君と息をしたくなる

朝吹

君と息をしたくなる

 

 水はすぐに濁る。水泳の授業が終わった高校のプールは水をはったまま、来年の出番まで緑色の羊羹のように淀んだ長方形を見せている。周囲のタイルはうっすらと汚れ、隅には枯葉がたまり、そこだけが廃校の趣きだ。

 プール開きがあった初夏。不吉を祓うようにして体育教師はことさら大声を上げて指導した。私たちは死臭の漂う水の中を泳いだ。必死で。

 塩素の匂いは帰宅するまでまとわりつく。肌に髪に。死人がついて来る。

 澄んだ空の下、透明な飛沫を上げて心ゆくまで四肢を解放するはずの水の中、私たち生徒は、いつ水底から掴まれるか、視界に何かの気配が過りはしないかと、びくびくしていた。

 プールは冷え冷えとした骸を秋の冷たい雨のなかに晒している。昨日から降り続くこの雨で、校庭の金木犀の花も大部分が落ちてしまった。葬送の菊とはまた違う寂しさを帯びた花の香り。金木犀の葉の色と水槽の色が重なり合う。

 人が死んだ場所。


 光。


 双子の兄の名は、ひかり。

「じゃあ、お前は『のぞみ』か『みずほ』だな」

「それは聴き飽きた。当ててみて」

「『つばさ』『こだま』」

「正解は『あおば』。兄が光、妹のわたしが青葉」

「あおば。それ今はもうないじゃん」

 名付けたのは鉄道オタクの父親だ。重度の鉄オタがすぐに新幹線を連想するのにはわけがある。苗字まで新幹線なのだ。『那須乃なすの

 青葉と光。双子と分かった時から父の頭の中にはこの二つの名が浮かび、性別はどうであれ、先に産まれたものが『光』、後に産まれたものが『青葉』と決めていたそうだ。

「ひと昔前なら、後から産まれた方が兄姉だったんだって」

「そうなんだ。なんでだろう」

「お胎の奥にいた方が長子だと考えられていたからみたい」

 那須乃光と、那須乃青葉。

 わたしたちは仲の良い男女の双子。



 青葉には、好きな人がいる?

 兄の光から訊かれた時、わたしは歯を磨いていた。

 歯ブラシを口に突っ込んだまま首を横にふったわたしに光は、「いないんだ、まだ」と少し笑みを含んだ顔を向けてきた。

 「まだ」とは何よ。

 光は幼稚園児の頃からモテた。べつに不思議なことではない。赤子の頃から整った目鼻立ちで、俳優になればいいような顔をしていたのだ。双子なのに、妹のわたしの方は十人並みだ。

 逆だったら良かったのに。

 意地悪な子が聴こえるようにわたしの背後で囁いて笑う。それはわたしの心に刻み込まれた。なるほど確かに。

「光はいるの。好きな子」

「青葉には秘密」

「だったらわたしにも想わせぶりなこと訊かないで」

 歯磨きを終えたわたしは床に座ってゲームをしている光の膝を蹴って通り過ぎた。

 光が好きな人。それはすぐに分かった。産まれる前から付き合いのある双子の妹を舐めてもらっては困る。ずっと知ってた。SF風に云うならばこんな調子だ。

 音が聴こえるね、光。

 あれはお母さんの心臓の音だよ、青葉。

 私たちは母の胎内で最初の鼓動を分け合っていた双子。だからわたしだけがそれに気がついていた。夏の終わり頃から光がうまく呼吸をしていない。



「古典を担当します。佐藤さくらです」

「先生可愛いねー」

「彼氏いますかー」

 『さくら』も新幹線だな、と内心で想った。

 桃色の角砂糖。そんな印象のさくら先生は、GW明けに産休に入った古典の教師の代わりに私たちの高校にやって来た。三十歳手前とはとても想えないほど若く見えたが、指輪をはめた既婚者だった。

「あれ、付箋は何処に行ったかな。あれ」

「先生しっかりー」

 生徒からの冷やかしの声をものともせずに、さくら先生の授業は面白く、それまで古臭いだけだった古典の世界が急に身近にみえてきた。先生のお手製のプリントは授業では触れられない古典の世界を広げてくれた。

 高校生の心を掴むには、彼らが親しんでいるサブカルに絡めるのが一番だ。

 さくら先生はそれをよく分かっていたとみえて、

「この和歌の心情は、今なら書店の店員とのアイスクリーム・デートが激写されたB級アイドルの薫Kaoruね。意味は、恋心が早くも世間に知れ渡ってしまった、誰にも知られないように心のうちに想ったばかりのことなのに……、です」

「当時の現場の状況はこの絵巻物に描かれてあります。こっちが政府軍、こっちが革命軍。そしてこの辺にいるのが、エースかな」

 時々さらっと時事ネタや流行のアニメや漫画の知識を差し入れてくるので、気が抜けなかった。どんなに眠くてもさくら先生の授業だけは生徒の眼が覚めた。

「光、シャーペンの芯ちょうだい」

 子どもの頃に使っていた二段ベッドを分割して、光とわたしはそれぞれの部屋にベッドを持っている。背の伸びた光のベッドは窮屈そうだ。

 思春期に入ると自室は自我の延長のようになり、家族が入ることをひどく嫌がって拒みはじめる。親の入室を禁じたのは女のわたしよりも光の方が先だった。

 

 逆だったら良かったのに。


 わたしもそう想う。小物が多くて雑然としたわたしの室とは違い、光の室はいつ入っても全てがきちんと整えられていた。

「でも、居心地がいいのは青葉の室だよ」

 シャーペンの芯をくれた光はわたしにくっついて、向かいのわたしの室に附いて来た。光の室のカーテンは群青色、同じ地模様でわたしの室は 乾鮭色だ。日当たりもこちらの方がよい。

「この漫画の続きはないの」

「新刊がまだ出てない。少女漫画が好きだなんて、光、変わってる」

「少年漫画も読むよ。面白い作品に区別はないよ」

 長い脚を投げ出して、光は熱心にわたしの室に置いてある本を読む。まるでわたしのことを知り尽くすかのような勢いで。

 光は中学の途中で眼鏡になったが、今はその眼鏡を外していた。もしわたしが光くらいの容貌を持っていたら、今頃はわたしではなく、光のほうが友だちから云われていたのだろう。昔からわたしが散々云われているように。

 双子なのに片方だけがアイドルみたい。



 那須乃青葉さん。

 廊下の向こうから、さくら先生に呼ばれた。

「日直よね。先生少し遅れるから、授業の前に先生の机の上に置いてあるプリントを取りに来て、先に配っておいてくれる?」

「はい」

 一足先にお手製のプリントが読めるのだ。頼まれたことが嬉しかった。

「失礼します」

 職員室に入り、さくら先生の机に向かう。誰かがさくら先生の机には夫との写真が飾ってあると云ってた。興味津々で机の前に立つ。

 これがさくら先生の夫か。

 さくら先生もまだ若いが、夫も若い。学生結婚だったそうだ。夫の方は大学の研究室に残っていて、収入がまだ低いと云っていた。

 満開の桜の樹の下で、さくら先生と白衣の夫が腕を組んでいる。何故か二人とも真面目な顔をしているのが後から想えば暗示的だった。

 プリントアウトされた印刷物を抱えようとした。隣りに生徒から回収した古典のノートが積んである。積み上げたノートが少しずれていて、別のクラスにいる光の名が見えた。

 何気なくわたしは光のノートを取り上げてぱらぱらとめくった。古典の授業など男子には退屈なだけかと想ったが、さくら先生の授業のお陰か、ノートも熱心にとってある。ふと最後の頁に眼が留まった。職員室の窓から見える花壇には、園芸部の植えた春の花が満開だった。


 先生、大丈夫ですか。


 光の字。そして返信はさくら先生の字。


 二人だけの秘密よ。

 

 

 近年は秋が極端に短いというが、生まれた時からそれしか知らないわたしの世代にその感慨はない。

 帰宅して夕食をとり、風呂に入って、両親が寝てしまうのを待った。会社の遠い父は早く就寝する。母もそれに合わせていたから、夜は私たちだけが起きている。この時間がわたしは好きだ。世界に二人きり。

「光」

 階下のリビングに居た兄の光は、わたしに呼ばれて二階に上がって来た。わたしの室に入ろうとする光を押し出して、私たちは光の部屋に入った。

 真っ暗だね、光。

 二人きりでお胎の中にいた時みたい。

 わたしの光。ずっと分かっていた。わたしが求め、光の腕がわたしの腰に回った。

 


 さくら先生はプールで溺れた。

 大学の研究室に泊まり込んでいたさくら先生の夫は、確かに研究室にいたが、助手の女性も一緒だった。

 別れよう。今ならまだ子どもいないし君もぼくも人生をやり直せる。

 夫から云われたその言葉は、さくら先生の心を粉砕してしまった。子どもがいないのは妻に見向きもしなくなった夫の浮気のせいなのに、夫は妻よりも五つも年上のシングルマザーの助手の女性を選んだのだ。

「シングルマザーってモテるのよ。子どもを抱えて健気に見えるから」

 こんなことになるのなら、わたしも欲しかったわ、子ども。

 夫のいない女が懸命に子どもを育てていたら、わたしの夫が助手の女性を選んだように、誰かがこんなわたしに手を差し伸べてくれたかも知れない。その人の眼にはわたしはまだ魅力のある女なのよ。男に棄てられたシングルマザーの助手が、夫の眼からは欲情の対象として映ったように。

 ねえ光くん。

 古典の資料の中に顔を埋めて、さくら先生は湯に落とした角砂糖のようにぐずぐずに溶けていこうとしていたそうだ。時代のせいなのか撰者のせいなのか、三十一文字みそひともじの和歌集には苦しい歌が多い。玉の緒よ 絶えなば絶えね。


 誰が悪者なの。

 夫。わたし。助手の女性。

 それとも、妻子を捨てた助手の最初の夫。その人たちはどうなったと想う? 

 自分のことしか考えないその人たちは。 

 わたし以外は全員倖せ。


 さくら先生は睡眠薬を常用していて、その夜は学校のプールで睡眠薬を大量に服用し、意識が混濁したまま縁から転落したそうだ。

 その年の夏のプールはなかった。今年になって再開したが、自称霊感もちの子は騒ぐし泣くし、更衣室からも毎回みんな、競うようにして着替えてプールから逃げ出した。焦げるように暑い夏だったはずなのに、確かにプールで授業を受けていたはずなのに、暑かった記憶がまったくない。

 さくら先生に悪いとは想わなかった。幽霊話は誰だって怖い。わたしの学年を含めてさくら先生のことを憶えている在校生が順繰りに卒業していき、あと十年もすれば、事件は尾ひれのついた新しい学校怪談として生まれ変わっているのだろう。

 夜になると、女の啜り泣きの声がするプール。



 闇の中で光の身体を抱きしめる。小学校の二年までは一緒にお風呂に入っていたわたしの片割れは、憶えているものとは違う、はっきりと男と分かる形になっていた。

 光が好きな人。それはすぐに分かった。双子の妹。ずっと知ってた。光も知っていただろう。わたしが好きな人が誰なのか。

 青葉。ぼくの青葉。

 異母兄弟は赦されても、実の兄妹で契るのは古代から御法度だ。遺伝の影響を考慮しなくとも本能的に避けるものらしい。では、双子はどうだろう。世界中を探しても珍しいのではないだろうか。有史以来とはいわないが数えられるくらいしか実例はない気がする。

 そのせいで先生は死んだのではないと、わたしは何度も光に云った。

 一年が経っても、光は苦しんでいた。秋の冷気と共に無理が押し寄せた。苦し気に息を吸ったり吐いたりしていた。ほとんど息を止めているようなものだった。両親にも友だちにも分からなかっただろうが、わたしだけは気づいていた。

「夜の学校に呼び出されて……」

「うん」

「さくら先生は悪くないんだ。先生は心の病気になっていた。先生が泣いているところを見てしまった。その日から何となく聞き役になっていたぼくが悪いんだ。そうしたらあんなことに」

 夜のプールは運河のようだ。光を帰した後、最期にさくら先生が伸ばした手で掴んだのは錠剤を詰めた硝子の小瓶だった。

 窓の外に蜜柑色をした金木犀が咲いている。

 花びらを集めようとあの樹の中に手を突っ込むと、なぜかいつも虫に刺された。夏の蚊とは違う、小さな蜂みたいな虫に。

 金木犀と銀木犀は、同じ木の色違いではなく、近縁種だそうだ。

 二卵性の同属異種。

 光とはいずれ、お別れするのだろう。それぞれに恋人をもち、お互いに別の人と愛し合うのだろう。この夜のことを何度も想い出しながら、やがては、想い出さなくなりながら。

 息をして、光。これからまた同じことになりそうな時には、今日の夜を想い出して。重なるわたしの呼吸があなたの呼吸。

 玉の緒とは命のことだ。絶えなば絶えね。わたしの命よ、絶えるなら絶えてしまえ。禁忌を踏み越えたさくら先生に出来た覚悟が、わたしに出来ないはずがない。

 光くん、この夜だけだから。

 秋の匂いのする、わたしの光。

 夜の水底に沈んでいる若い女の長い黒髪。

 私たちに明るい夏は二度と巡らない。

 


[了]

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