安部の表情は何とも豊かだった。そして、それも問題点のひとつに繋がっているのだろうと思った。

 ある一枚の届を見ていた安部が、とうとう吹き出して笑った。

「これ、酷くないッスか?」

 安部が笑いながら出した紙を平が受け取って読んだ。平もまだ提出された届には一枚も目を通していない。

「んーっと、流通管理課の佐竹君か。どれどれ。『宗教上の理由(俺が神様)』なるほど。なかなか汎用性のある理由だね。十月だったらもっと良かったのに。はい」

 さらっと受け流して紙を返してきた平に、安部は眉間に皺を寄せた。

「なんッスか、まだまだ甘いみたいな顔して」

「まだまだだからよ。また変なのあったら教えて」

 安部は口をへの字にしながらも、残りの届を読み進めていった。

 その頃応接室の宮辺と曽我は、音を立てないようにと、お互いを目の前にしながらスマートフォンで囲碁のオンライン対戦をしていた。

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