第7話 横田河原の合戦

援軍に化けた井上・手塚の奇襲で

笠原陣の目の前で上がった大量の白旗に

城氏の兵に強い恐怖心が突然芽生え動悸していた

城氏軍に混ざった大量の北信濃の兵が、赤旗を持って飛散

義仲は正面から城氏を追い立てた


その慌てぶりに城氏軍は千曲川沿いに本隊が後退し

城軍の兵は ちりじりに拡散してしまった

笠原・城は小隊を引き連れ

義仲に作られた退路を退却していく

兵は千曲川沿いに細く長くなってしまった

稲荷山、茶臼山、中尾山から下った

義仲軍に横腹を衝かれ

笠原・城の小隊は、その日のうちに

大半の兵を失い、関川から直江津へ

義仲全軍はそれを追って越後になだれ込んだ

城氏は直江津三郷郷に有った国府を明け渡し

阿賀野川上流の、奥州会津(「藍津之城」=陣が峰城)へ入る


1182年

義仲は善光寺平を見渡せる平柴の木村宗高の居(木曽屋敷)に

守護所を移していた


義仲は 直江津の国府に入った

北陸越中宮崎に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し

以仁王挙兵を継承する立場を明示し、北陸に勢力を広める


頼朝に所領を取られ、頼朝に反抗した志田義広も敗れ、義仲軍に合流した

以仁王の勅令を頼朝に届けた源行家は、頼朝の麾下には入らず独立勢力を志向した

三河国の矢作川の戦いに敗北し、頼朝を頼り、所領を願ったが聞き入れられず

義仲のいる直江津に来ていた

南信濃を取った武田信義は北信濃の所領を狙い

頼朝に義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言

頼朝の義仲への疑念を煽る

1183年

朝廷は義経の異父弟の藤原能成を信濃権守に送り込む

同時に地方豪族を粛清


頼朝、義仲を討つために軍を信濃に出陣

義仲、幸隆、望月を伴い、木曽屋敷に帰る

頼朝軍は碓氷峠を越えて佐久郡に入り、平賀氏の手引きで

依田城を落して善光寺平で義仲軍と対峙する

義仲の子、義高を頼朝の娘婿として鎌倉に置くことで

一時和解する


中原学校で人、東山道の関と運輸で兵站を育てた

中原兼遠は義仲軍の創設の祖であったが

義仲が征夷大将軍になるのを見届けずに、この年亡くなった

兼遠の最後の言葉は、看取った覚明に残した「義仲殿を頼んだ」だった

覚明は兼遠の生まれ変わりの様に、義仲軍の参謀となる

中原兼遠の母方の血縁が、勅令を発した以仁王だった

その後、義仲は以仁王の子、北陸王を立て京に入ったのである

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