第24話(最終話) 過去・現在・未来


 第一次大戦以前、世界のユダヤ人口は中欧・東欧・ロシアに集中していた。その数およそ八百万人。

 今、同じ地にユダヤ人は二百万人をかぞえるに過ぎない。実に六百万人ものユダヤ人が、此の地から消えた。彼らは何處へ行ったのか。答えは――米国と、イスラエルだ。(加えて、ナチスドイツにより虐殺された者たちと)


 そのイスラエルの歴史を想うと、複雑なおもいに捉われないではいられない。ユダヤ人を襲った悲劇は役と場所ところえて、その後数十年に亙り新たな悲劇を生みつづけている。


 イスラエル建国は、ユダヤ人たちが生存を脅かされないための切実な希望だった。

 旧約聖書の記述を根拠に、神に約束された地がユダヤ人の手に帰するのは当然……とは流石に考えなかっただろう(と信じたい)が、自らの国家をたなければ虐殺が大口を開けて待っているとは、妄想や脅迫観念ではなく、ほぼ同時代に現に起こった、生々しい現実リアルだったのだ。

 だが、二千年ぶりの約束の地には、既に別の民が住んでいた。二千年もの間その地で営々と耕し、産み、育んできた民が。彼らの自由も民族自決も、一顧だにされなかった。代々暮らした故郷に生きる権利さえみつけにされて、如何どうして納得できたろうか。


 すこし想像力を働かせれば理解わかることだ。だがこの新国家を成立させた大国と、新国家の国民・指導者たちは、彼らの想いを理解し寄り添う努力を怠ったように思えてならない。あたかもアーリア人の優性を信じた者たちがユダヤ人の生きる権利を剥奪した、苦い歴史をなぞるように。

 同様に、二千年その地に暮らした者たちも、新しい隣人たちの窮状切迫を想像する余裕は持ち得なかった。(もっとも、迫害される側に、迫害する側の者の心情を理解せよと求めるのは無理があるだろう)

 想像力の欠如が、民族間の相互無理解と憎悪を増幅させていくのだと思う。とは云えその失陥は人類通有の宿痾で、彼らに石を投げる資格を持つ者は地上に一人として在るまい。

 くして彼らは、互いに自身の生存権を賭け血を流し合う。


 それぞれに大義があり、譲れぬ信念があり、渇望する夢があるのだろう。いずれの理により分があるかなどと論ずるつもりなはい。ただ、これだけは云える。理想も正義も、両者がそれぞれ勝ち得ようとする如何なる果実も、この紛争で流された子供たちの涙をあがなうだけの価値はないのだと。



 え上がった憎悪と復讐の連鎖を止めるのは絶望的にさえ思える。

 だが人の世の営み、因果起結は単純明快な一本道ではなく、複雑怪奇な迷宮なのであって、一筋縄でいくものではないとはさきに述べた通りだ。憎悪の応酬と、各国の自国第一の思惑が、いつか思わぬところから平和の解決策を見出すことを信じたい。薄っぺらな楽観的希望オポチュニズムであることは承知の上だ。

 願わくはその日は、あまりに遅きに失しない前に来たらんことを。入植地で繰り返される悲劇、そこで喪われる人命の一個ひとつとして、誰かの勝利やなにがしかの達成のための犠牲としていものはない。


 思惟おもえば私の仕事も、復讐の連鎖の、ひとつのを為している。何時いつの日か、私もその酬いを受けるだろう。どのような最期を私が迎えるにせよ、あだを討つには及ばない。此処で復讐の連環が断ち斬られることをこそ私は望む。

 ウィーン発の私の旅は、帰路も紛争地を避け長い途行みちゆきになるようだ。窓から下を覗けば欧州の各都市の明るい燈火が次々と現れる。紛争地ではそれは、紅蓮地獄の色をしているのだろうか。それとも光なき漆黒の底に沈んでいるだろうか。彼らの街の灯が、希望の色に輝く日が早く来ることをねがって、私は目をじた。



(了)


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世界の車窓から殺し屋日記4 チェコ・オーストリア編 久里 琳 @KRN4

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