死にゆくおれたちのための挽歌

南沼

+++

Q.次の一戦に向けての意気込みを教えてください。

A.意気込みもクソもあるかいな、一方的にボコるだけや。ロートルのプロレスに付き合う気なんぞあらへん。

 わしはな、ああいう引き際を見失うたおっさんが一番嫌いなんや。引導渡したるさかい、安心して死んどけや。


Q.次の一戦に向けての意気込みを……

A.ああ、次の相手オガちゃんでしょ、知ってるよ(笑)

 別に前試合したとかじゃなくてさ、ただのケンカだよ。いきなり路地裏で殴りかかってきてさ。

 いや、負ける訳ないじゃん、あんなヒョロいのに。2、3発小突いたら白目剥いて倒れちゃったよ。

 いいよ俺は、何回戦っても。でもリングの上だと手加減できないなあ(笑)


 黒大蛇クロオロチ。最近名を上げてきたその新興地下格闘技団体のケツ持ちを地元の磯村組がやっているというのはもう今は昔の話だ。メンバーを構成する半グレ連中の余りの無法ぶりに磯村組はとっくに愛想をつかし、あわや解散の危機というところで中国福建省系マフィアの下部組織である天合華人会がバックについた。磯村組が黒大蛇を手放したのは興行としての旨味が少ないことも理由のひとつだったが、天合華人会が仕切り出してから、それも大きく様変わりした。行く当てのない、暴力衝動を持て余した不良ワルどもの受け皿という側面は変わらず、一方で興行成績は伸びに伸びて今やかつての利益の5倍近くを上げている。景気の良さは当然組織外部にもほの見え、磯村組の幹部らが揃ってそれに歯噛みしたのは想像に難くない。

 とまれ、黒大蛇の躍進に拍車をかけた大きな理由の一つを挙げるとすれば、それはルールの変更にある。

 過激な見世物に慣れた観客は、より過激なものを求めるようになる。かつては巷の総合格闘技と同程度のものだったそれは、大幅に緩和された。緩和というより、もはやルールの消失と言った方が近いかもしれない。かつてその名を産声として上げた南米における格闘スタイルのひとつ、バーリトゥードですら忌避した噛みつきや目潰しですら容認し、どころかリング上にレフェリーすらいない。八方を金網ケージで囲み、どちらか一方の明らかな戦闘不能状態によってのみ決着を付ける。ラウンドなど当然存在せず、時間無制限の一本勝負があるのみ、殆ど公開殺人ショーに等しい凄惨な場面が繰り広げられることも決して珍しくない。不良小僧どもに居場所を与えるという身内の情にも似た立場から取り仕切りをした磯村組ではあり得なかったショービジネスを天合華人会は躊躇いなくそのスタンダードとし、地方都市の裏社会に半分足を浸らせた半グレ達は皮肉にもこぞってそれを歓迎した。

 そして変化のもう一つは、今や黒大蛇を知る者なら誰もが名を挙げる、甲斐かい克馬かつまの存在である。

 甲斐克馬という名で彼その人を知る者は少ない。5年ほど前まで北関東を中心に活動するプロレス団体に所属していたのだが、その頃はミル・マスカラスを彷彿とさせる古風な覆面を被り『ドン・ガナドール』と名乗っていた。身長は180cmに届くかどうかという程度しかないものの、厚みのある身体を使った豪快な試合ぶりが評判だった。しかし現役時代は決して長くない。いつの頃からか巡業に顔を出さなくなり、団体公式ホームページの選手一覧からもひっそりとその名が消えた。

 その甲斐が2年前、黒大蛇が天合華人会の仕切りとなってからこちら、現役時代とは打って変わって本名と素顔を晒しながら無敗のチャンピオンとして君臨し続けているのだ。

 ファイトスタイルはプロレスそのままと言って良い。相手の技を受け、それ以上の力をもって返す。目を潰そうと迫る指はゴリラのごとき握力で握り潰し、金的や肛門を狙う蹴りは敢えて受け、大げさに痛がる素振りで油断させては追い打ちを狙う相手を捕まえ寝技グラウンドに持ち込んだ。頑強で狡猾、どんな相手だろうがを演出し、しかもフィニッシュは必ず派手なプロレス技で締める。これで人気が出ない筈がない。

 甲斐が元プロレスラーだということは誰もが知っている。しかし、こんな強い男が、それも盛りをとうに過ぎたはずの中年が、今まで一体どこで燻っていたのかを知る者は少ない。

 小笠原おがさわら蔵一ぞういちは、それを知っている。少なくとも、その一端を。


+++


 これはクソ仕事だと、小笠原は確信した。甲斐の風体を見たその瞬間のことだ。


 7月も半ばを過ぎてようやく梅雨も明け、いよいよ盛夏を迎えようという、うだるような暑さの日だった。

 平成初期に建てられたと思しき安普請のぼろアパート、その敷地に植わるクヌギの幹で羽根を休めるクマゼミがシャワシャワと姦しく鳴く声を心底うんざりした心持ちで聴きながら、小笠原は階段を昇り、203号室を訪れた。

 妙に固いインターフォンのボタンを押し、少しでも反応が遅れれば散々にドアを叩き大声で訪問を告げるいつもの手筈だったが、部屋の中から響く「開いてるよお」の胴間声に肩透かしを食らった。

 それならそれで、と遠慮なく建付けの悪いドアを引き開け三和土に上がり込んだ小笠原を迎えたのは、ただでさえ狭苦しい1Kのアパートの、手ひどく散らかった廊下とキッチンだった。

 廊下に溢れたような洗濯物の山、その下から中途半端に封を切ったトイレットペーパーのパッケージ、左手の流しには割り箸を突っ込んだままのカップ麺の残骸と洗った様子のない食器が複雑な層をなし、ガスコンロは黒く変色した油カスでべったりと汚れていた。

 それらすべてを踏み越えた先、畳敷きの居間で、甲斐は布団から半ば身体を起こしこちらを見ていた。小笠原がいる玄関からでも、その布団の周りがゴミで溢れかえっているのがはっきりと分かった。

「甲斐克馬やな」

「そうだよ。あんたは?」

「わしのことはどうでもええ」言いながらようやく腹を括り、革靴を脱いで廊下に上がり込んだ。

「借りたもん、あるやろ」

 ゴミなのか洗濯物なのか分からない何かを蹴り飛ばしながらコンロの辺りまで歩を進めた。そこはもう居間のすぐ手前だというのに、甲斐は起き上がる兆しさえ見せない。

「アルファ株式会社から10万。株式会社ファインから15万」

 利息込みで……と指を折り、「締めて45万と3500円、まあ端数は勉強したる」と小笠原。勿論、利息制限法の上限を遥かに超す暴利だ。

「さあ。どうだったっけ」

 未だに、甲斐は身を起こさない。

「ええかげんにせえよコラ。借りたもん返すんは世間の常識やろ。ええ歳こいてそんなこともわからんのか」

 凄んでみたが、甲斐の態度は変わらない。

「そんなに借りてたかな」へらへらと笑ったままだ。

「ボケコラ。舐めとんか」

「でも金、ないもん」

「元金はどないした?」

「飲み食いに使ったよ」

 小笠原はこれ見よがしにため息をついた。甲斐克馬、当年とって48歳。北関東をメインに活動した元プロレスラーであることは調べがついている。だがその後が良くない。引退後は何をするでもなく単身者用のボロアパートに居を構え、時折思い出したように短期アルバイトに顔を出すばかりだった。

「都会は家賃が高いからさ。腰も膝もボロボロで、あんま働けないし」

 言い訳がましく言うが、借りた金を返す気があったのかどうかという点で言えば、それは極めて怪しいと小笠原は思う。

 自身の収入を上回る額の借金を返す事は、金額の多寡に関わらず珍しい事でも何でもない。何度もその手続きをやってきた小笠原には分かる、返す気のある者と、そうでない者との態度の差を。甲斐は、圧倒的に後者だった。

「返す気がないんやったら、家族んとこ行ってもええんやけどな」

 はっ、と甲斐は笑う。

「いないよ、そんなもん」

 いるって言い張るはら、行ってみたらいいじゃん。姉ちゃんでも妹でもいれば、ってなんぼでも返せるでしょ。

 脅し文句の半分以上はハッタリで家族構成など把握してはいないし、調べた限り身内や家族というものに縁のありそうな生活はしていない。そもそも、例えいたとして何の法的拘束力も持たないのだが、それにしても余りに捨て鉢な甲斐の態度だった。

「……また来る」

「あっそう」

 小笠原は辛抱強く日を空けずに訪れたが、全く変わらないやりとりが来る日も来る日も繰り返されるばかりだった。

 金融業、それもとりわけ小笠原が生業とするいわゆる闇金業は、債務者の罪悪感や保身に走ろうとする意識によって成り立つ部分が大きい。甲斐のように、良識も失う立場もない人間に掛けられる追い込みなどないのだ。甲斐もそれが分かっていてこんな態度をとっていて、小笠原は猶更それに我慢がならない。

 我慢がならなくなった小笠原のとった行動は、だからそれはある意味で気の迷いだったのかもしれない。

 ある日、パチンコ店から渋い顔で出てくる甲斐の前に、小笠原が立ちはだかった。

「なに、どしたの」と馴れ馴れしく問いかける甲斐に対して、ポケットに手を突っ込んだまま路地裏の方を顎でしゃくる。

「カネならないよ。全部スっちゃったから」

「ええから、もうええから」

 既に弟分の矢野には携帯で連絡している。殴り倒した後は速やかに手配済みのタコ部屋に連れ込む算段だった。

 つまるところ小笠原は、甲斐の喧嘩の強さを見誤ったのだ。


「わ、兄ちゃんそれ、どないしたん」

 帰宅した小笠原を台所で迎えた鈴太は、素っ頓狂な声をあげた。

「転んだ」

 いいから飯の支度に集中しろ、と苛立たしげに突っぱねる小笠原の顔は、無残に腫れ上がっていた。アスファルトに思い切り叩きつけられ、もんどりうちながらも気勢をあげているところを殴られたのだ。痛むのはむしろ、背中から肩に掛けての打ち身だった。しばらく無理は出来そうにないと、経験で察した。

 けんもほろろな扱いを受けた鈴太は、すごすごと引き下がった。

 鈴太は年の離れた弟で、まだ中学3年生だ。小笠原とは母親が違う。鈴太は顔もほとんど覚えていないらしいが、小笠原が親族として認識する3人は小笠原に言わせればどいつも粒ぞろいのろくでなしで、そいつらの支配下にあった頃に比べれば思春期までを過ごした児童養護施設は平和そのものだった。

 しかし、鈴太にとっては違ったようだ。身体が大きく喧嘩っ早い小笠原が施設を出てその庇護下から抜けた途端、陰湿ないじめが始まった。後見人として鈴太の身元を引き受ける頃には、おどおどと他人の顔色を覗う内気で卑屈な気質が、すっかり染みついていた。

 それでもずっと一緒に暮らしてきた小笠原にだけは、心を開く。鈴太を引き取ってから、2人はこの2DKの安アパートでずっと暮らしている。

 その日の夕食は、鯖の切り身を塩焼きと小松菜の煮浸しだった。

 鈴太と小笠原は、まるで似ていない。小笠原は父親の体躯と癇の強さをそっくりそのまま受け継いだが、鈴太は小柄だし、物事を深く踏み込んでじっくり考える気質だった。

「あの」鯖を箸先でほぐしながら、上目遣いに鈴太が切り出した。

「ん」

「兄ちゃんの仕事、大丈夫なん?」

 問われた小笠原は、きょとんとした顔をしてから茶碗を置いた。

 素早くしならせるように伸ばした左の拳で鈴太の鼻先を擦ると、たちまち鼻血がぼたぼたと溢れ出る。

「うあ、ああ」

 堪らず鈴太が鼻を押さえて下を向く。

 電光石火のジャブだった。

「大人の仕事に、口出すもんやない」

「ごめ、ごめんなさい」どもりながら、鈴太は泣いていた。

「あと、玄関先の電球が切れかけとる。替えとけよ」

 小笠原はそう言い残し、食器もそのままに自室へ引き上げた。


 スーパーミドル級の東洋太平洋OPBFチャンピオン、それがかつて小笠原が手に入れた栄光の名だ。舞い上がるのも束の間、初の防衛戦でニュージーランド出身の屈強な挑戦者に打ちのめされた。たった2ラウンドの出来事だった。左目の網膜剥離の診断を受けたのは、そのすぐ後の事。進行は早く、引退を決意するころには殆ど視力は無くなっていた。

 眩しく、そしてあまりに短いそれが、今も小笠原の中のどこかを思い出したように焦がす。その挙句が今、社会からドロップアウトし弟を暴力で支配することでようやく自尊心を保つ、今日のこの有様だった。


 それでも、あの甲斐のような本当の底辺クズよりはましだという暗い自己肯定感もないではなかったのだが、それもある日を境に逆転する。

 思い返せば、あのパチンコ店の裏、甲斐に殴り倒されたアレがのつき始めだった。イモを引けば終わりなどという単純な話ではない。そもそも回収できない債権はあって当たり前の稼業、そこにどう見切りをつけるかが腕の見せ所でもある。それを見誤り、失敗を引きずっては似たような案件を繰り返し、苛立って周りに当たり散らせばなけなしの人望も尽きる。かつては狂犬と恐れられ辣腕を称えられていい気になっていた男は、最後の受け皿であるはずの反社組織の中でも孤立し、月々の上納金どころか生活費にも困る有様だった。

 他方の甲斐はというと、小笠原が担当を外された後は行方も知らなかったのだが、ある日意外なところでその名を耳にすることとなる。

 それが、小笠原が籍を置く磯村組も見放した半グレの巣窟、黒大蛇だ。


「甲斐って、甲斐克馬のことか?」

「そうそう、そんな名前。あんまり強くて、だぁれも相手にならないんだって」

 アパートの近くにあるスナック。とうの立ったチーママが、カウンターの向こうで小笠原の好みに合わせた薄いウーロンハイをマドラーでかき混ぜている。水商売の女にしては珍しいほど化粧が薄いが、そうした方がむしろ若く見える自分の見た目を知っているのだろう。

「はい、どうぞ」酒に焼けたかすれ声と共に、底の水滴を拭ったグラスをカウンターに置く。

「賞金て、なんぼくらい?」

「100万円だって。太っ腹よねえ」

 ここのところ店に足繁く通ういかにもという柄の悪い風体の若者たちの間では、甲斐に掛けられた賞金を一体誰がかっ攫うかが専らの話題なのだという。

「オガちゃん強いんでしょ、稼いでみる?」

 半ば軽口のようなチーママの言葉に、小笠原はグラスを握りしめて黙りこくった。


 小笠原のファイトスタイルを極言するなれば、それはの一言に尽きる。185cmの長身ながら細身、天は小笠原に図抜けた腕力こそ与えなかったが、類稀な目の良さと当て勘を授けた。現役時代は希代のカウンターパンチャーとして連勝を続けた挙句視界の半分を失ってリングを降りた後、小笠原は失ったものの代わりに、狡猾さと悪辣さをもって暴力衝動の解消に充てたのだ。路地裏で、ポケットから出したメリケンサックを右拳に嵌めてこれ見よがしに顎の横に構えては、一見だらりと下げだけの左腕で鼻先を突き、怯んで浮いた顎を右で容赦なく打ち抜いた。もう少し場慣れした、距離を潰し懐に潜り込もうという手合いであれば、その足の甲を革靴の踵で踏み砕いた。

 そんな小笠原の流儀は、皮肉にも黒大蛇のルール無用のデスマッチにこの上なく馴染んだ。組織同士の柵もあろうかと組のことは伏せ、チーママの伝手を頼ってのエントリーだったが運営側からはあっさりとバレた。『磯村組の刺客ヒットマン』。小笠原がリングに上がる度に囁かれる、それが綽名になった。小笠原の存在を、運営やバックにいる天合華人会も、面白がって囃し立てた。

 ファイトマネーなどというものは存在しない。そもそもは若者の暴力衝動と承認欲求の発散をただ興行として利用しているだけの場だ。勝って得られるのは極めて内輪でのみ轟く勇名だけ、それでも腕自慢の半グレたちは喜び勇んで参戦した。

打倒甲斐に掛けられた100万円という賞金の重みは、それだけにひとしおだった。甲斐をマークし潰そうというよりは、むしろそこに興行としての旨味を見出したのだろう。その読み通り、腕っぷしに覚えのある不良ワルはこぞって群がり、甲斐はそれらをものともせず一蹴した。

 当然、名乗りを上げる者すべてが無条件にチャンピオンに挑戦できるわけではない。小笠原にもまた、前哨戦ともいうべき一戦が充てられた。


 相手に選ばれたのは、琉河ルカというリングネームで登録している暴走族上がりの男で、キックボクシングを交えた喧嘩殺法を得意とする手合いだ。背は小笠原よりも低いが、体重は同程度だろう。


 ゴング代わりのブザーと同時、琉河は前に出た。グローブを合わせようとする小笠原に、洗礼とばかりローキックを見舞おうとする。

 難なくバックステップで躱す小笠原。2発目のローキックの出足を殺すように蹴り込んで、そのまま顔面にパチンと左のジャブ。リーチは明らかに小笠原に分がある。そのまま2発3発とガードの上から突いてはフットワークで掻き乱し、痺れを切らした琉河が大振りの右で突っ込んできたその右顎を、狙い澄ました左フックで打ち抜いた。

 意識の外からの一撃に琉河はひとたまりもなく崩れ落ちた。追撃しようとグラウンドパンチの構えに入った小笠原だが、ふいと気が変わったように切り上げた。琉河が完全に失神していたからだ。

 ブザーが鳴った。試合時間はわずかに1分32秒。

小笠原が天に突き上げる拳に、ライブハウスを改装しただけの地下会場は大きく、沸いた。

 これを皮切りに、たちまち小笠原は黒大蛇のリングでノックアウトの山を築いた。鋭くダーティなコンビネーションブロー、背中一面に青々しく彫り上げた和彫りの鍾馗、それが小笠原のトレードマークになった。


「兄ちゃん」

「なんや」

「なんか、嬉しそうやね」

「別に。いつも通りや」

 献立は、豚肉の切り落としで作った生姜焼きだった。小笠原の好物だ。口には出さないものの鈴太は勿論それを承知していて、豚肉の安い日はしょっちゅうこれを作る。小笠原も「またか」と口では言いながら、箸をつけ始めると決まって無言で平らげる。

「スズ」

「はい」

「来年、受験やろ」

 鈴太は、首を振った。「いや僕、高校は、」という言葉を小笠原は「あかん」と一蹴した。

「受験、真面目に受けえ。私立でもどこでもええ」

 否やを態度に出せば拳が飛んでくる。それが分かっているから、鈴太はただ困ったような顔をするばかりだ。

「分かったか」

「……はい」


 兄貴分の高田から電話があったのは、いよいよ甲斐との試合を控えた前日だった。

「おまえ、寄り合いにも顔出さんと何しとるんや」

「はあ、すんません」

「すんませんちゃうぞ。会費かて、滞納しとんのはおまえぐらいや」

「来月までには、必ず」

「なあオガ」

 ねっとりとした高田の声に、小笠原は脂ぎった前田の顔を連想した。

「おまえ、なんやわしに黙ってコソコソしとるらしいやんけ。水臭いのう」

 詰まるところは、人の米櫃に手を伸ばそうという魂胆らしい。

 ぐっと腹の中のものを堪え「来月までには、必ず耳揃えて払いますんで」と絞り出すと、舌打ちと共に電話が切れた。

 小笠原は携帯を食卓の上に放り出し、「糞が」と吐き捨てた。


 4月半ばの、少しだけ空気の温くなってきた夜。小笠原は再び甲斐と対峙した。

 およそ8メートルを隔てた2人の間に張り詰めた不可視の幕を、無機質なブザーの音が切って落とした。

 観客たちは早くも興奮の歓声を上げている。

 行け。殺せ。てんでんばらばらに叫ぶ中には、少なくない数の華語の野次も混ざっている。

 小笠原は、右拳を顎に引き付け、左腕を下げたデトロイトスタイルでステップを踏む。現役時代に最も多用したスタイルだ。対する甲斐は、前傾気味のクラウチングスタイル。それも両手を大きく広げて相手の攻めを誘う、いかにも頑強さタフネスに自信のあるプロレスラーらしい構えだった。

 その体躯は決して絞れているとは言えない、固太りの太鼓腹だ。だが、胸も肩も大きく筋肉が隆起し、それに埋もれるような猪首はいかにも頑丈そのもの。ボディブローはじめ、生半なパンチではダウンさせることも難しいだろう。小笠原はそれを、身をもって知っている。寝技の攻防は論外、かと言って素直に殴り合いに付き合うつもりも無い。

「来いよ」と焦れたように両の手で招くジェスチャーをする甲斐。

 小笠原は内心唾を吐いた。プロレスに付き合うつもりなど、更々無かった。

 小刻みなステップから鋭い踏み込みであっという間に距離を殺した小笠原は、甲斐の向こう膝を、思い切り蹴った。

『腰も膝もボロボロで』

 かつての、甲斐の言葉だ。

 甲斐が顔を歪め、たまらず膝を庇おうとする。

 それを見逃す小笠原ではない。

 これも受けてくれるんやろ? 死ねや。

 体幹の軸を思い切り捻り速度を乗せた渾身の左肘が、甲斐のこめかみに直撃した。

 骨と骨がぶつかる鈍い音を残して、甲斐の身体が大きく傾く。

 ダメージがなかった筈はない。だから、小笠原は油断した。とっさに距離を取ることを怠ったのだ。

 甲斐は長身の小笠原の体躯の下へと潜り込むように手を掬い入れ、反対の腕で上体を引き付けた。軽々と自身の身体を持ち上げられる感覚に、小笠原は不覚を悟った。

 マットに向けて、背中から思い切り落とされる。ボディスラムの格好だった。

 背中から内臓、体の前面に掛けて衝撃が走り抜け、一瞬息が詰まった。路上ならこれでしばらく動けなかっただろうが、リングのマットならばまだ動くことはできる。

 だが、甲斐が背後から覆いかぶさり、腕を首に回そうとしてきたところで、我に返った。

 小笠原は腕を滅茶苦茶に振り回して、肩越しに甲斐の顔をまさぐる。

 指が何か柔らかいものに触れた感触があり、甲斐が顔を押さえて呻いた。

 小笠原は辛くも脱出し距離を置きながら、怒りに顔を歪めた。

 指が目に入った訳ではなく、瞼の上から触れただけだ。もしかしたら、膝へのダメージすら振りセールということもあり得る。

 こん糞ボケ。まだプロレスのつもりか、舐めくさって。

 小笠原は殺意も剝き出しに、再び構えた。


 5分が過ぎ、10分が過ぎた。

 元来がボクサーである小笠原にとって、ラウンドごとの休憩インターバルがない時間無制限の試合は、いかにも苦しい。現役時代ほどの体力などないし、路上の喧嘩ならばずっと短時間で終わる。未だかつて味わったことのない苦しみと言ってもいい。

 しかし、それでも紙一重で凌いでいた。

 距離を取ってジャブで突き、突進してくる甲斐を引っ掛けるようなフックでいなし、掴みかかろうと伸びる腕に被せるようなカウンターを見舞った。

 甲斐の瞼は腫れ、8角形のケージを広く使う小笠原の姿を、首を振るように探すシーンが増えた。

 それでも、小笠原に余裕はない。いくら視界を塞いだところで、一度捕まってしまえばその有利があっさりと覆ることは明らかだからだ。喉元に刃を突き付けられながらも決定打を繰り出せない内心の苛立ちとは裏腹、観客たちの歓声は、今や怒号に近い。誰もが、2人の死闘に夢中になっていた。

 12分を少し過ぎたところで、甲斐の右手が小笠原の左腕、肘のあたりを掴んだ。振りほどこうとしても、怪力で握り込まれた拳は汗で滑るはずの肌を離すことなく、しっかと捕まえている。

 握られた腕の骨がきしみ、鋭い痛みが走る。小笠原は、堪らず甲斐の股間を蹴り上げた。

 おう、と雄叫びのように甲斐は叫ぶが、握った腕を離さない。どころか、身体を折ったまま下に引き込もうとしてくる。明らかに、寝技に持ち込む構えだった。

 小笠原は勢いよく振り上げた頭を落とし、額を甲斐の脳天に叩きつける。

 ごっ、と骨のぶつかる音。痛い。痛いが、甲斐の方がダメージがある筈だ。

 しかし、それでも甲斐は離さない。

 ついに小笠原はマットに膝をつき、殆ど目の利かないはずの甲斐は、いっそ滑らかな動きで巧妙に体を入れ替えポジションを移してゆく。

 馬乗りの体にされた小笠原は必死に下から殴ろうとするも、体重の乗らない拳は空しく甲斐の体表を叩くだけだった。

 降り注ぐ甲斐の一撃一撃に、気が遠くなる。股間を狙って殴りつけるも、巨体は動じない、猛攻は止まらない。

 やっぱ振りセールやんけ、糞が。

 

 そして小笠原は、鈴太のことを思う。口に出すことなく、語り掛ける。

 スズ。なあおい、スズ。

 おまえの人生、これから、これからや。

 糞みたいな親から逃げて。糞みたいな施設から抜け出して。

 お前は頭もええさけ、医者でも弁護士でも、何でも好きなもんになれる。嫁さんかて、そのうち貰えるやろ。

 心配せんでも、わしみたいなヤクザもん、その頃にゃどこへな消えたる。

 なあスズ。

 だからなんも、心配せんでええ。

 スズ。聞いとるか……


 音が響いている。肉を打つ音だ。

 散発的に、しかし終わることなく延々と、響く。

 好き好きに叫んでいたはずの観客たちは、今やもう誰も声を上げていない。

 大の字に手足を投げ出しピクリとも動かない小笠原と、それに馬乗りになって鬼の形相で殴り続ける甲斐。小笠原の顔は既に大きく赤黒く腫れ上がり、眼は完全に塞がっている。

 試合開始から15分と20秒。

 試合終了のブザーが無情にも、鳴り響いた。

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