其ノ参 吉野
「
「あ、あの」
わっちは部屋付きの
「これは先日の花魁道中の絵じゃろう。真ん中を歩く紫の着物は、まさに
「わ、わっちはその、たまたまこの絵を拾っただけで」
「ほう。お前は要らぬ拾った絵を後生大事に懐に入れて持ち歩くのか? うっとり眺めておったの見逃してねえぞ! 浜路! お前を世話する花魁は誰じゃ!」
わっちが声を張り上げれば、浜路は小さい身体を折りたたんで床に額をつけた。
「申し訳ありんせん! 申し訳ありんせん! わっちにとっての
高く涙の混じった浜路の声に、わっちは思わず耳を塞ぐ。
「
「そんな! 吉野花魁!」
「きぃきぃ泣くんじゃないよ、鬱陶しい! これだから食うだけの餓鬼は嫌いじゃ。やっとの思いで花魁になっても、こうも気苦労が多いと萎えちまう。わっちはいつも、はずれくじばかりじゃ」
睨みをきかせりゃ浜路は立ち上がり、唇を噛んで部屋を飛び出していった。そんな浜路と入れ替わるように
「花魁。近頃、浜路に対してのあたりが強うないですか。あの子はまだ9つ。もう少し優しゅうお声掛けくだされませ」
「はっ、あん子が若梅のように健気にしておれば、わっちにもやりようがある。浜路は
「仕方がありんせん。浜路は
「それが気に食わんのじゃ!」
そう声を上げれば、若梅は出過ぎたとばかりに視線を落として頭を下げる。
「薄雲、薄雲薄雲! わっちが花魁になってもう
鼻息荒くわっちが言えば、若梅は失礼しんした、と部屋を去ってしまった。
絵師はこぞって
「急げ吉野。今夜はあと二間、対応してもらわなきゃならねえ」
「承知でありんす」
すり足で廊下を急ぐ。客間には、わっち吉野を待つ馴染み客が既にほろ酔いだ。芸妓が舞い、豪華絢爛な配膳が並ぶ部屋に一歩踏み入れれば、客はわっちの顔を見るや表情を明るくさせた。
「
「嬉しゅうござりんす」
馴染みの客の隣に座り、わっちはしなだれ掛かるように主さんの左腕に手を絡める。
「
「いやだあ、
首を傾げてにこりと笑えば、保さんはわっちの頬に触れながら上機嫌に酒を煽った。
「嬉しいねえ。その無垢な笑顔が俺は好きでね。いつまでも変わらずいてくれよ、吉野。薄雲のように顔が潰れちゃあ、台無しだ」
「あい、勿論」
お猪口に酒を継ぎ足しながら、わっちは座敷の奥に視線を配る。そこには三味線片手に華麗な旋律を奏でる、狐面の女郎がひとり。
「芸ができようが身体が魅力的だろうが、顔がおっかねえんじゃ勘弁だ。そういう男は多いぞ? 女だってそうだろう」
「女も?」
「そうそう。最近、鈴ノ屋の遊女を盛り立てている若い
「
「そうそう! その時人ってのが男前だって噂になっていてなあ。俺もいっぺん見てみたが、あれは目鼻立ちがはっきりし過ぎていてどうにも圧が凄くて。吉野、女は皆あんな顔が好きなのか?」
保さんは答えの分かりきった質問をわっちにするのが大好きだ。だから、わっちも分かりきった答えを口に出すのが常である。
「まさか。わっちは断然、保さんの顔が好みでありんす。保さんは? わっちの顔が好き?」
「そりゃ当然」
「百墨花魁よりも?」
「勿論だよ」
わっちは保さんの太腿に沿わせた手を擦り、腹から胸、首筋、そして頬まで到達させると、じんわりと熱を持った瞳で保さんを見上げた。
しばし見つめれば、保さんは察したように声を張り上げる。
「今宵は刻飛楼には負けんぞ、この吉野に華を持たせよ! じゃんじゃん酒を出せ!」
ダンっっ!
保さんの一声で三味線と琴の旋律がさらに活気付こうとした、次の瞬間。敷居から外れるほどの勢いで開かれた襖から、踏み込むような大きな足音を立ててひとりの男が入ってきた。
静まり返る客間。男は上座に座る保さんとわっちを横切るように素通りすると、ズンズン歩みを進めてとうとう足を止めた。
見下ろすは、狐面の女郎。
「……
狐面は顔を上げず、じぃと前だけを見据えている。
どうやら男は薄雲の客らしい。見向きされない鬱憤を晴らしに来たのだと悟ったわっちは、止めに入ろうとする若い
「薄雲さん。わっちのことはどうかお気になさらず。
言えば、男はこれ幸いと座る薄雲の手首を掴んだ。
「ほら。吉野花魁もそう言ってんだ。お前みたいな落ちぶれ女郎、俺くらいしか指名もないくせに何を渋ってやがる。立ちな!」
強引に連れて行こうとする男。だが薄雲は抵抗を見せ、男の手を力一杯振り払う。
「……嫌でありんす」
「は?」
「あんたのような野暮な男はお断り申しんす。よそ様の部屋にずけずけと。恥を知りなんし」
「な、なんだと!」
男が手を振り上げた時すでに遅し。頬を弾く音を受け入れようとわっちは目を瞑ったが、意外にも痛々しい音は耳まで届かない。
何故、と目を開けてみれば、そこには男の腕を捻りあげる若い
それは噂の男——
「お客さんさ、それ自分でやってて惨めになんねえの? くそダサいし、あんたもう出禁だから。ほら、こっち来な猿」
傍若無人な態度。艶のある黒髪に、彫りの深く馴染みのない顔。
男は皆、額を出して未だ
白い肌。見上げるほどに大きい身体。男らしい胸の厚み。
その全てが異色であり、目を奪われる。
「無礼な! 俺は政府の人間だぞ! こんなことをしてタダで済むと思って」
「あー、だるいだるい。もう許可もらってるから。言っとくけどあんた解雇だよ。国の金を着服してこの吉原に通ってんのバレちゃったって」
「なっ……」
「ね? もうあんた終わった人間だから。最後に一つだけいいか」
その時、わっちは
時人が繰り出した拳は客の顎を下から突き上げ、客は一瞬で天を向いて弓なりに身体をしならせる。客は畳に尻を擦りながら配膳を薙ぎ倒し、戦意を喪失した様子でただ茫然と時人を見上げた。
遊女からも悲鳴が上がるこの状況に、わっちの隣に座る保さんが口を開く。
「時人といったかな。流石にそれは少しやり過ぎなんじゃないか?」
「そうでありんす。お客様にそんなこと許されんせん。それに、薄雲さんは元花魁。
わっちが保さんに次いで言葉を続ければ、時人はギロリと顔だけをこちらに向けた。
「この狐面が誰だって?」
「だから、薄雲さんでありんしょう」
「なんでそう思う」
「そりゃ、さっきの三味線の旋律が見事でありんしたし、面を被っていらっしゃるのは顔の傷を気にしているからで」
「違うな。彼女は薄雲じゃない」
そうして、三味線を置いた遊女が狐の面を外せば、それは思わぬ人物で——
「よかったな
「はい。ほんに、嬉しゅうござりんす」
「若梅は頑固だからな。こんなことで証明しなくても、薄雲はお前を突き出し道中に出してやるって言ってたのに」
「申し訳ありんせん。それでも鈴ノ屋の
ふたりが会話をしている
だが、わっちはそれどころではなかった。衝撃で止まっていた思考を無理に動かす。
なぜわっちの部屋子の若梅を、薄雲が突き出しするのだ。いくら若梅が
「吉野花魁」
時人にそう名を呼ばれて、わっちは我に返った。
「なんじゃ」
「分かっただろ。若梅の突き出し道中は明日だ。それが済んだら、鈴ノ屋を背負って立つ花魁はあんたから若梅に変わる」
「何を勝手な! そんなこと、何故新参のお前に言われなきゃならない! 大体薄雲に道中を彩る金などあるものか! あの女はもう客も取れないではありんせんか!」
「その客が取れなくなった原因を作ったのはどこのどいつだ!」
時人の大声で、わっちの身体は
「な、なにを言う。薄雲が火傷を負ったあの火事は、薄雲が寝る前に吸っていた
「へえ、そうかよ。じゃあこれはなんなんだ」
どん、と乱暴に床に置かれたのは、瓶に入った透明な液体。
「この瓶は吉野、お前の部屋から見つかったんだ。薄雲が言っていたよ。火事の日、燃え盛る室内では妙なにおいがしたってな。そのにおいはこの瓶に入っているガソリンと同じだったそうだ」
すっと、保さんはわっちから距離をとった。横目に唖然としている顔を捉えたが、引き止める間はない。保さんは立ち上がると、何やらボソボソ呟いて部屋を出ていった。
わっちの中の何かが、崩壊を始める。
「……ガソリン? なんじゃそれは。わっちはそんなもの知らん。お前こそ、何故その液体の名がわかる」
「あ、俺? 俺は昔この液体を売っていたことがあるから」
「
がらがらと音を立てて、積み上げてきた偽りの誇りが、散っていく。
「さようならだ、吉野。荷物まとめてすぐにこの城から、鈴ノ屋から出て行くんだ」
鏡台に座り、髪をとく。もう二度と結うことの無い、髪をとく。
ああ、そういえば。今日は月に一度の湯浴みの日だった。今頃みんな客の悪口でも言い合いながら、わいわい背中を擦っている。
着物を脱ぎ捨てて、
やっとの思いで掴み取った花魁の名が、逃げてしまった。おかしいなあ。これくらいの汚い手、皆使ってきたはずなのに。
「……そうだ。若梅がいなくなれば、また」
不穏な考えが浮かんだ。だがその企みもすぐに消え失せる。なんせ、あのガソリンとやらはもう、ここにはない。
「吉野花魁」
高く若い声がわっちを呼んだ。振り返れば、部屋の入り口に真っ赤な着物を着た
「吉野花魁。これ」
「浜路お前、それ……!」
「必要になると思って、持ってきんした」
浜路の手には、空っぽの小瓶。
「これで、火をつけるでありんす」
「おお! そうか! 浜路、お前だけはわっちの味方であったか! でも、中身はどうした」
「ばーか」
シュッ、と擦られた
「あぁ……! あああ! なにを!」
「薄雲花魁の仇じゃ!」
「ま、待て! 待つのじゃ浜路!!」
走り去る浜路の背に叫んだ後、思い切り息を吸い込んで黒煙にむせる。嗅いだことのある、ツンと鼻につく独特なにおいを、脳が覚えている。
「嫌じゃ……嫌じゃ嫌じゃ! 死にとうない! 死にたくありんせん! 誰かっっ」
胸が詰まって意識が遠のく。こんな時に思い出すのは、何故か保さんの最後の言葉だった。
“生まれ変わったら会おう、吉野”
「ははっ……ごめんじゃ。女郎になど誰がなるものか。惚れた男の為に、せめてもの華を、地位をと、血の滲む思いをした。もう、ごめんじゃ。わっちだって……私だって、元は只の女だった。どこにでもいる、女の子だった」
瞼が閉じる。その裏に映った保さんの笑顔に、私も目一杯微笑みを返して。いつか。いつか生まれ変わったら。今度は外を歩いてみたい。色香にむせるこんな場所でなく、門の向こうにどこまでも続く一本道を、あなたと共に。
「さようなら、保さん」
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