Interlude

I-1.葬奏者

 古びたビルの屋上、おざなりに設けられたフェンスのそばに、男が一人たたずんでいた。

 平凡な外見の男だった。歳の頃は二十五、六か。くたびれきったスーツ姿。

 服装のみならず、立ち姿やおもてにも、濃い疲労と消耗の跡がにじんでいる。

 背後では手から滑り落ちた端末が狂ったように鳴っていた。男の借金を取り立てようとするどこかの会社からのものであることは確かめるまでもなかった。

 空には分厚い雲が立ちこめ、世界はひどく暗い。

 その只中ただなかで、男は奇妙にいだ心持ちで、呼び出し音を聞いていた。

 不思議なものだ。受け取った金は何も成してくれなかったというのに、それでも返さなければならないだなんて。

 男には愛した人がいた。善良で美しい婚約者が。

 男は自分がありきたりであることを知っていた。志もなく、しようと決めた努力さえ数日と保たせられず、あげくその後悔すらすぐに忘れて、時間と資源をただ浪費してきた。

 そんな自分を愛してくれる婚約者を、男は無論代えがたく思っていた。

 その彼女が死病にかかったとわかった時、男は願いを持った。

 彼女の生存を願った。その願いを果たすために全てのことをしなければならないと感じた。こんな自分であっても、彼女のためにだけはあらゆることに取り組めなければならない。そうでなければ自分などを愛した彼女があまりにも報われない。

 がむしゃらに働き、それでも足りなければ彼女以外の全てを担保にして金を借りた。費用を捻出し、もっとも見込みのある療法に賭けて、取り得る手段は全て試した。

 いつ己が彼女を捨てて逃げ出すかと、男は自分自身に怯えたが、しかしその日は訪れないまま時が過ぎた。

 だから――と思ったのかもしれない。

 初めて力を尽くせている。こんなに何も出来なかった自分が。一つのことのために全てを費やし、戦うことが出来ている。だから願いだって叶うはずだ、と。

 しかし、彼女は死んだ。あらかじめ告げられていた確率の通りに。

 後には、人並みの稼ぎしかないくせに背丈に合わない金を使い、借用書以外の全てを失った男が残された。

 婚約者はもういない。その上、、という当然の事実まで知ってしまった。

 出来ることは一つしかない。彼女を失った悲しみがまだ自分の恐怖心を麻痺させている内に、いつものように逃げるのだ。

 あらゆるものをすぐに腐らせてしまいそうなじっとりとした風が吹く中、男は落下防止柵フェンスを越えた。

 額から脂汗が噴き出す。戻りたいという衝動と、戻れば間違いなく後悔するという理解に挟み潰され、吐き気が込み上げる。

 死にたくない。でも死ななくてはいけない。死ななければ逃げられない。

 嫌だ、助けてほしい。でも、助けなんて望めやしない。こんな自分では。こんな世界では。

「う、うう、ううう……!」

 恐怖を前に、たがが外れる。認めまいと心の底に押し込めていた思いがついに暴れだし、意識をどす黒く染める。

 “こんなことなら”

 “こんなことなら彼女のことなんて見捨てて、ただ生きていけばよかった”

 噴き上がるその感情を自覚した瞬間、男は身を投げていた。

 自分が“願い”に挑んだことを心から後悔しながら、男は落下し――、

 湿った肉と骨からなる重量物が鳴らす独特の衝撃音と共に、死に続く暗闇の中へ飛び込んだ。

 ……そして、音が絶えた、数秒後。

 どこからともなく、威風と厳格さに溢れる大声が、昼日中だというのに通行人が一人もいないその通りに響き渡った。

《――!!》

 うむ――良い!!

 繰り返し叫ぶ、気難しげなようにも感じる壮年の男の声。

 誰に発しているでもない独言が、喝采のように無人の空間に木霊する。

 いつからか現実より切り離され、の識域へと接続されていた空間に。

《実に痛ましい。そして悲しい! 故に――望ましい!! この悲劇、この葬奏者ネーニア蒐集しゅうしゅうするに値する!!》

 声は感極まったように口にすると、指を打ち鳴らし、高らかに宣言した。

もう一度ワン・モア!!》

 するとどうか。

 致命傷を負った若い男の体が血溜まりから浮き上がり、巻き戻すように傷が塞がりながらビルの屋上へと舞い戻っていく。

 腕は意志を取り戻したかのように動き、柵にしがみつき、ほんの一瞬の放心から立ち返ったかのように、目には光が戻る。

 落下開始前までの記憶と共に蘇生した男は先刻と同じように逡巡し、吐き気をこらえるが、己の醜い叫びを聞くと耐えられなくなり、再び身を投げる。

 そして沈黙に至ると、声は――奏でられる音楽の、求めるくだりを何度も聴き直そうとするかのように――繰り返し、叫ぶ。

もう一度モア!! もう一度モア!! もう一度モア!! もう一度ワン・モア!!》

 どさっ!

 どさっ!

 どさっ!

 どさっ!

 どどどどどどどどど、ずじゃっ、どざあっ!!

 若い男は死に続ける。苦しみ、怯え、叶わぬ“願い”に挑んだ自分を、そして“願い”を叶えさせてくれなかった世界を、何度も何度も呪いながら、極限の痛みにき続ける。

《この世界は残酷だ! 存在われわれをまるで重んじることがない! 神の作りたもうたこの世界は! “!!》

 断末の音色と合わせ奏でるかのように、演説然とした声が負けじと張り上げられる。

《なんたる悲劇! なんたる苦痛! この有り様は正されなければならぬ! 然るべき奏上そうじょうをもって、神に祈られねばならぬ!!》

 叩き付けられる肉体が刻むリズムに促され、頑健な声は激しく叫ぶ。

《故に我は求める! 究極の悲歌ネーニアを! 主へと捧げる流刑者の祈り、世界に差し込まれるべき“願い”のくさびを!!》

 反響、反響、反響。合奏は音量を増して最高潮に達し、そしてやがて、沈黙に至る。

 無限に続くかと思われた落下の響きがビル群の谷間に染みつききった頃、音が止んだ。

《……ふむ。この“悲劇”からみ出せるインスピレーションは、どうやらここまでのようだ》

 呟いた声からはもはや、目の前の出来事に対する関心の色は欠片も感じられない。

 つまらなげに指音が鳴らされると、暗がりから彼の従える低級逸路どもがい現れ、男の死体を貪り始める。

《やはり祭儀さいぎが必要だ。多くの生命ものが集い、共鳴の内に意を一つとする祝祭の場が。そしてそれを束ねるに足る、歌声が》

 通りの向こう――交差点に面した大型液晶が、輝く衣装をまとった少女たちの姿をいびつに映し出す。

 中央に立つ明星、クリア・ブラウンの瞳のたった一人を除き、居並ぶ娘たちのおもては全て黒く塗り潰されている。

偶像ディーヴァ生命いのちの祈りをおこし導く歌姫ディーヴァ! 不要なるつゆを払い――至った汝の祭壇でこそ、我が悲歌ネーニアは真なる糧を得よう! おお! おお!!》

 空間をべる声の高揚に合わせ、降り注ぐ黒い雨が風景を塗り潰し、開演を待つ厳粛な暗闇へと周囲を書き換えていく。

 やがて音を筆頭に全ての痕跡は呑まれ、一条の光さえ見出せなくなった漆黒の只中を、絶望に似た完全な静寂が支配した。

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