ハーモナイザー

坂本忠恆

Harmonizer


 歴史上、数夥しい人間が(彼の王たちや神々でさえ)永遠を求めながら(それが何かも知らぬままに)死んでいったことは疑い難い事実だろう。それでも我々は決して永遠など求めてはいなかった。しかし、我々は、歴史を超えた瞬間、神話を超えた瞬間、その他あらゆると期せず際会してしまったのである。最早、瞬間からは時間の観念は捨象されていた。その短さによってではなく、その永さによって。

 今私にできることは、事実の外貌を無機な言葉でなぞることで、それによって描かれた虚無の輪郭(ことばの届かぬ彼岸)を示して見せることだけである。故に、私の記す文章そのものには価値はない。それによって惹起される言葉ならざる情、この地獄の粗描のようなものにのみ価値があるのだ。どうかこの見えざるものに目を凝らしていただきたい。

 この言葉と虚無の不条理な交換関係にのみ、私の表現を実現させ得る力がある。



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 ハーモナイザーの存在について、未だ我々はそれの危険性を十分に理解できているとは言えない。いや、「危険性」という言葉を用いることがその際適当かどうかさえ我々には判然としない。ただ、現在得られているハーモナイザーについての僅かな研究結果から、しかし多くの懸案事項を列挙できてしまうという現状を踏まえてみても、今これを公にすることは甚だ時期尚早であるのかもしれない。


 第一に、ハーモナイザーについて、我々は純客観的な立場からそれを議論することができない。これには経験論的な原理的問題が関係している。つまり、ハーモナイザーの使用者と非使用者の間には決定的な断絶があるのである。では、純主観的な立場からそれを議論することはできるのか? それが、必ずしもそうとは言えない。

 ハーモナイザーを実際に使用した人物は全部で五名いる。五名の詳細なプロフィールについての記載は差し控えるが、内三名は(語弊を招く表現ではあるが)所謂廃人のようになってしまった。具体的には遷延性意識障害植物状態の症状と類似した病態を呈しているのだが、音や光、皮膚刺激等への生理的反応は認められるため、完全な昏睡状態にあるわけではないらしい。ただ、意志疎通は疎か、自力移動や自力摂食すらも不可能な状態にあるため、生命の維持には重度昏睡者と同等の介助が必要である。また、脳波の状態や脳血流中の総ヘモグロビン濃度の増減は極めて平板的であり、これは尋常な人の場合とは大きく異なる。醒めながら同時に眠っているような状態、とでも言えばイメージがし易いだろうか? 上記三名について、解剖生理学的異常等は見られないことから、我々は彼らの呈するこの病態についてはある種の深刻な精神疾患が原因しているのではないかと見ているが、実際のところはまだ何も分かっていないというのが実状である。


 ハーモナイザー使用者の五名の内、残る二名についても説明する必要があろう。

 上記二名のハーモナイザー使用者の健康状態についてはこれと言って特筆する点は皆無である。我々ハーモナイザー非使用者と特別な違いはない。つまり、この二名についてはハーモナイザー使用前と使用後とで、身体的にも心理的にも何ら差異は認められなかったのである(この意味で、私は如上で一度述べた「ハーモナイザー使用者」の定義から、後者の二名を区別したい)。双方の運命を分けた原因については、前者三名と後者二名とで、ハーモナイザー使用時のある条件が異なっていたという点から明確に考察することができる。

 当ラボラトリの所有するハーモナイザーはプロトタイプの一台のみであり、使用実験についても上記五名ひとりずつ順々に行われた。重篤な心身症を来したのは先頭の三名である。ハーモナイザー使用後、症状が直ちに表れたため、三人目終了の時点で危険と判断した我々は一度実験を中止し、条件の一部を変更した上で後日リベンジを試みた。その一部の条件とは「ハーモナイザーの使用停止権限の所在」についての事項であった。

 前者三名は、ハーモナイザー使用停止の権限を持っておらず、三名共々にハーモナイザー使用開始からぴったり零コンマ一秒経過したタイミングで自動的に停止されるようプログラムされた条件下で実験を行っていたのだ。(零コンマ一秒と言う数字も、我々にとっては十分安全に配慮した設定であるはずだった)

 後者二名については、上記のような自動停止の機構に加えて、ハーモナイザーの使用停止権限を彼ら自身にも与えるようにした。結果彼らは、ハーモナイザーの使用開始とほとんど同じタイミングでそれを停止した。(このときの経過時間は、計測機器の誤差範囲の関係から正確なところは不明であるが、それが零コンマ一秒をはるかに下回っていたことは確かである)

 ハーモナイザーの使用停止条件は実験の性質上次のような方法が採られた。その方法とは「脳内で強く犬の姿をイメージすること」である。もっとも、これが依然危険な実験であるということはこのとき既に承知の上であったが、もしハーモナイザーの使用中に何らか不測の事態が起こっていたのだとして、使用者自身にそれを停止する手段を与えておくことは大きな安心材料になると我々は考えた。(今更申し開きをするわけではないが、当時我々には実験を強行しなければならない退っ引きならぬ別事があった)


 ハーモナイザーは、NPに基いて設計された「時間知覚圧縮」デバイスである。かみ砕いて言えば、人間の時間知覚に関わる諸々の認知機能をコンピュータによる演算で代替し、当人の知覚する時間を指数関数的に圧縮(加速)するデバイスである。特殊なアルゴリズムを用いてコンピュータの計算能力を爆発的に向上させる技術の応用と考えていただいて大過ない。これにより、ハーモナイザーの使用者は、(理論上は)ほんの一瞬の時間を何万年にも何億年にも増幅して体感することができるようになる。

 計算に用いるリソースは時間(零コンマ一秒という時間的制約)的にも空間(使用できるコンピュータの計算能力と台数の制約)的にも限定されていたから、時間知覚の圧縮率もそこまで極端な数字にはならないと我々は踏んでいた。事前に行われていた動物実験での結果も鑑みた上で、当該実験における時間の圧縮率は理論値で約一万パーセント程であると試算された。零コンマ一秒の場合、使用者の体感する時間は約百秒まで引き延ばされる計算である。

 しかし、実験結果は我々の理論の誤謬を仄めかしていた。


 これは後々になって漸く我々の想到した悪夢のような考えなのだが、前者三名は、当該実験に於いて時間的特異点を突破してしまったのではないかという推測が立った。彼らの体感する時間の加速が、シュヴァルツシルト半径的な臨界値(時間あたりの計算回数密度の臨界)を超え、時間あたりの計算密度は崩壊し、無限に達してしまったのではないかという推測である。この推測は、後者二名の実験後の証言(実験中両名共に無感覚の暗闇を経験しており、またそのうちのひとりは使用停止の機構が上手く働かず体感で一日以上の時間を過ごしたという証言)などから再度検証され導かれたものである。(後日改めて行われたネコによる動物実験で、計算の強度を上げてハーモナイザーを稼働したところ、前者三名と同じような病態を呈することを確認した)

 この場合、ハーモナイザーの使用中、彼らの時間知覚は実際の時間経過に対して際限なく加速していったことになるが、当然身体的諸機能はこれに追いつかないため、彼らはあたかも自らの肉体という拘束衣に囚われたまま、その間実験台に縛り付けられ続けているような状態になる。更に、もし本当に彼らの体感する知覚時間が特異点に達していたとすれば、各感覚器官から伝達される信号は停止し、主観的には無味無臭無音無感覚の暗黒しか"知覚"できないということになる。ハーモナイザーはまだ不完全なプロトタイプであるから、認知機能のみをコンピュータの計算に代替させ、その他の身体的機能には一切関係しない(できない)のである。

 精神だけは確かにそこにあり、その他には何もない。我々の後に立てた推測が正しければ、斯様な虚無の中に、前者三名は無限時間取り残され続けたことになる。


 この無限こそが、最初にも述べたハーモナイザー使用者と非使用者の間に横たわる決定的な断絶であり、それが故に、三名の身に起こった出来事を純客観的に理解するということは、我々には永遠に不可能なのである。

 ではもし純主観的に理解したくば? それこそ、永遠を以ってする他にはないだろう。



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 永遠と永遠の不等関係。

 虚無と無限の同値関係。


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ハーモナイザー 坂本忠恆 @TadatsuneSakamoto

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