生命の意味、それから思考。
生命って実際は考えるために設計されているわけではないのではないか、と考えている。
これは本能と感情の境界線はどこにあるのだろうという疑問と全く本質的には同じで、だけどこれの同一性をちゃんと言語化するのは少し難しい。人の思考が捉えているものはいつだって形持つ言葉というものを凌駕している。でも言葉という枠組みにはめ込めなければそれはただの空想でしかないし、空想でしかない以上それは実在しているとは言い難くて、知っているのに存在しない、みたいななんとも奇妙な状態に陥ってしまう。これはちょっと居心地が悪くて困ることも度々。
だからこんなふうに輪郭を掴もうとその線だけを追い求めていると気が付かばまたこうやって違う問いのレールの上に立っている。
そもそも、思考は何のためにあるのだろう。けれど意味なんてものはどれだって人があとから付けるようなものばかりだからきっと本当はないのだろうけれど。それでもあえて動物が進化という過程において脳が、思考する器官が進化していった訳を考察するのなら、それはきっと生存の確率を上げるため、なんだろう。つまり生存を目的とした思考は、究極的には本能であろうということ。
感情、というものから考えても同様で、美味しいものを美味しいと感じるのは必要栄養素であるのと同じように、嬉しいことを嬉しく思うのは生き残るのに有利だからで、人が恋をするのは繁殖するためで。だから本来であればその生きるため、ではないところを思考と呼ぶべきなんじゃないかと思う。
つまりは生きるためではなく、生き物の本来あるべき姿から外れたもの、あぶれたものこそが思考で、ぼくらはよくこの思考というものに囚われて抜け出せなくなるし、それこそ人類史の中で哲学がずっと熱く議論されているのもそれがそれが生命持つ生き物の使命に反しているからなんじゃないかと思う。
人間は矛盾する生き物だ。これはきっと限りなく正しい。限りなく正しくて、且つ解がない問題だ。なのに人という生き物はその正解のない問題に打ちのめされながらもその中から自分の存在意義を見つけ出せなければ呼吸すらもうまくできない。
難儀な生き物なのだ。
そんな始まりも終わりもない、きっかけもオチもない思考を、きっと意味なんてかけらもなく無駄そのものの時間を今日も甘受している。
ぼくは、けれど思考し続けて、探している。唯一、生きるために。
生きたいと、思い続けれるために。
さて、生きようか。 落翊 @yunaeve
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