木曽義仲(もう一つの川中島)

じ~じ

第1話 中原兼経

百済の再興を夢見て


千五百年前に鎌足が一族生き残りに選んだのは


裏に徹し千数百年の日本を生き残る道だった


王朝国家が終わり、天皇を盾に政治を取り合う武家が現れる


天皇・貴族・武家・寺社・地方豪族


平安の末期、世は混沌


信濃の貴族と豪族が国盗りの弓を引いた




京都

中原氏

都が京に移り

十市氏として武士化していく十市一族と

十市氏が貴族化していく中原氏に分かれた

更に、朝廷の学問・事務方に有象方、軍師や武士に以忠方に分かれていく


1107年

堀河天皇が没し、宗仁親王が即位(第74代 鳥羽天皇)

白河法皇(上皇)院政末期の事だった

有象派(官僚) 中原師遠は十市宿禰有象の直系 朝廷の大外記

朝廷の人事面や詔勅関係の事務の主である

師遠の子、師元は後に、音博士に任ぜられ、権少外記・少外記を経

以後、直講・助教などを兼任しながら大外記職を務め

保元の乱後に掃部頭に任ぜられた際に一旦辞するが

(1160年)に再度任じ、永万2年(1166年)まで勤め上げた。

以忠派(官僚) 中原兼経は、十市宿禰有象の弟十市以忠系であった

少丞であり、天皇の駕行時の護衛と身辺警護の任を務めていた

いわゆる内舎人(うちねとり)であった


1114年

以忠の子孫、右馬少九兼経(中原兼経)は信濃大掾となって赴任し

佐久郡の牧長となっていた


三条殿

1116年

紀為宗(貴族)(権守) 「兼経、中原師遠の推薦が有った

               武蔵の国で目代を任ずる」

中原兼経(六位史)   「身に余る推挙、有難く申し受けまする」

紀為宗         「師遠殿にも十分、礼をしなされ」

中原兼経        「為宗殿、信濃の用脚は」

紀為宗         「兼経、配慮はいらん」


紀為宗、子(八重垣)を藤原聖子に努めさせ

武蔵は白河上皇の知行国、紀為宗は娘の力で

院内の出世を画策していた

兼経、地方官僚として右少弁・正六位を与えられ武蔵に下向

目代とはその名のとうり

地方豪族と朝廷の間での、税の取り合いだった


国司として藤原信頼、武蔵守に紀為宗

源平の支流、荘園を中心とした武家や

武蔵七党地呼ばれる牧を中心とした武士団

秩父重隆・畠山重能・斎藤実盛などの武士は

官人として、地方行政官としても周知の間柄になる

院政下、公卿の子であろうと、中々裕福な生活ができるわけもない

地方官僚の後、地域に土着する者と朝廷で出世を願う者がいた

中原兼経は武蔵の地方官人を務め、荘園で蓄え、人脈を整え

東山道の途中、木曽に荘園を営んでいた


1123年

鳥羽天皇が譲位し、第75代 崇徳天皇が即位する。

兼経は配置替えで京に帰る


1125年

兼経は信濃大掾に任命 佐久の望月、根井の牧に赴任


中原兼保

(兼経 長男)

海野(滋野姓根井氏)幸親

父が信濃大掾に即位した時、信濃豪族滋野氏(牧・官荘園)を営むことになる

滋野氏の長となり、後に海野氏として分派する


1142年

崇徳天皇が譲位し、第76代 近衛天皇が即位 鳥羽法皇が院政

信濃守は藤原伊通の子清通で、伊通が知行国主であった

中原兼経、滋野・望月・祢津の牧を幸親(長男)と営み

東信濃では滋野氏分かれの海野氏の祖となる

木曽馬を使い、東山道・木曽路の運輸・関で中原氏は力を蓄えていた

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