其ノ捌 時人(上)
高校からの帰路。桜満開の並木道を、俺と彼女は自転車を押して並んで歩く。
「ねえ今度の週末さ、映画観に行かない? 最近公開されたやつ気になってるんだよね」
「ああ、俺今度の土日もバイトだわ。悪い」
俺が言えば、彼女はあからさまに不機嫌を顔に出した。
「時人、先週末もバイト入れてたじゃん。そんなに私とデートしたくないわけ?」
「そうじゃねえよ。ちょっと買いたいもんあってさ」
「あ! それってもしかして、私への誕生日プレゼント? でしょでしょ、そうでしょ!」
「お前なあ」
はしゃぐ彼女のポニーテールが揺れる。
サプライズも、くそもない。
「なんだろうなあ。指輪かな? ネックレスかな?」
「あのね。だいたい私へのプレゼントとか言うけど、その日は俺も誕生日だから。俺もプレゼントもらえる日だから」
「え、時人なんか欲しいものあるの?」
「まあな」
「なになに、言ってみてよ! 私がそれ買ってあげる!」
「いいよ、自分で買うから」
「えー、なんでよ。教えてくれてもいーじゃん」
「うるせえな。あ、やばいバイト遅刻する」
「ちょっとなに、今日もバイト?!」
「悪い、先行くわ」
「あ!」
俺は自転車に跨ると、立ったままペダルを漕いだ。背後から文句を言う彼女の声がだんだんと遠くなり、最後には頑張ってね、と小さく届く。
数日後に迫る4月9日。この日は俺と彼女、ふたりが18歳になる誕生日だった。
俺と彼女は18年前の同じ日に、同じ個人産院の玄関前へと捨てられていた。施設に引き取られた俺たちは必然と幼馴染になり、初恋を経て、恋人同士へと関係を変化させる。
「おはようございまーす」
ガソリンスタンドに着いた俺は、自転車を隅に停めて事務所の自動ドアを開けた。更衣室に直行し、制服を脱ぐとつなぎに着替えてキャップを被る。
「オーライ、オーライ……はい、OKです」
給油口にガンを差し込みながら、俺は窓ガラスを拭き灰皿を交換。会計を済ませて、車を公道に誘導してからキャップを取り頭を下げた。
「ありがとうございましたー」
高1からバイトを始めて1年半。コツコツ貯めたバイト代が、やっともうすぐ目標額に届く。ここまで来るのは長かった。俺が手に入れたいものはなかなかに高額だったから。
客足が落ち着いて事務所に戻ると、店長は手に持っていた缶コーヒーを俺に差し出す。
「時人、これやるよ」
「あざっす」
「さっき洗車に来た美人のお客さんから」
「はい?」
美人、を強調して言う店長を横目に、俺はすぐさま貰った缶コーヒーのプルタブを開けた。乾いた喉を只々潤す俺に、店長はなぜか呆れ顔だ。
「ったく、しかしよくモテるよなあ。時人がバイトに来てから、確実に女性客増えたし」
「そうっすか」
「そうだよ。給油終わっても帰らない女の子にわけを聞きゃ、みーんな口を揃えて岸岡さんは今日は居ないんですかー? ってよ。俺だってなかなかイケてると思うんだけどな」
「何言ってるんですか。店長には素敵な奥さんが居るでしょ」
「そんなこと言うならお前にだって、可愛い彼女が居るじゃねえか」
店長が煙草に火を着けたのをみて、俺は灰皿をそっと差し出す。ふぅ、と細く白い煙を吐けば、店長は手に挟んだ煙草の先を俺に向けてきた。
「こうやってさりげなく灰皿渡してくるみたいな、ちょっとした気遣いがお前のモテる秘訣か」
「何言ってんすか。っていうかこっちに煙草向けないでくださいよ、服に臭いがつくでしょ」
「なんだよそれくらい。俺なんてパチンコに飲み屋、今でこそ分煙だの禁煙だのうるさくなったが、昔は煙まみれで生きてたよ」
「出た、昔話」
俺は店長の話が長くなることを見越して、話題逸らしにいいネタがないか事務所のテレビに目をやる。液晶画面にはニュース番組が流れていて、真っ黒な背景にルーレットやトランプカード、煙草の煙が揺れ立ちのぼるイメージ映像があり、画面下のテロップにはでかでかと『実現はいつ?』と書かれていた。
何のこっちゃ分からなかったが、俺の視線がテレビに向いていることに気づいた店長はなぜか、自ら話題を変えてきた。
「ああ、これな。カジノ法案。2018年だっけ? 賭け事が合法にできる施設を作ろうって法律が成立してさ。俺、競馬とか麻雀とかも好きだから興味あったんだけど、最近やっと建設候補地が大阪に決まったらしい」
「へえ。随分かかりましたね」
「建設場所の目処がつかなかったんだろう。賭け事ってそもそもイメージ悪いし、繁盛すりゃそれだけ治安も心配になる」
「まあ。でもそれって、店長が考えてるみたいな、単純に賭け事ができる場所って話じゃないんじゃ無いんじゃないっすかね。経済効果だったり……あ、ほら。今テレビでも言ってますよ、名前もカジノ法案じゃなくてIR実施法案、ギャンブル性の高いカジノだけじゃなく、他の娯楽施設も含む総合型リゾートだって」
俺が訂正すれば、煙草を灰皿に押し付けた店長はズイっと顔を近づけてきた。
「時人。俺が言ってるのはな、こんな表の話じゃなくて裏の話さ」
「裏ってどういう」
「都市伝説」
ああ、ここから更に話が長くなんのか……とため息をつきながら視線を外に向けるも、残念ながら車は1台も入ってこない。
「まあそんな顔せずに聞けよ。実は最近、都内某所の地下にとんでもない
「……え、街?」
俺は思わず聞き返す。
「そこには賭場はもちろん、なんと風俗店まで軒を連ねている。しかも時代設定はあの吉原遊廓があった頃って話でさ! 着飾った遊女風の女がこう、格子窓の向こうで優雅に男を誘惑してだな」
「その都市伝説、誰から聞いたんですか」
「あ、これ? 最近サウナで知り合った爺ちゃん」
俺は今度こそ盛大にため息をつく。すると、通りからガソリンスタンド内に車が1台入ってきた。
「あ、接客行かなきゃー」
「時人。なんだその棒読みは」
「店長……その、漫画の読み過ぎっすよ。頭ん中ざわざわさせ過ぎです」
「あ、お前ちょっとこっちに来なさい。説教!」
俺が無視して外に出れば、店長はつまらなそうにテレビを観ながら2本目の煙草に火を着けていた。
俺が育った児童養護施設では、18歳を過ぎると施設から出て行くように促される。俺は施設の職員に相談し、結婚を前提に彼女との同棲を希望すると、すんなりアパートを契約する段取りを整えてくれた。
ガソリンスタンドの店長も、この4月から俺を正社員として再雇用してくれて、取り敢えず当面の安定は保証できた。
初めこそ、親のいない人生を悲観したりもした。だけど俺のそばにはいつも彼女がいて、彼女の優しさや強さに触れるたびに何度も道を修正しながら、こうしてここまでやって来られた。
給料日を経て、とうとう今日は4月9日。
俺は銀行から引き出したばかりの大金を胸に、彼女と同棲する家へと急ぎ足で帰る。
日も暮れて、時刻は間も無く18時になるところだった。
「プレゼントは、一緒に買いに行くのがいいよな、やっぱり」
柄にもなく緊張して、独り言がぽつり。
すると、頬にも冷たい粒がぽつりと当たった。
見上げればさっきまでの晴天は何処へやら。空は厚い雲に覆われて、粒だった雨はあっという間に線となりバチバチと頭に降り注ぐ。
やばいな……と呟いたのも束の間。近くにひとつ、ズドンとでかい雷が落ちた。
俺は走る。彼女は、雷が嫌いだったから。
アパートの扉を開けると電気がついていた。特に停電した様子はなく、部屋の中にはカレーの匂いが漂う。
「ただいまー、外やばいよ。雨、突然酷くなってさ」
リビングにつながる扉を開けても、返事はない。キッチンを見れば、ぐつぐつと気泡を弾け飛ばす鍋におたまが沈んでいた。俺は慌ててコンロの火を止める。
風呂場にも、トイレにも寝室にも、彼女の姿はない。鍋に火をかけたまま外出? そんなことがあり得るのか。
そうしてふと、俺は部屋の違和感に気づく。
部屋に干していた物干しピンチに、彼女の服がない。コップも、靴も、歯ブラシも。彼女のものが、部屋からごっそり消えていた。
背筋に汗が伝う。これは出て行ったとか、そういうレベルの話ではない。
「なんだよ、これ」
手にした写真立ては、彼女と初めて行ったテーマパークで買ったもの。中に入れた写真もその時に撮った。間違いなく、そのはずなのに。
写真には、俺だけしか写っていなかったのだ。
俺はアパートを飛び出す。
土砂降りの雨に打たれ、対向車のヘッドライトに顔を顰めながら夜道を必死に走り続けた。
程なくして、俺は育った施設へと辿り着く。ずぶ濡れのまま靴を脱いで中に入れば、食堂から顔を出した女性職員が俺に気づいて声を上げた。
「ちょっと時人、どうしたの。そんなにびしょびしょで」
「あ、あのさ。あいつ帰ってきてないかな。アパートに帰ったら居なくなっててさ。もしかしたらここに来てるんじゃないかと思って」
「あいつ? あららら。もしかして、
「は?」
「彼女ができたんでしょう! それでさっそく喧嘩? 全く、忙しいわね」
「おい、なに言ってんだよ」
「時人は昔から女っ気なかったもんね。なんだそっか。時人にも遂に彼女ができたかあ……あ、ちょっと!」
話の噛み合わない状況に、俺は施設内のとある場所へと急いだ。その部屋の壁には、施設で育った子どもたちの写真がコルクボードに貼って飾ってある。
「……なんでだよ」
たくさんの写真に俺が映る。それなのにどこにも、あいつの姿はなくて。
「なんで!!」
膝をついた拍子に、胸に入れていたものがぼとりと床に落ちた。雨に濡れてふやけた封筒から、1万円札が数枚、顔を出す。
俺は人生を悲観していた。それでもここまでやって来られたのは、彼女の存在があったから。踏み外した道を修正できたのは、全部、あいつのおかげだった。
「いったい、何が起きたんだ」
2020年4月9日——
この世界から、彼女の存在は消滅した。
あれから3年が経った。
21歳になった俺は相変わらずガソリンスタンドで働き、あのアパートへと帰る生活を続けている。
彼女が消えてからしばらくは、当然俺も彼女の行方を追った。卒業した小中高、彼女の友達やよく行くカフェの店員にさえも情報を求めた。
でも誰に聞いても、彼女の存在を知るものはひとりもいなくて。それどころか、最近は俺ですら時々彼女の存在を忘れてしまうことがある。
「時人、俺の話聞いてた?」
「聞いてない」
「なんでだよっ」
「時人、今日シフト21時までだったよな? そのあと夜中から朝まで、商品が傷つかないように見張るだけの簡単な仕事があってさ。なんとそれだけで日給1万2千円! どうよ、俺と一緒にやってみねえ?」
「めんどい」
「そこをなんとか! 人手が足りなくて困ってるんだよ。な?」
顔の前で必死に手を擦り合わせて懇願する俊介に、俺はなんとなく乗ってみることにした。
そうしてその日、俺はどこかの小屋に連れて行かれてそのまま——
「飛べ」
「飛べ?」
意識を取り戻した俺が目を開けると、そこは暗くて狭くて、なにやら少々カビ臭い。
戸の隙間から漏れ入る光。その隙間に指を引っ掛けて少し開けば、真紅の着物を纏った女が剃刀片手に
衝撃が、頭を突き抜ける。
瞼を全開に開けて、揺れる眼球を落ち着かせるように何度も瞬きを繰り返した。
横顔でもわかる。すぐそこにいる女の顔を、俺は間違いなく知っている。
「おい」
俺が声をかければ、振り返った女の顔は驚きに満ちていて。右目から額まで真っ赤に爛れた皮膚を隠すように伏せたその仕草にさえ、胸が高鳴る。
「気に入ったんだ。あんた綺麗だから」
……なにを言っているんだ、俺は。
「俺は嘘が嫌いなんだよ。綺麗なもんに綺麗って言って、何が悪い」
こんなことじゃなくて。言いたいことや聞きたいことは山ほどあるのに、涙を流すお前の顔を見た途端、俺は助けなきゃいけないと思った。お前が泣くときは、いつだって俺が笑って慰めていたから。
「あんた名前は」
「
薄雲……それがお前の、名前なんだな。
「薄雲、交渉だ。助けてくれたら次は俺が薄雲を助ける。それでもまだ死を望むなら、その時は俺も一緒に死んでやるよ。約束だ。だからもう少しだけ、生きてくれ」
生きてくれ。今は、それだけでいい。
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