其ノ伍 夕霧(上)

 桜が咲いていた。それも1本や2本でなく、堀下に流れる水路を挟んで見渡せる道の先の先まで、ずらり。空には月が浮かぶが、そんな月明かりが霞むほどに目の前は煌びやかだった。街灯に照らされた桜がはらはら散って、水路に落ちるさまは桃色の雨。

 

「……未来に、飛んだ」

 

 ズキっ、と胸が痛んだ。着物の襟ぐりを捲れば、左胸が火傷でただれている。小屋でない場所に飛んでしまったのは、童歌わらべうたいたせいだろうか。迂闊だった。まさか、こんな人の波の中に飛んでしまうとは。

 

「あのー、大丈夫ですか?」

 

 私が顔を上げれば、目の前の男は首を後ろに引っ込めてなぜか萎縮する。

 

「あ、いや。胸のところ見て、なんだか痛そうにしていらっしゃるので。このままインタビューを続けても大丈夫でしょうか」

 

 マイクを持つ男の半歩後ろには、大筒を担いだ男が立っていた。私はそれを指差して、マイクの男に尋ねる。

 

「その筒はなんでしょう」

「筒? ああ、カメラのことでしょうか。いやあ、格好もさることながら、言葉から立ち振る舞いまで雰囲気バッチリですね。目黒川の桜を見に来るのは今回が初めてなのでしょうか」

「はあ」

「着物の着付けや頭のカツラなどもご自分でなさるんですか?」

「かつら? これは勝山髷かつやままげでありんす」

「あ、自前でいらっしゃるんですか! 凄いですね。こういうイベント日でなく、普段からそのような格好をなさっているとか? こんなにお綺麗じゃ、SNSも人気がありそうですね」

 

 いまいち会話の内容が掴めないまま、マイクの男はなぜか私ではなく先ほどの筒を見つめて話を続ける。筒を持つ男が返事をするでもなく、マイクの男ばかりが早口で捲し立てるさまはどうにも不思議で、気づけばものすごい数の野次馬が集まっていた。

 そんな中、人混みをかき分けてこちらに突き進んでくる黄色い頭が、ひとつ。

 

「あ! いたいた! こっち!」

 

 その男はそばまで来ると、迷いなく私の手首を掴んだ。

 

「どこに行っちゃったかと思いましたよ! 撮影場所こっちですよ。あ、すみませんこの人うちのタレントで、生放送見てびっくりしちゃいました失礼しました!」

 

 黄色頭はマイクの男に頭を下げると、返事を待たずしてきびすを返した。

 人混みをかき分けズンズン進む黄色頭に、手を掴まれている私はあれよあれよと付いて行くしかない。

 

「手を、離しておくんなんし」

「嫌だよ」

「何故」

「探していたからに決まってるだろ」

 

 人混みを抜けて人通りの少ない道まで来ると、黄色頭は足を止める。そうしてやっと、私を掴んでいた手を離した。

 

「なにインタビューなんか受けてんだよ夕霧、お前いつこっちに来た?」

「……夕霧? ぬしさん、わっちのことを知って——」

 

 そうして黄色頭をよく見れば、その顔貌は見慣れたもので。

 

「し、しゅんさん?!」

「やっと気づいたか」

 

 着物でなく西洋の服を身に纏った俊さんはまるで別人だった。それでも無邪気な笑顔は相変わらずで、でもやはり気になるのは逆立つ髪の毛。

 

「その頭どうしたの?」

「ああ、これはだな」

「何か悪いものでも食べちゃったの? 火事の影響かも」

「夕霧。この金髪はだな、この時代のお洒落なんだよ。ハイトーンカラーさ」

 

 そう言って襟足に手櫛を通す俊さん。そんな見違えた俊さんに私は一瞬戸惑ったけれど、その腰に揺れる鈴を見てすぐに安堵した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「え! じゃあ、俊さんは私が来るより随分前からこの時代に居たってこと?」

「そうだ。俺がこっちに飛んでから、もうすぐ1年が経つ」

「1年って……」

 

 公園という広場の椅子に、私と俊さんは並んで座った。

 辺りを見回せば、そこには曲線を描く鉄の棒や、小さな階段と対極に取り付けられた銀色の板が置かれている。なんの用途かわからない物体があちらこちらに散乱するその広場には、肌に心地よい冷たい風が吹いていた。

 目黒川という場所がどんなところかは知らないけれど、吉原の空気と大差ない、そんなふうに思った。

 

「夕霧が言っていた通り、桜って何種類もあるのな。ちなみにさっきの川沿いに咲いていた桜はソメイヨシノっていって」

「ま、待って俊さん。今は世間話をしている場合じゃない。これ」

 

 私は着物の襟を引っ張る。

 

あざ、潰れてしまったの。これじゃ鈴があっても元の時代に帰れないよ。一緒に刻を飛んだであろう百墨ももずみ花魁おいらんと、もちろん時介・・のことも気にはなるけれど、まずはやっぱり元の時代に戻ってあの火事を止めないと」

「夕霧」

「よかったよその腰の神楽鈴かぐらすず、俊さんが持っていたんだね。あとは痣があれば帰ることが出来る。だから吾作ごさくさんを探そう? 百墨花魁が言っていたじゃない、吾作さんはこの未来のどこかにいるはずだって」

「夕霧。俺の話を聞いて」

 

 肩を掴まれた。顔を上げると、俊さんは真剣な眼差しで私を見つめている。

 

「吾作さんは死んだかもしれない」

「え」

「吉原が燃えた明治44年4月9日。鈴の力を使って刻を飛んだのは、夕霧を入れて全部で4人。そのうち俺と百墨は、ほぼ同時期にこの未来へとやってきたんだ。吾作ごさくさんにも会えたよ。吉原から消えた後の話もたくさん聞けた。でも、俺は吾作さんを百墨から守りきれなかった」

「守る?」

 

 俊さんが私に話してくれた内容は、にわかには信じ難いもので。

 

「百墨花魁が……妖怪?!」

「そうだ。あいつは元は『妲己だっきのおひゃく』って名前で、その美貌から男を惑わして意のままに操る妖怪だったんだ。そのお百が目をつけたのが刻飛村こくひむら。村のほこらに納められた鈴を手に入れる為、お百は村人だった吾作さんを妖術に嵌めて取り込み、鈴を盗ませた。鈴の力を引き出すには、吾作さんがその胸に持つ鈴蘭すずらんの痣が必要だったから」

 

 村を出た吾作さんとお百は、時代を転々としながらしばらく時を共にした。

 お百は美と性に取り憑かれた悪女で、そんなお百が次に目をつけた時代と場所が、江戸から続く吉原遊廓だった。

 

「吾作さんはお百の妖術の助けもあって、遊女屋『刻飛楼こくひろう』の楼主に。お百は名を百墨ももずみと改めて上級遊女になった。花魁道中を歩けば美を羨ましがられ、男には未来永劫困ることはない。百墨にとってくるわはまさに天国だった。毎晩のように色に狂い、美をもてはやされて……だが、そんな日常にもついに暗雲が立ち込めるんだ。吾作さんが、とある遊女に惚れちまったから」

「それって、もしかして明里あかさとさん?」

 

 私が言えば、俊さんは得意げに指を鳴らす。

 

「大正解。楼主ろうしゅが遊女を妻にするのは珍しいって、俺たちが居た頃の吉原でも吾作さんの昔話は語りぐさだっただろう? でも当時の百墨はそれを許さなかった。怒り狂った百墨は禍々まがまがしい姿に変貌して、ついに吾作さんを殺そうとしたらしい。だけど、百墨の裂けた口が吾作さんに牙を向けたその時、吾作さんが腰にぶら下げていたふたつの鈴が反応したんだ」

 

 眩耀げんように包まれ一瞬。次に吾作さんが目を開けた時、百墨の姿はどこにもなかったという。

 

「百墨は消えた。そうして吾作さんは明里さんと晴れて結ばれて、くるわには俺たちの知るところの平穏が訪れたってわけさ。めでたしめでた——」

 

 私は俊さんの頭を軽くはたく。

 

「あたっ! なにすんだよ夕霧!」

「俊さんがふざけるからでしょう? なにがめでたし、よ。百墨は消えたりしていないじゃない。花魁として、私たちが居た元の時代にちゃんと存在していた」

「それは封印が解けちまったからさ」


 背後からの声に、私は小さく悲鳴をあげた。俊さんは瞬時に私の手を引き立ち上がらせ、椅子から遠ざけると共に身を翻すと、私を庇うようにして背中に隠した。

 それまで座っていた椅子の背もたれ、その向こう側に立っていたのは、腰まで伸びた白銀の髪を揺らす女と、隣に男。


「百墨……!」

 

 俊さんが声を上げれば、百墨花魁は小首を傾げて微笑んだ。

 

「俊介、それから夕霧さん。お久しぶりでありんす」

「なんでお前がここに!」

「ずーっと、あんさんらの後ろに居まんしたえ。随分と物騒な話をしていたんで、声を掛けそびれてしまいんした」

 

 俊さんの首筋には汗が滲んでいる。

 

「結界が機能していないってことはやっぱり、吾作さんはもう」

「安心なされ。まだ・・、生きてやす。今の夕霧さんと違って、吾作にはまだ利用価値がある。なあ、主さん?」

 

 百墨花魁は隣に立つ男の頬を手の甲で撫でた。しかし男は特に反応を見せず、じっと前を見据えて立っているだけ。

 

「のう俊介。腰の神楽鈴をあちきに寄越せ」

「いやだと言ったら?」

「どうでありんしょう。今度の主さんは気性が荒いから。ねえ?」

 

 百墨が再び男の頬を撫でる。すると男の眼球は白眼まで真っ黒く塗りつぶされて、途端に意志を持ったように見えた。

 男は椅子の背を飛び越えると、一直線にこちらに向かって走り出す。

 

「俊さん、どいて」

「え」

 

 私は俊さんの背中を押しのけて前に出た。そうして懐に手を突っ込むと、掴んだ剃刀を男に向かって目一杯に振り抜く。

 その刃は図らずも男の首を切り裂いた。男は動きを止め、傷口を手で押さえながら地面に膝をつく。その様子を見た百墨は鼻頭に皺を寄せ、ぎりぎりと歯を鳴らした。

 

「……おのれ夕霧。あちきの真夫まぶ候補に傷をっ!」

「笑わせないでおくんなんし。先にわっちの俊介まぶに手を出そうとしたのは百墨花魁、お前の方じゃ」

 

 地面に倒れた男を挟んで、私と百墨は睨み合う。そんな私たちを、今度は横から鋭い光が照らした。

 

「きみたち何をしている!」

 

 光の方へ顔を向けた俊さんはすぐに青ざめる。

 

「まずい。警官だ」

「警官?」

「奉行人だ! ひとまず逃げるぞ、近くに車を待たせてる」

 

 俊さんが私の手を掴んだその時。腰に揺れた神楽鈴が、しゃらりと音を立てて地面に落ちた。

 鈴は無情にも、地面に伏せる男の手元に転がっていく。

 

「……もらった」

「俊さん、鈴が!」

「今は逃げるんだ夕霧!」

 

 俊さんに手を引かれた私は広場を駆け抜けた。走りながら振り返れば、百墨と男は文字通りけむに巻かれて消えていて。その現象を不思議に思ったのか、警官が私たちを追って来ることはなかった。

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