第3話 駒王丸

佐久

望月の牧

数か月、斎藤実盛は駒王丸を秩父に匿い、東山道を望月に入り

牧の幸親を訪ねていた


斎藤実盛  「幸親殿久しぶりでございまする」

海野幸親  「武蔵では父、弟、共々懇意にして頂き、ありがとう御座

      いました」

斎藤実盛  「信濃名代、兼遠殿に内々のお願いが有りまする」

海野幸親  「義賢殿、秩父殿の最期、残念でありまする 実盛殿

     義平親子・畠山重能殿の事なれば、助太刀は難しいかと 

     弟が信濃の兵を動かせば、信頼殿の納める、武蔵への口出し

     京の義朝殿が許しません、朝廷の許可はでません、国賊となりまする」

斎藤実盛  「助太刀の件では有りませぬ、文では書けぬ用件です

     幸親殿、これが露見すれば、武蔵で秩父で新たな乱がおこります

     畠山殿や我の命にかえて、内密にお願いしたい 」

       「駒王丸殿を秩父に匿うございます」

海野幸親  「望月の館に留まって頂けるでしょうか

     三日で戻りまする、幸親が筑摩にはしりまする」

三日後

海野幸親は筑摩に馬を走らせ弟、兼遠を望月宿に連れて来た


斎藤実盛  「兼遠殿、駒王丸をお願いします 信濃も家督争いや戦乱の時代が

     まいりまする 軍事的実力と貴族性を併せ持つ地域抗争の調停者が

     必要に なる時が来ます 駒王丸は北家直系

     中原殿、期を伺いましょう」

中原兼遠  「源義賢殿は都で幾度もお会い致しました

     義賢殿の御子ならば預かりましょう」

源義賢は都での遊び仲間、同じ年であった 今は、中原兼遠は信濃の権守であり

武蔵の行政官の時 秩父氏・畠山氏・斎藤氏とは周知の仲であった

駒王丸は秩父重隆の娘が生んだ、源氏北家の直系

信濃国の木曽に中原兼遠の家族にかくまわれる。

駒王丸の兄、源仲家は摂津源氏の源頼政に保護され、その養子となった

自身の子と同じ年、二歳になる駒王丸の命

斎藤実盛はこの後、義朝に伺候し、駒王丸の事は

畠山との約束で、白を切り徹したのだった

中原兼遠は木曽の荘園の拡大の為、資金が必要だった

兄、幸親から、馬と牧の技術を木曽に導入し

馬を使い、運輸事業を拡大していくのである

馬は戦車、農業ではトラクター、輸送では新幹線であった

他国への最大の輸出品だった

東山道の関では、通行税を徴収する

馬と軍馬にまつわる、装飾は信濃の強みだった。

1156年

保元の乱

(国勢戦) 後白河天皇に対する謀反の疑いをかけられ、崇徳上皇・藤原頼長、追い詰められるようにして挙兵


崇徳上皇・藤原頼長敗れる


藤原忠通側、平清盛、藤原信西 と 藤原頼長側、源義朝、藤原信頼が争い忠通側が勝利

信濃から参戦した義朝軍

   片切景重…義朝の郎党・兵庫にいた信濃源氏

片桐の招兵

 海野幸親…信濃の武士

   根井行親…信濃の武士

 熊坂四郎…信濃の武士

   信濃から参戦した清盛軍

   平家弘の招兵

   村上為国…信濃の武士


村上は朝長側で為国は信西の甥、挙兵はしたが叔父の制止にあい

敗戦後も粛清されることはなく、この後しばらく信濃の豪族としては

謹慎状態であった。

「保元の新制」 荘園整理

後白河天皇院政を始める

平清盛を厚遇

藤原信西・平清盛が政治の実権を握り始める

源義朝ら源氏の冷遇が始まる

後白河法皇の意見が遮られ、藤原信西が邪魔になっていく


中原兼遠 信濃の生活地盤を造りながら、木曽に土着する

1159年

平治の乱

藤原信頼が源義朝とともに藤原信西(通憲)を自殺に追い込むと、

(朝廷内乱) 平清盛が信頼・義朝を討ちとる

源義朝 尾張で清盛に粛清、頼朝→伊豆へ 範頼→奥州藤原へ

  義経→鞍馬山へ 

平治の乱に際して、滋野氏、諏訪氏、片桐氏、など多くの信濃武士は

源義賢と敵対した兄の源義朝に従った

ただし、崇徳上皇の近臣であった村上氏は

信濃に所領を持つ伊勢平氏の平家弘らと共に上皇方についた

しかし、内乱の様相を踏まえ信州武将は本格参戦していない

平賀義信 平治の乱(義朝側)で敗戦 信州に拠点を移す


1160年

平氏政権の成立

1166年

摂政・藤氏長者の近衛基実が急死して後白河院政が復活


中原学校


駒王丸だけではなく

自身の子供たちには自ら明経道を教授し

兄、海野小太郎幸親に兵部を 根井氏に弓を

千野氏(山吹御前)妻 栗田氏(葵御前)妻にし

諏訪 千野氏には神道を 村上・栗田には馬を

峻烈な英才教育で巴御前まで武士化していった

同時に、東山道の各宿で運輸業を持たせた


中原康頼 (兼遠 長男) 平保盛に養子に出されていた

1166年 義父保盛、尾張の国司に転任し、康頼を目代にする

1177年 京都鹿ヶ谷(鹿ヶ谷の変)で流罪、

1179年 出家し覚明(性照)として義仲の軍師・書記となる

1186年 阿波の国へ


駒王丸  兼遠の子供たちと 二七歳位まで兄弟の様に育っていた

中原兼好(兼遠 二郎)

      伊那の知久氏に仕えた小木曽氏に婿入り

樋口兼光(兼遠 三郎)

     伊那の樋口氏に婿入り

今井兼平(兼遠 四朗)

     筑摩の今井氏に婿入り

今井兼光(兼遠 養子)

     筑摩の今井氏より兼平と交換養子

落合兼行(兼遠 五郎)

     美濃、落合氏へ婿入り

巴御前(兼遠 女子)

     駒王丸の妻

山吹御前(兼遠 女子)

     千野氏妻

葵御前(兼遠 女子)

     栗田氏妻

駒王丸と子供たちと共に、婿入りや嫁入りした子供たちの家人にまで

中原学校は、教えをしていた

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