其ノ壱 薄雲

 廊下を擦り駆ける裸足の音が近づいて来ます。だんだんと大きく強くなるその足音は、わたくしの部屋の前でその動きを止めました。

 タンっ、と襖が乱暴に開かれます。部屋の中心に座るわたくしが見上げれば、襖を開けた男は面倒を顔に出してため息をつきました。

 

薄雲太夫うすぐもだゆう。ご無事で」

「太夫はやめておくんなんし。わっちはもう、遊女としてはとうに死にんした」

「なにを申すか。未だかつて薄雲太夫ほどの花魁を、俺は見たことがねえ」

「嬉しゅうござりんす。が、この顔の火傷をみても同じことが言えるのか」

 

 わたくしが額を隠していた和紙をめくれば、男はギョッとした表情で目を逸らしました。

 

「どうじゃ。瞼は潰れ、皮膚は盛り上がり、右目は白濁。これでもわっちが美しゅうと、嘘偽りはありんせんか」

 

 わたくしが言葉で詰めれば、男はバツが悪そうに俯くのみ。その様子を見て、わたくしはふっと笑みをこぼします。

 

「申し訳ありんせん。大きな音を出したのは、鏡台の角に足を掛けて盛大にひっくり返してしまっただけ。馬鹿な真似はしんせん。安心なされ」

 

 言えば、男は軽く頭を下げてそそくさと去っていきました。

 折を見て、わたくしは小さく声を出します。

 

「……もう、出てきてもようござりんすえ」

 

 押入れの戸が開くと、首を引っ込めて中腰になりながら出てきたのは身体の大きな男でした。貴方はわたくしの目を見てそっと微笑みます。

 妙ちきな着物。上半身を覆う黒い布にはゆとりがなく、袖や裾がぴたりと身体に纏わりついていて、それでいて脚を覆う布は古い藍染品か、ところどころ色が剥がれて膝小僧には破れさえありました。

 小さな顔に配置された目鼻立ちは異人のように凹凸がハッキリしており、それでいてどこか、わたくしたちとも遠くはない。

 貴方はわたくしがするすぐそばまで近づくと、躊躇なく胡座あぐらで腰を降ろしました。

 

「交渉は成立、ってことでいいな?」

 

 突き出た喉仏が震えて、低く甘美な声がわたくしの耳を喜ばせます。久しく聴くことのなかった、悪意のない・・・・・人の声。

 

「もう一度確認させて欲しい。今は明治43年。令和ではなく明治、間違いないか」

「あい。おっしゃる通りでありんす」

「で、ここは吉原遊廓。遊女と呼ばれる女たちが男をもてなす囲町かこいまち

「間違いありんせん。まあ、くるわに囲われて食い潰されているのは犬ではなく、わっちら女郎でありんすが」

 

 わたくしがそう皮肉を込めて笑っても、貴方はちっとも顔色を変えならさない。

 その凜としたかんばせに、わたくしは一瞬で恋に落ちたというのに。

 

 

 

 

 

 

 数刻前——

 

「薄雲。いいかげんに諦めな。その顔じゃ、いくら張見世はりみせに出たところで客はつかねえ」

 

 楼主ろうしゅは額を掻きながら困り顔です。

 とうとう時が来ました。覚悟を決めていたわたくしは、そっと笑って口を開きます。

 

「わかってやす。長いこと、ほんにお世話になりんした」

「本当に悔しいよ。鈴ノ屋すずのやにとっちゃお前は100年に1人の逸材だった。禿かむろの頃から器量は申し分なし。新造しんぞうからすぐに座敷を持って呼び出し昼三ちゅうさん、花魁まであっという間に上り詰めた。それが、三月みつきも経たない内にこんなことになっちまうなんて」

 

 楼主は遠慮がちに、わたくしの額に目をやります。貼られた和紙が風でひるがる度、怪訝を隠しきれない様子で眉間に皺が寄りました。

 

「そ、それでよ。申し訳ねえんだが、今いるこの個室は次の太夫が引き継ぐことになっちまって」

「次の太夫……」

「部屋は無くなるが、大部屋の奴らにはよく言って聞かせておくし、これからのことはもう少し時間をかけて考えりゃええ。芸事に長けているお前だ、やれる仕事のひとつやふたつ俺がなんとかする」

 

 鈴ノ屋の楼主はとてもいい人でした。本当ならば勘当されて、切見世きりみせに落ちてもおかしくないわたくしを、このまま店に置いてくれると言うのですから。

 

「ありがとうござりんす。精一杯、気張らせていただきんす」

「おう。部屋の荷物、なるべく早めに纏めてくれ。な?」

 

 気まずい通告を終え溜飲が下がったのか、楼主は来た時よりも幾分顔色を晴らして私に背を向けます。襖が閉じられ、廊下を去っていく影が見えなくなると、わたくしの目には自然と涙が滲みました。

 

 運命などと、納得できるはずもありませんでした。幼き頃に身を売られ、芋洗いの湯に浸かり、指先が裂けるほどに芸事にも勤しんで、命を削って生きてきました。男の息が、肌が、我が身に触れる度に何度心を殺したことでしょう。それをやっと……やっと、光が見えてきたというのに。

 

 わたくしは立ち上がり、窓の側まで行くと外を見下ろしました。間も無く日が暮れます。通りの行燈あんどんにはちらほら火が灯り、大きく口を開けた鉄門を通って、あちらからこちらに人がやってきます。

 

「いとも簡単に、やってきんす」

 

 くるわの出入り口に立つ若いもん、その屈強そうな男たちは、わたくしたち女郎があの出入り口の向こうへと一歩でも足を踏み出そうものなら髪を掴み、引きずり、折檻せっかん場である物置に放り込む。それは端女郎はしじょろうだろうと太夫だろうと変わりません。女郎はどこまで行こうと女郎。花魁でさえ、一瞬の栄華しか夢に見ることのできない幻なのです。

 ただ。よわい21のわたくしには、まだまだ猶予があるはずでした。

 

「……こー、とろ、ことろ」

 

 ぽつり。自然と口をついた童歌わらべうたを口ずさみながら、わたくしは部屋の隅の小さな鏡台へ向かいます。たった数歩の距離。それでも気力だけで足を擦り動かして、一歩一歩近づくごとに理性と情緒を落っことしていきました。

 

 

 こーとろ ことろ 

 どの子を ことろ

 あの子を ことろ

 とるなら とってみろ

 こーとろ ことろ——

 

 

 和紙を剥がし、露わになった顔面を鏡に寄せます。醜く、恐ろしい鬼のような額を見つめながら。わたくしは、手にした剃刀を喉頸のどくびにあてがいました。

 ぎゅっと、瞼を閉じて。最後のひと押しを——

 

 

「おい」

 

 

 男の声でした。驚きで目を開いて振り向けば、隣に立っていたのは見たこともない衣服を身につけた風変わりな青年。

 その青年が、真っ直ぐに目を見つめてくるものですから、わたくしは思わず袖で額を隠します。

 

「悪い。邪魔したか」

「いいえ……」

「あんたあれだよな、格好的に。俺、探している女がいるんだけどさ、胸んとこにタコの痣持ってる黄色っぽい着物の女、見たことねえかな」

「あ、あの」

 

 男の妙な口ぶりに、わたくしは思わず顔を上げてしまいました。


「あー、やっぱわかんねえか。着物なんてみんな何着も持ってんだろうしな。どうすっかな」

 

 悩ましげに首を傾げる男は、わたくしの額のただれを指摘してはきません。それどころか、ここは何処だだの今は何月何日だだの質問攻めで、その間、男はわたくしから片時も目を離さないのです。

 

「あの」

「あ、心当たりある? タコ痣女」

ぬしさんはいつから、わっちの部屋に」

「俺? それがよく分かんねえんだよ。タコ痣女の鈴がしゃらしゃら鳴ってたことまでは覚えがあるんだけど。気づいたらこの押し入れで目を覚ましてて、なんとなく戸の隙間から外を覗いてみたらあんたが死のうとしてたから、声をかけた」

 

 死のうとしていた。そう言われて、わたくしは言葉を失ってしまいました。そうして男を見つめているうちに、なんだか無性に腹が立ってきたのです。

 

「死のうとしてやす、そう分かっていながらなぜ止めんした。わっちは死にたかった。主さんに止められなければ今頃楽になれんした!」

「は? 知らねえよ。目の前で人が首なんか切ってみろよ、一生トラウマだわ」

「虎とはなんじゃ!」

「忘れらんねえってこと!」

 

 男はわたくしに近づくと、手から剃刀を奪い取ります。

 

「死ぬ気なら俺を助けてから死んでくれよ」

「な、何故わっちがそのようなことを。大体、部屋に忍び込み遊女を待ち伏せなど許されんせん。今すぐに人を呼びんすえ」

「そうか。でも気に入ったんだ。あんた綺麗だから」

 

 プツン、と。頭の中で何かが切れる音がしました。頭に血が昇ってしまったわたくしは気付くと、床置きの小さな鏡台をひっくり返して男に馬乗りになっています。

 

「……なにがじゃ。わっちのどこが綺麗か、言うておくんなんし」

「全部」

「よう見て! この凸凹の皮膚! 潰れた目玉をみても尚、そんな戯言ざれごとを申すのか!」

「ああ、申すね。俺は嘘が嫌いなんだよ。綺麗なもんに綺麗って言って、何が悪い」

 

 歯を食いしばり懸命に感情を抑えようと思っても、わたくしの唇は震えるばかりで次の言葉を紡げません。

 ぼたぼた落ちる涙の雫を頬に受けても、男は嫌がるどころか微笑みまで浮かべています。

 

「あんた名前は」

「……薄雲うすぐも

「薄雲、交渉だ。助けてくれたら次は俺が薄雲を助ける。それでもまだ死を望むなら、その時は俺も一緒に死んでやるよ。約束だ。だからもう少しだけ、生きてくれ」

 

 ああ。どうして。どうして貴方はそんな顔をわたくしに見せてくれるのでしょう。

 わからない、わからない……でも。

 

 わたくしが恋に堕ちたのは、生涯で今この瞬間、一度きり。

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