其ノ弍 俊介
早朝。
俺は箒を片手にうーんと身体を伸ばして大きな欠伸をすると、ため息を吐いた。
「あーあ、暇だぜ全く。落ち葉なんてよ、掃いたところでまた風に乗ってやってくるんだ、意味ねえぜ」
「
「へいへい」
と、返事はしてみたものの。俺の手に握られた箒は同じ地面を右往左往するのみで、やる気なぞ全く出やしない。そんな俺の様子に、今度は同僚の
「ちっとは気張れや。近頃の
「鈴ノ屋の薄雲さんがどうしたって?」
「ほら、顔があんなことになっちまって一事は自死まで心配されたが、今じゃ鈴ノ屋の
「へえ。でもまた、なんで急にそんなやる気に?」
「それがよ」
平六は手招きすると、口に手を添えて俺の耳元に寄る。
「なんでも鈴ノ屋に雇われた新参の若い
その言葉に、俺は唇をへの字に曲げて平六へと顔を向けた。
「なんだそりゃ。色男ったって、とどのつまりは俺たちと同じ
「気になるなら覗きに行ってみたらどうだ」
「はあ?
確かに、と平六。俺は大門を背にして立つと、その一本道の先に君臨する城を
「鈴ノ屋、それから
「俺だってそうさ。遊郭城に出入りするのはもっぱら政府のお偉いさんだもんな。軍服着こなした男が
「言うじゃねえか、平六」
「そりゃ言うさ。俊介ほどじゃあねえけどな」
俺と平六のため息が重なった。
聳え建つ城を見つめる俺の横顔に何かを察したのか、平六は眉を下げて口を開く。
「俊介、
「……どうだかな。桜が散っちまったことを話した記憶はねえ、かな」
照りつける陽ざしで背に汗が伝う。
「悪い。嫌なこと思い出させちまって」
「あー、やめやめやめ。湿っぽいのは好かねえわ。平六、頭切り替えようぜ」
「ああ」
「それに、聞けば今日は久々に花魁が歩くって話じゃねえか。どの店が出すって?」
「確か」
「あちきが、歩きんす」
振り返る。そこに立つ遊女の顔を見て、平六は慌てて頭を下げた。
「
黒煙が着物に揺らぐ。濃淡鮮やかな紫が
「お初にお目に掛かりんす、
百墨は切れ長な瞼をふっと伏せるように軽く頭を下げた後、顔を上げて凛と佇む。
その瞳は間違い無く俺を見つめていた。
「そ、そりゃあ勿論! 異人のようなその
「……異人、ねえ。あんたさんが俊介かい?」
「あ、いやいや! 俊介は俺でなく、こっちの若い
「だろうねえ」
平六が俺を差し出せば、百墨はなぜか微笑む。小首を傾げてぬるりと近づくと、俺の頬に触れた。
「確かに、男前じゃ」
「そりゃどうも」
「どうじゃ。あちき専属の用心棒になるというのは」
「ご冗談を」
「何故?」
「ひとりでも強そうだ」
「お、おい! 俊介」
狼狽える平六を無視して、俺は百墨の手をそっと頬から剥がすと、続ける。
「高貴な空気は息が詰まる。俺は
「詭弁じゃ。あちきが必要だと言ってやす。それが全てじゃ。ただの妓夫に、あちきの頼みを断るだけの力があるとでも?」
「ご勘弁を。ああそうだ、ここにいる平六の方が俺なんかよりずっと役に立つんじゃ」
「鈴ノ屋の
ぐらり、視界が揺れた。
後頭部をぶん殴られたかと、百墨の言葉は俺にとってそれほどの衝撃だった。
俺はなんとか足に力を入れ踏ん張ると、できる限りの気丈を身に纏わせる。
「……へえ。そうですかい。そりゃまた、けったいなこって。遊女が
「それがまた困ったもんでね。夕霧は何がなんでも産み落とすのだと頑なだとか。なんでも腹の子は念願、愛しい
真夫。それは遊女の想い人。つまり恋人だ。
「今、鈴ノ屋の楼主は必死になってその真夫を探しているとかなんとか。客ならいいが、万が一にも
「さあな。腹の子が誰の子かなんて、探したところで分かりゃしねえさ」
「それが分かる、と言ったら?」
平六の視線が驚きと動揺を含んだ圧で俺を刺してくる。その様子に、百墨は占めたとばかりに畳み掛けてきた。
「俊介。今晩の道中、あちきに肩を貸しておくんなんし。さすれば夕霧の件、一肌脱いで差し上げんす」
——夜の闇に、
「よっ!
その陣頭を担うは待望。高さのある三枚歯下駄を擦りながら、百墨が膝から下で優雅に弧を描いて歩いていく。外側に大きく蹴り出す八文字。その力強い道中を、百墨は俺の肩に手を添えながら悠々と全うしていた。
『俊さん、こっちこっち! 桜だよ!』
これほど華美な花魁道中の真っ只中だというのに、俺の脳裏に浮かぶは山吹色の着物。ひょこひょこ跳ねながら俺の手を嬉しそうに引く夕霧の姿が、どうにもこびりついて離れやしない。
『ねえ俊さん知ってる? 桜ってさ、ひとつじゃないんだって』
『はっ、そりゃそうだ。この
『そうじゃなくて。いろんな種類があるんだよ。同じように見えて、少しずつ違う桜があるってこと』
『へえ、随分物知りなことで。客から聞いたのか』
客。あの時、俺が発した言葉に
『俊さんはさ、子供って好き?』
『なんだよ急に』
『もしさ、もしも私に俊さんの子供ができたら、俊さんの名前を貰ってもいいかな』
確かこの時、俺はすぐに返事をすることはせずに顔を伏せた。夕霧のことは好いていた。抱けば気持ちも高まった。だが遊女と
俺はすぐに笑みを貼り付けて顔を上げると、夕霧の頭に手を添えた。
『構わねえが、誰の子かなんて分かりゃしねえよ。お前は人気の遊女だからな』
『それが分かるんだよ。月のものを自由に止めることのできる薬があってさ』
『おいおい。それも客から聞いたのか? なんか危ねえもん飲まされてんじゃねえだろうな』
『大丈夫だよ。御守りがあるから』
『……はあ?』
見れば、夕霧の手には小さな白い鈴が転がっていた。
『ね、今日はまだ
甘い声が、脳を突く。
この日を境に夕霧は度々俺を誘った。そうして程なく、夕霧は遊郭城に引き抜かれて俺の前から姿を消したのだ。
「……すけ、俊介!」
呼ばれてようやく、俺は我に帰る。
気づけば道中はとっくに足を止めていて、茶屋の前に立つ吊り目の男が、顔に喜色を浮かべながら百墨へと手を伸ばしていた。
「今晩、百墨花魁をお相手なさる
男は呉服屋の旦那らしく、紳士的な洋装で佇む。その胸元に揺れるものを見て、俺は思わず声を出してしまった。
「その鈴……」
しゃらり。記憶の
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