マルシェに行こうよ

秋冬遥夏

マルシェに行こうよ

クローゼットや箪笥で息を潜めていた秋が、洋服と一緒に溢れ出て、世界に立ち込めたとき、駅の中がそういう匂いで充満する。今夜ちょうど、夏が眠りについた。

「これからどうする?」

「どうするって、帰って寝るよ。明日も一限だし」

「えー、もう少し遊ぼうよ」

 少し前を歩くのは、カーキ色のスウェットの彼女。いつも通り楽しそうに跳ねてから、振り返って笑ってみせる。そして口から出るのは、毎度お決まりの台詞だった。

「マルシェに行こうよ」


 彼女の言うマルシェとは、芦屋公園で夜に開かれる市場のことで、昔は「芦屋の夜市」と言われていた。近年、若者層の集客を狙って「アシヤノマルシェ」なんてフランス語を使った名前に変わったのだ。それはSNSでも拡散されて、新しい夜の居場所として発展していった。

「マルシェは嫌だよ」

「なんでよ」

「だって、治安悪そうだし」

「そんなことないよ」

 彼女はよくこのマルシェに誘ってくれたが、僕はその度に断っている。これは勘なのだが、なんとなく嫌な感じがするのだ。遠目で見たことはあるが、どうも普通の市場とは違う、なにか懐かしさのような妙な香りが漂っていた。

 それでも彼女がしつこく誘ってくるため、いつからか僕たちは駅中で口論になってしまった。

「あんなとこ、危ないって」

「もういいよ、私ひとりで行くから」

「やめといたほうがいいよ」

「ほっといてよ」

 改札を抜けていく彼女の背中が小さくなる。あのとき、それを追いかけなかった自分自身が、今では酷く許せない。結論を言えば、その日、彼女は死んだ。それだけが紛れもない事実だった。


 あの日から僕はマルシェについて考える毎日だった。彼女が死んだのをマルシェのせいにしたかったのだ。安心材料を探すようにSNSで「#アシヤノマルシェ」「#芦屋の夜市」などと入れて検索していると、ひとつ気になるつぶやきを見つけた。それは「ちとたん」という名で活動しているインフルエンサーのものだった。


「アシヤノマルシェさんありがとうございます! 今日はうちにとっていちばんいい日。余生を大切に生きていきます。#アシヤノマルシェ #芦屋の夜市」


 なんの変哲もない文章ではあるが、ずっと見ていると不思議に思えてくる。夜市に寄っただけにしては、感動が大袈裟な気がするし、そもそもなんで感謝しているんだろうって。奇妙に感じていたら、夜が明けてしまった。僕は眠い目を擦って授業の支度をした。


 放課後、大学の図書館でマルシェについて調べていると、聞き馴染みのある声と一緒に肩を叩かれた。

「なにしてんの」

「びっくりした。なんだ、徳野か」

「徳野で悪かったな」

 3年のゼミで出会った彼は、はじめ無口な印象が強かったが、話しかけてみるとスマホゲームやアニメ、TRPGなどの趣味が合いすぐに仲良くなった。そして何より、落ち着いていて頼りになる存在だ。

「なにしてたの」

「調べもの」

「それはわかってる。なに調べてたの」

「べつにいいだろ」

 徳野はとなりのパソコンの電源を入れて、彼女のことだろって囁いた。間違いない。僕は死んだ彼女のことを忘れられずに、こんな無駄なことをしてるのだ。

「手伝わしてよ、それ」

「いいよ、無駄だから」

「やってみないとわかんないだろ」

 彼は僕の意見など無視して、アシヤノマルシェについて一緒に調べてくれた。というより徳野にとって「調べもの」は理由づけでしかなくて、ひとりになった僕を気にかけてくれたのだろう。


「あのさ、考えすぎかもしれないけど。この地図なんか変じゃない?」

 ふと、徳野はそんなことを言い出した。手元には印刷したアシヤノマルシェの地図。公式ホームページに載っていたものだ。

「なにが変なの」

「これ、駅からの人を呼び込むには効率の悪い形をしてないかな。なんでこんな店の配置なんだろう」

 確かに気にしていなかったが、アシヤノマルシェは一般的な大通りに沿った一直線ではなく、ロの字の中にロの字——つまり「回」のような形で店が並んでいる。

「あと、一方通行になってるのも奇妙では?」

 徳野は地図に記された一方通行マークを指差して言った。

「なんで?」

「お祭りとかのもっと人の集まるイベントでも、歩行者に一方通行の制限を設けるのは、あまり見たことがない」

「たしかに、そうかも」

「ましてや、こんな夜の市場を一方通行にする意味があるのかな。自由に回れた方が売上も良さそうだし」

 そう言われると、一方通行なこともおかしく思えてくる。よく見るとこの地図は変だった。

「最後にもうひとつ、これは気にしすぎかもしれないけど。真ん中のとこ。お店がない空間がひとつある」

「あ、ほんとだ。なんでだろ」

「単純に考えるなら、ゴミ箱を設置してるとか、そういうことかもしれない。でも取り囲むような店の配置と、一方通行の経路、そしてこの無の空間を総合的に考えると、中心に地図にない何かがあるんじゃないかな」

 楽しそうに笑いながら彼は、説明を続けた。曰く、真ん中にある「何か」を隠すようにお店が配置されていて、客は「何か」に誘導されるように一方通行の道を進まされる形になっているのだという。あくまで彼の妄想でしかないが、説明の筋はすべて通っていた。


【アシヤノマルシェ地図】

▢…お店 ⬚…無の空間 ↑…一方通行


  ▢ ▢ ▢ ▢ ▢ ▢ ▢ ▢ ▢

▢     ←     ↰ ▢

▢   ▢ ▢ ▢ ▢ ▢   ▢

▢ ↓ ▢     ▢   ▢

▢   ▢     ▢ ↑ ▢

▢   ▢ ▢ ⬚ ▢ ▢   ▢

▢ ↳    →      →

  ▢ ▢ ▢ ▢ ▢ ▢ ▢ ↑

┈ ┈ ┈ ┈ ┈ ┈ ┈ ┈     ┈ ┈ ┈


芦屋通り


┈ ┈ ┈ ┈ ┈ ┈ ┈ ┈ ┈ ┈ ┈ ┈ ┈ ┈


 そこで後日、Googleマップなど他の地図で、無の空間に何があるのか調べた。しかしこれといって、何があるってわけでもなく、芦屋公園の敷地内ということしかわからなかった。

 やはり徳野の説明は、妄想に過ぎなかったのかもしれない。それでも、どこか気になる。あの地図の異様さが、勘違いだとは思えなかった。なにか、もっと調べる方法がないか。そう考えながら、パソコンに向かっていると、気づいた。


 それは、地図のレイヤを「路線図」から「交通状況」「地形」などに変えて見ているときだった。「ストリートビュー」という機能を思い出し、触っていた。市役所から順を追って、芦屋公園まで移動する。夜に撮ったのか市役所前は暗かった。人気のいない道を画面上でゆっくりと進んでいく。学校の裏を通って、黒い畑の横を行く。そしてついに、芦屋公園の前まで来た。問題のマルシェは、すぐそこ。僕は震える指でパソコンをタップした。


「え、なんで」


 急に画面が眩しくなった。さっきまでの暗闇とは打って変わり、そこには昼間の光景が広がっていた。夜に開くであろう出店が、静かな公園の一角に異様に佇むその姿が、すこし面白かった。


 すぐに徳野に電話をして、調べたことを話した。

「ということなんだけど……」

「なるほど、おかしいね」

「うん、そのあと周りのストリートビューも調べたんだけど、ここ以外はすべて夜だった」

 徳野は、ちょっと待ってな、と言ってストリートビューについて調べてくれた。

「ストリートビューは基本、グーグルカーという車で撮ってるみたいだけど、車が通れない場所は人が歩いて撮るらしい。つまり、この公園内には誰かが歩いて撮りに行ったことになる」

「たしかに、そうなるね」

「そしてストリートビューには、撮影日が記録される。例の部分を見てみると、芦屋通りの撮影日が2023.4月なのに対して、公園内は2023.6月、そしてマルシェは2023.9月。こんな近い距離なのに、3回にも分けて撮ってるんだよね」

「ほんとだ、きもちわる」

 徳野は得意の情報処理から、どんどんと新しい事実に気付いていく。僕はただひたすらに、それに耳を傾けて、メモを取った。

「つまり、この公園の撮影は、2回失敗してるってことだね。理由はなんであれ、それは紛れもない事実だよ。そして、昼には撮れているから、その理由は夜――マルシェが開かれている時間にあると考えられる」


【手元のメモ】

①2023.4月→公園内の撮影(失敗)

②2023.6月→マルシェの撮影(失敗)

③2023.9月→昼間にマルシェの撮影(成功)


 徳野との電話が切れて、さみしい音が耳に残った。彼女の死から調べ出したこのマルシェが、どうも普通じゃないということだけは、確かになってきた。そして、誰も見てる人はいないとは思うが、一か八かGoogleマップの「質問と回答」の機能に「この公園のストリートビューの撮影についてなにか知っていることがあれば教えてください」と書いて、その日は寝た。


 動きがあったのは、それから数日後のことだった。ネットニュースを見ているとyoutuberの「ちとたん」が死んだという記事が飛び込んできた。死因は自殺とのことだった。僕はいそいで彼女のチャンネルを追ったが、すべて削除されていて見ることができなかった。

 ただ、アシヤノマルシェについての動画は上げられていたようで、切り抜き動画などが多く出回っていた。それを見ると、彼女はこう語っていた。

「あんな、みんな信じてくれへんと思うけどな。うち、生き返ってん。千葉にあるアシヤノマルシェってとこで、いったん死んだんけどな。そのあと、また生き返ってん。動画が長い間途絶えたんは、そういう理由なんよ」

 この動画が上がったのが一昨日の夜。信じられない話だったが、彼女の自殺も相まって、一概にありえないとする風向きではなかった。それは一気に新しい都市伝説として、オカルト界隈で話題になった。


 それからは、これといった進展はなかった。ほぼすべてのネット情報を漁ってしまったし、新しいつぶやきも「アシヤノマルシェ行ってみよかなwww」といった煽りのようなものしか見つからなかった。

「行き詰まったね」

 徳野も背伸びをしながら、そう溢していた。

「ここまでなのかな。あとは公園に行ってみるしかないのか」

「うーん、そもそもアシヤノマルシェってどんな歴史があるのか、図書館とかに資料があったりしないかな」


 僕たちは週末、図書館に集まり地元の歴史についての資料を読み漁った。結果を言えば、かなりたくさんの情報が手に入った。歴史の先生が「温故知新」とよく言っていた意味がいまになってわかった気がした。

 そこで得た多くの情報の中から、重要なものだけを紹介する。


『此の悪谷での開拓は難航を強いられた。(悪谷開拓書.2項より)』


『ここ悪谷の地域は、字の如く呪われた場所である。今日も疫病で主人や子どもを亡くした人の声が響く。(悪谷開拓書.34項より)』


『女である私らのできることと言えば、神に願うことだけだ。戻ってこない主人のことを想い、この地で祈っていくだけだ。(悪谷婦人会会報十一月号より)』


『喜ばしいことに、此の世は流転している。悪谷の夜市などは良い例である。祈りが通じれば、生命は蘇生が可能だと、志賀は語る。(小説:常夜より)』


『昔から、結核や水害などで悩まされてきた「悪谷」だが、時代も変わりこの字は適さないため、同じ音で「芦屋」と書くことに統一された。(新明新聞:地の名称変更より)』


 僕らはこれらの資料を広げて、ひとつひとつ情報を時系列順にまとめていった。①ひとまず、この地では昔から結核や水害が多く悪谷と言われていた。②結核で主人を亡くした人が集まり、悪谷婦人会を結成した。③そこでは、亡き主人への祈りが捧げられて、いつしか夜に市場を開くようになった。これが今のアシヤノマルシェの原点と言える。④その祈りは強くなり、蘇生が行われるようになって、いまでもそれが続いている可能性もある。

「と、ざっとこんなところか」

「収穫あったね」

「あった。信じられないことだけど、蘇生が可能であるのなら、死んだちとたんの発言もぜんぶ納得できる。これ、本当に生き返るのかもしれないよ。大切な人――例えば、お前の彼女とかも」


 あれからは同じ情報収集でも、目的が大きく異なっていた。彼女の死に対する責任転嫁から、彼女を生き返らせる糸口を探すようになっていった。しかし僕らは、ここに来てまた行き詰ってしまった。

「ねえ、マルシェを見に行こうよ」

「マジ言ってんの」

「中には入らないで、遠くから観察するだけ」

「まあ、それならいいか」

 そうして、この日は夜に芦屋駅に集まって、観察することにした。遠目から見てもマルシェの会場は、ぼやっと明るく光っていて、存在感があった。

「こう来てみると、本当に中は見えないな」

「それな、見えない」

「あと、人影もあまりなくない?」

「たしかに、思ってたよりないわ」

 僕らは見惚れていた。望遠鏡を通して見える提灯の真っ赤な光に、どこか懐かしさを覚えた。

「あ、ひと」

「ほんとだ」

 その光に誘われるように、若い男女ふたりが入っていった。続いて、帰宅中のサラリーマンがひとり、女子高生がふたり、OLがひとり入った。


 数分後、主婦と思われる女性が出てきた。僕は話しかけようと立ち上がったが、危険を感じてすぐに引いた。彼女の歩き方は、なんというか、人間っぽくなかった。歩いているというより、目的に向かって引きずられているような、そういう動きをしてた。その後、出てきた大学生も、女子高生も同じように異様な歩き方をした。

「いまの、みた?」

「うん」

「やばかったよね」

 僕らは怖くなって、その場をあとにした。あの姿を見ると、ただごとではないことはわかる。あの人たちは生き返った人なのかもしれない。


 数日後、思いもよらないところから進展があった。一か八かで置いておいたGoogleマップの質問欄に回答がアップされたのだ。見ると、それは長文の熱量のあるメッセージだった。

「Q.この公園のストリートビューの撮影についてなにか知っていることがあれば教えてください」

「A.はじめまして。私は、2023.9月に個人的にこのアシヤノマルシェについて撮影した者です。というのも、当時私はストリートビューの不完全な部分を探して、そこを自分のカメラで撮影しにいくという旅をしてたんです。その時に見つけたひとつが、この芦屋公園でした。公園の中が撮られてないことは、結構よくあることなんです。ただそのとき、少し違和感を覚えました。芦屋公園は2023.6月に一度、公園内も撮っているんです。普通、中を撮ったならば一気に全てを撮ってしまうのではないでしょうか。

 夜でその場所だけ撮影に失敗したとも考えたのですが、なんとなく気になってGoogleで働く友人にメールで聞いてみました。その返信には、恐ろしい事実が書かれていたんです。それは、そこを撮影した人が過去にふたり死んでいるということでした。2023.4月と2023.6月どちらの人も、この場所を撮ってはいたそうです。しかしそのカメラは乱れ、うまく撮れない。翌日、近くの道路でカメラと死体が転がっていたと言います。

 聞いた話なので真相は定かではありませんが、情報として伝えておきます。長文失礼しました」


 僕は読み終えると、どっと疲労感が身体に溜まるのを覚えた。同時に湧き上がるのは、興味。どうしても真相が知りたくなった。その先に、もしかしたら彼女を救える唯一の方法があるのかもしれないのだ。僕は衝動的かつ理論的に辿り着いた答えを、徳野に送った。

「あのさ、マルシェに行こうよ」


 徳野は頑なに断っていた。

「なんでだよ」

「今まで調べて、危ないところだというのはわかっただろう。もう少し情報がないと行けないよ」

「それは、行ってみないとわかんないだろ。もしかしたら、彼女が生き返るかもしれないんだぞ」

「それでも、いまはまだ危険だ」

「もういいよ、自分ひとりで行くから。徳野には僕の気持ちがわからないんだ」

 ほっといてくれってスマホをベッドに投げて僕は、家を飛び出した。これが自分の青春のピークだった。彼女を助けたい、その一心で夜を駆けた。


 マルシェの中は静かだった。灯りはついているものの、出店の店員は言葉ひとつ発しない。ずっと俯いていて、顔が見えない。何を売っているのかと気になり覗くと、急に店員は口を開いた。

「なにかお探しですか」

「いえ、何を売っているのかと気になって」

「ここは、死のリサイクルショップです。自分の持ち物を、死者が売ったものと交換できます」

 何を言われてるか、わからなかった。このレモンの浴衣も、オフホワイトのカーゴパンツも、すべて今は亡き人が昔に着ていたものということだろうか。

「あの、交換条件とかはあるんですか」

「トップスが欲しければ、あなたのトップスをいただきます。パンツが欲しければ、あなたのパンツをいただきます」

 この令和の時代に、物々交換というのが新鮮で、楽しかった。調査のことなんて忘れて、素直にマルシェでコーデを組んでいった。

「このライム色の柄シャツをください」

「この時計もください」

「このスニーカーも欲しいです」

 店員さんは、かしこまりました、と不気味に笑って全ての私物を交換してくれた。あれもほしい。これもほしい。そうやって、歩いてずいぶんと奥の方まで来てしまった。そして見つけてしまった。


「あ、これ……」


 カーキ色のスウェット。間違いなく彼女のものだった。辺りにかなしい風が吹いた。僕はこのときやっと、彼女は死んだんだって思った。いままでは信じたくなかったのだ。だから必死にマルシェについて調べたり、ここに来れば彼女に会えると思っていた。さっきも感情的になって、徳野にあたってしまった。

 しかし、彼女は死んだのだ。ようやく理解した。


 ふと、目線を上げると店員と目があった。うそ、あっていない。その店員には目がなかった。後ろを振り向くと、今までの店員がこちらに向かってくるのが見える。

 殺されるって感じた。捕まったら、死ぬ。本能がそう訴えてくる。手が冷える。足がすくむ。それでも僕は、前へ進んだ。後戻りはできない。地図の通りに行けば、真っ直ぐ進むと出口に出れるはずだ。


 しかし、それは間違っていた。出口の前にも、店員が待ち伏せていたのだ。ようやく一方通行の真の意味を理解した。これはルールではなく、強制なのだ。一度入ったら「無の空間」まで誘導されるほかないのが、アシヤノマルシェの構造だった。僕を追い詰めた店員は皆、口を揃えてこう言った。

「どうぞ、いらっしゃいました。ゆっくりしていってくださいね」


 無の空間の奥は、歪だった。公園の一角とは思えない。不思議な世界の入り口のような場所だった。日本では見られない針葉樹に、湖に積まれた死体の山。そこに彼女はいるんだと思った。

 そして何より気になるのは、その死体に群がる黒い獣だ。それは犬のようにも見えたし、鬼のようにも見えた。眺めていると、その一匹が近づいてきた。

「お待ちしておりました」

「えっと、ここはどこなんですか」

「ここは、悪谷の境目と呼ばれています。簡単に説明すれば、生の世界と死の世界が交わる点に位置する場所です」

 黒い獣はやさしい声をしていた。不思議と怖いという感情はひとつも抱かなかった。おばあちゃん家の縁側で猫と寝ていた春のような、暖かい気持ちになった。

「あなたたちは、なにを?」

「私らは、輪廻を作る仕事をしています。生きた人を殺して、死んだ人を生き返らせる単純な作業です」

 死んだ人が生き返る噂は、本当だった。嬉しかった。こうなったら、僕のやることはひとつだ。自分の命を彼女にあげようと思った。僕なんかよりずっと、彼女は生きておくべき人間だ。


「あの、自分。生き返らせたい人がいるんです。彼女なんですけど、ここに行ったきり死んじゃって」

「すみません、それは無理な願いです」

「え、どうして」

「順番があるからです。次に生き返るのは、いま湖に浮かぶ人間のなかで、いちばん古い者となります」

 勘違いしていた。好きな人を生き返らせられるわけではなかったらしい。自分の肩が落ちるのがわかった。向こうで獣は、せっせと台車で死体を運ぶ。そのガタガタという音だけが、軽やかにリズムを刻んでいた。

「では、準備ができましたので、あなたには死んでいただきます。怖がることはありません。また生き返ることができますから」

 それからのことは、あまり覚えていない。気づいたら僕の魂は身体から離されて、ひとつの枯れ木に宿された。身体は湖に積まれた。


 それからどれだけの月日が経っただろう。僕は本当の意味で植物人間になって、生と死の循環を見るのが毎日の日課になっていた。何も知らない生贄がやってくると殺されて、その命で誰かが生き返る。

「なあ、パク」

「なんだよ」

「僕らの番はいつだろうな」

「お前は、またそれか」

 となりの植物は、韓国人の楽しい男だったから、よくこうして話をした。特に意味はない、チーズハッドクを作ったことあるとか、日本では韓国アイドルが流行ってたとか、本場のトッポギは本当に辛いとか、そういう話だ。


 そうこうするうちに「僕の番」はすぐやってきた。というのもマルシェへの客が、ここ数年増えているのだ。久しく会わなかった獣が、僕の前にやってきてこう言った。

「生き返る準備はできていますか」

 それに対して、僕がゆっくり頷くと、獣は手に持っていた僕の名前が書かれたファイルを開いて、それを睨んだ。

「あなたはこれで、12回目の蘇生です。毎度になりますが、蘇生にあたっての注意事項を配ります。よく読んで、準備ができたら声を掛けてください」


【蘇生にあたっての注意事項】

□ここでの記憶は全て無くなります。

□まわりの人間も、あなたが死んでいた記憶はなくなります(生き続けてると認識しています)。

□年齢は享受+死んでいた年数で蘇生します。

□蘇生する際は、芦屋駅の公衆トイレにて生き返ります。

□運転免許等の資格は全て保持されます。

□貯金等の資産は、前回死んだときの額がそのまま支給されます。

□衣服は「死のリサイクルショップ」で揃えた服装となります。何も交換されなかった方は、ご自身の衣服で蘇生されます。

□65歳以上の方は、次回から蘇生は行えません(余生が少ないため)。

□一度、蘇生したら後戻りはできません。

□ごく稀に記憶を持ったまま蘇生するケースがあります。そのときは外部に情報を漏らさぬようお願いいたします。漏らした場合は命は永遠に取り上げるため、お気をつけください。

□ぜひ、また見つけていらしてください。

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