第6話 市村河原の戦い

市村河原の戦い 


善光寺の南、飛鳥時代から続く善光寺平の市(馬市場)市村の犀川の河原まで笠原軍は進軍していた

村山氏は後退しながら、矢を放ち、自軍の消耗を避け

近接戦を避け、時間稼ぎを繰り返していた

栗田氏も村山氏に合流して、同じく後退しては矢を放つのである

栗田氏の中御所まで後退していた

市村で村山、栗田(善光寺別当)と笠原軍勢、共に矢が切れ夜半には膠着する

次の朝からは刃による戦いとなるのである

短期決戦で善光寺をとれると思っていた笠原氏は

切り合いになるとは思いもよらなかった

              

翌日

東雲の頃

東、保科からは井上光盛が千曲川を渡っていた

西、筑摩の岡田郷から源(岡田)親義が小田切から小市へ

南、根井小弥太は犀川を渡っていた

楯親忠が姨捨の山道を下った頃には

義仲軍は合流を繰り返し、この時五百騎五千人の大群になっていた


笠原は信濃の大軍が迫っていることを聞き

義仲の軍が挙兵した事を知るのである

村山・栗田軍の思わぬ粘りに膠着していた笠原軍は

越後の城資永を頼り、北國街道を城氏の所領 関川へ敗走する

伊那、息子 笠原友則(菅冠者)の援軍にも向かえず、城氏に身を預けることになるのだった


武田信義に菅冠者が討たれ、関川に伊那の友則の自害の知らせが入る


朝廷平家政権は 市原の戦いを収めるため

信濃筑摩へ兵衛尉を送っていた

景清は「悪七兵衛」(あくしちびょうえ)の異名を持つほど

勇猛で景清の兵は安徳天皇の滝口武者である

兵衛尉に任した藤原景清は、すでに佐久の大群が善光寺にはいり

戦いが決していたにも関わらず、錦旗を掲げ、弐百の兵を従え、

筑摩から後町に入っり後町に村山、栗田を呼びつけていた


後町

藤原景清   「村山殿、栗田殿、お怒りと思う この景清に免じて

        納めなされ」

栗田善光寺別当「景清殿、笠原のこのたびの所業、許しがたき所業でございます

        昨年、善光寺が焼けてしまいましたが、取り調べの結果

        笠原の手の者が、灯明当番、その火で亡くなっておりまする

        善光寺は朝廷ゆかりの寺、不輸不入の寺でございまする

        水不足で凶作うえに 大田郷は戦で、作が見込めません」

藤原景清    「善光寺の再興は約束いたす」

栗田別当範覚 「井上、岡田、根井殿の援軍が来ておりまする

        ここはもう止められません」

藤原景清   「栗田別当範覚、信濃の所領は安堵する、

        中原兼遠殿には伝令を出す」

       「井上、岡田、根井殿に兵を退却を願うか景清に弓を引くか、

        どちらじゃ」

栗田別当範覚 「善光寺は朝廷に弓など引く筈もございません」

藤原景清    「景清は京に帰るが、所領の事忘れることはならん」


      景清は急ぎ京へ義仲挙兵の知らせを走らせていた


富士川の戦いで、源頼朝、武田信義が平維盛、朝廷軍を破る


義仲は兵を挙げたが、今平家(城氏)、頼朝、武田、奥州藤原と戦う兵も兵站も不足していた


義仲は、そのまま上州の所領を守ろうと、父の旧領である多胡郡のある上野国へと向かう

武蔵、多胡郡に久しぶりに帰った義仲は

叔父や、父の旧友と合い、組て天下取りの意思を固める

海野幸親は子、幸広を義仲につけ、武蔵の武士を集め

上野に居を求めたが、頼朝が勢力を上野の源氏方まで広げていた

頼朝軍とは衝突も合流もしなかった

義仲は奥州藤原氏とも争いを避け 数か月で佐久の依田城に入る

西上州の諸武士も義仲に加わり、千騎一万の兵になっていた


多すぎる兵は後に平坦不足による、義仲の窮地に繋がっていくのである


平忠清は藤原景清を信濃の守にと宗盛に進言したが既に

義仲の手中にあり、宗盛は兵衛尉景清を京から外せず

筑摩の権守にはできなかった


この戦いで、後町の機能は失われており、筑摩の国府

国司は藤原盛長が責をとり、実権は義仲に有った


兼遠の知人 大江成棟 (権守)が筑摩に入る


義仲 藤原助弘を中野郷の所領とする



1181年

養和の飢饉 

前年の水不足で、京の年貢が大不足状態になり、離農して兵になる農民が急増

義仲挙兵から、征夷大将軍まで 三年間続くのである


「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば くさき香世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち有様、目もあてられぬ事多かり」


2月4日 平清盛死去(享年64)

木村宗高は北信濃に来ていた

北国街道の飛脚から城氏の動向が聞こえてきた


鹿ヶ谷(鹿ヶ谷の変)で流罪になっていた 中原康頼は出家して

覚明と名乗り、興福寺で藤原信西と共にいた僧侶を頼り

善光寺に来ていた



横田河原の戦い

丸子依田城

木村宗高 「越後が義仲殿討伐の準備をしております

     城氏が朝廷より源氏討伐の命を受けましたが

     資永殿は朝廷に、信濃に

     おいては、他人を交えず 一身にして攻落すべき由、申し出た程、

     自信をもっております」

     「城氏は糸魚川、関川、三国を超えて信濃に攻めるよう

     兵を移動させておりまする」

中原兼遠 「この雪がきえてからになろう」

木曽義仲 「仁科殿、栗田殿、村山殿、高梨殿、藤原助弘殿に伝令を」

覚明 「義仲殿、ここは天下分け目でございます 我が話をお聞きください

     城氏は雪が消える春までは信濃へは来れません

     依田と関川の中間に戦場をと考えると 川中島でありましょう

     三国からは上野で頼朝殿が黙っておりません

     城氏は大軍、挙兵して早くて五日、必ず兵站を補給

     馬休めいたします

     兵站も善光寺平まででありましょう

     越後の兵も荘園、寺社兵でございます

     刈り取りが終わった初秋が一番と考えます

     そこで

     善光寺平まで、北信濃の方々には荘園の農民に隠れて戦を避け

     後方から挟み撃ちをお願いしたい、北信濃の兵をなくしては

     勝ち目が見えません、糸魚川、関川の兵を川中島に集めましょう

     包囲し総攻撃をいたしましょう

     抵抗がなくば、城氏は必ず後町に挨拶に来ます

     大江殿には兼遠の書状を、覚明は後町の大江殿に面会してまいる

     兼遠、書状を書いてくれんか」


井上光盛  「義仲殿、われらは城軍にまぎれます

      赤旗をもって軍に紛れ期を見て、白旗を掲げ

      後方を取りまする 助弘殿の中野の牧に入れて下さい」

覚明   「面白いが危険じゃなあ、細かい事は 軍議じゃ」

高梨忠直 「井上殿が紛れるのであらば、我らも赤旗を持って

      後方を取りまする」

村山義直 「高梨殿が後方であれば、義直も後方を取りまする」

栗田善光寺別当 「我も騎をもって後方を」

覚明   「栗田殿は宗高殿と同じく、戸隠で兼平の補佐をお願いしたい

     後町で何が起こるか、わからんからのお」

木曽義仲 「井上殿、旗揚げをお願いする、しかし手塚と合流してからじゃ」

中原兼遠 「手塚光盛殿は宮坂峠から松代へ、天城城から妻女山で待機

      戌ヶ瀬か下流の猫ヶ瀬を超え、井上殿、高梨殿、村山殿と合流して

      赤旗を掲げ、城氏の援軍のふりをして城軍に近づいてください」

中原兼遠 「援軍のふりの騎馬は赤旗を捨て、白旗を揚げよ」

木曽義仲 「未だ、白旗を揚げるだけじゃぞ!戦ってはならん

      弓の距離に近づいてはならん」

中原兼遠 「井上殿の白旗が合図じゃ

      本隊、幸親は那和殿・桃井殿・小角殿・西殿・瀬下殿

      樋口以下、白旗が上がると同時に千曲の浅瀬を渡り

      笠原、城軍の本体に総攻撃をかける

      雨宮の渡は浮き橋を使う

      長福寺にて間に合うだけ作る、長福寺を本陣とする」

覚明  「城氏のしんがりにいた隠密は赤旗を持ったまま

      白旗が上がったら、なるべく大きな声を挙げ

      茶臼山方向に白旗から逃げるのじゃ

      茶臼山から仁科氏が進軍してくるので

      やられたふりをし、赤旗を捨てよ

      手塚、井上殿、高梨殿、村山殿は

      隠密軍を追って仁科氏と今井氏と合流

      城氏軍も散ってくるだろうが

      城軍の左側をついて後方の退路を作る」

中原兼遠 「狼煙が上がったら、茶臼山から仁科氏

      姨捨の薬師山から今井氏

      栗田氏、村山氏、仁科氏の一部は小田切口から

      楯親忠は千曲川右岸 妻女山まで進軍

      機を待っていた」

木曽義仲 「我が軍に内通が居たり、劣勢ならば、その場でわが軍は

      依田に引き、隊を整える 賭けじゃぞ」

井上・高梨「北信濃の武士は、農民でござりまする」

中原兼遠  「義仲殿ここは地の利を生かし、奇襲としましょう

      城軍に混ざった者は 千曲の渡し横田河原に

      案内し、中洲を焼き払い狼煙とする」

木曽義仲 「第一に城氏を越後まで追従して北陸に出る

      勝っても、城氏の首はいらん、市原の笠原もいらんぞ

      城氏の退路を塞ぐと北信濃に遺恨を残すことになる

      京を目指す、兵は民である」

覚明  「書状を書きましょう、宗高殿、北信濃へお願いいたす」

木曽義仲 「市村の戦いで北信濃の武将にはご苦労をかけた

      戦場となる北信濃の武士には城氏の道案内をお願いしよう

      この戦い、義仲軍の初めての大戦、怠りなきよう」


    越後の城資永、義仲追討の命を平家より受ける

2月4日 平清盛死去の文を見た数日後

    大雪の中、城資永、急死

弟「城資職」が源義仲軍の討滅を期して大軍を率いて

稲刈りの終わった兵を連れ、信濃国に侵攻した

城資職は何の抵抗も受けずに、飢饉で少量ではあったが兵站も得

民家からの略奪には、多少の抵抗があったが

戦闘らしき戦闘はなかった


北国街道 柏原宿

村人(義仲側武士)「お侍さん、米、馬、を持っていかれたら

          一家は餓えてしまいます 私も兵に入れてください」

城軍       「赤旗に加わるのなら大歓迎じゃ」

村人(義仲側武士)「お侍に預かった弓、刀がございますが

          いかがいたしましょう」

          農具と、竹筒に隠した矢をござに包み、差し出した

城軍       「我が荷車には積めん 馬が居るではないか

          荷車に米と荷をつけて しんがりに着いてまいれ」


糸魚川からの分隊には今井氏の兵

関川からの本隊には藤原助弘の声がけで近隣の栗田、村山、井上の荘園兵が

越後軍に混ざっていった、合流した北信濃の兵は数百騎となっていた

そして犀川を超え、川中島、千曲川の渡河地域となる

雨宮の渡しの対岸の横田河原を焼き払い

横田砦(長野市篠ノ井横田 観音寺)に陣をとった

間もなく、糸魚川、鬼無里、小川、小田切を超えた援軍も陣に入った

横田河原は千曲川が幾つにも別れ、中洲や湿地が散乱していた

萱が生い茂っていたが、初秋の萱の青白い狼煙は

抜けるような青空に大量に昇っていた


木村は善光寺平をすべて見渡せる、善光寺の鬼門 旭山に見張り台を構えた

戸隠に隠れ兵を蓄えていた、今井氏の伝令も務め

兵站を芋生に移していた


七二会から茶臼山に仁科氏、姨捨の薬師山に今井氏、鳥打峠には手塚氏

兵を隠していた栗田氏、村山氏、仁科氏の一部は小田切口から期を待っていた


義仲軍は皆、善光寺平を見渡せる大峰大地の上から

赤旗を見渡せる位置にいた


桑原の横手山にいた義仲に三峰山にいた見張りから

川中島に上がる野火が上がった


義仲は八幡神社から、長福寺で浮き橋の荷車と合流し、雨宮の渡しまで

兵を進め横田河原の砦に突進した


義仲・千数百、城氏・五千、最初の川中島の合戦が始まろうとしていた

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