童貞税

阿下潮

童貞税

童貞税(どうていぜい、英:virgin tax)とは、 少子化問題への対応策として第二期川畑内閣が導入した、異性との性行為を経験していない二十歳以上の男性を課税標準とする日本の税制度。プライバシーの侵害や差別の助長など、問題を指摘する声が多く上がっている。

      ──Dikipediaから抜粋


1

 早起きが得とか嘘ばっかりだ。

 一限のためになんとか起きたが、だいたい昨日寝たのが三時過ぎだから、三時間くらいしか寝ていない。この時間だと出勤前の親父たちと一緒になるから嫌なのだ。電車を使わずに通勤できるくらい近い職場なのに、なんでこんな朝早くから準備してるんだ。大学生にもなって、両親と並んで朝食を食べるとか気まずさしかない。親父はまだいいが、お袋は余分なことしかいってこないからなるべく顔を合わせたくなかったのだが。黙って飯だけ用意してくれればいいと常々思っている。

 親父の斜め向かいでトーストを食べていると、案の定お袋が声をかけてくる。

「たっくんはその、あれは大丈夫なの?」

 時間がないにも関わらず要領を得ない質問をされ、余計に腹が立つ。あれってなんだよ。

「ほら、あの新しい税金ができたでしょ? あの、全員じゃないけど、男の人が対象の」一旦そこで言葉を切って、お袋は冷めたコーヒーを飲んでから言葉を連ねた。「たっくんはその、もし課税対象でもね、学生のうちは申請したら免除されるから、ママ手続きに行ってくるから教えてね」

「どどどど童貞ちゃうわ」

 うざすぎる。なんで朝からこんな恥ずかしめを受けなくちゃいけないんだ。だから早起きなんてしたくなかったんだ。

 親父が黙って席を立つ。そりゃあんたらは結婚もしてるし、俺というれっきとした証拠があるからいいだろうな。腹が立つ。

「たっくんももう大人なのね、ママ安心した。もしよかったら彼女さん連れてきてもいいのよ」

「うるさいな。ママに関係ないだろ」

「ふふ、ごめんなさいね」

 にやにやしているお袋の視線を遮るように甘くないアイスカフェオレを飲む。グラスを置くと傍らに置いていたスマホに通知が届く。教務課から、一限は教授の体調不良により休講とのこと。これだから早起きは嫌いなんだ。いいことなんて一つもない。


 自室で二度寝をかまし、次に目を覚ました時には午後になっていた。お袋は買い物にでも出かけているらしく、家には誰もいない。家の外のわずかな音が聞こえるほど、家の中には沈黙が満ちていて気持ちがいい。

 こういう環境になるとついつい自分を慰めてしまう。健全な身体で、健全な生活をしていれば至極普通なことだと思うが、彼女がいて一人暮らしをしているやつらはこういう時すぐセックスするのだろうか。やはり一人暮らしをするべきか。一人暮らしさえできれば、あんな頭のおかしい税金を納める必要もなくなるだろう。剥き出しの下半身を綺麗にしながら、俺は朝の会話を思い出していた。

 だいたい童貞じゃないからって、すぐ少子化問題に貢献できるってものでもないだろう。非童貞はみんな避妊しないのか? 選挙に行ってる連中は、もっとまともな政治家に投票しろよ。しかし、政治の話はさておき、お袋にああいってしまった手前、免除の手続きは自分でするしかないだろう。スマホで必要な書類を確認してみると、申請書と学生証、マイナンバーカードで事足りるらしい。まだ窓口もやっている時間だし、幸い役所は自転車で行ける距離だ。面倒なことは早いうちに済ましてしまおう。

 マイナンバーカードを探すため戸棚を開けると、いくつかの封筒の下から無事見つけることができた。ここを触ったことがバレないように極力元通りに戻そうとしていると、一番上に載っていた書類が何の気なしに目に入り、息が止まりそうになった。まさにこれから俺が提出しようとしている童貞税の特別免除申請書だったからだ。羞恥と怒りがないまぜになって身体の芯が熱くなる。結局、お袋は俺が童貞だと決めつけていたのだ。身内にそういう目で見られることがどれだけ残酷なことか。ふざけやがって。

 激情を抑えながら慎重に特別免除申請書を元の位置に戻そうとすると、そこにあったもう一つの書類が視界に入り込んできた。童貞税納税に係る明細書? さっきスマホで調べていたときに見かけたが、これは童貞税を納めるときに年齢や経歴などから納税額を確定させるために役所へ提出する様式だったはず。免除申請が認められれば、当然納税しなくていいのだからこの書類の提出は不要のはずだ。なんで免除の申請書なんかと一緒に、納税のための書類があるのか。……まあ、お袋が間違えてもらってきたとかそういうことだろう。覚えている限りの現状復帰をほどこし、戸棚の扉を閉めた。


 平日にも関わらず役所は混んでいた。老人ばかりかと思っていたら予想以上に俺みたいな若者も多く、みんな暇なんだな、と当たり障りのない感想を抱く。

 どこの窓口に行けばいいのか分からないので、総合案内と書かれたコーナーに向かうと、耳の遠そうな先客がいた。

「だからー! どーてーぜーの相談はー! 二階の税務相談窓口ー! 分かりますー?」

 おじいさんはかくかくと頷き、総合案内の左手奥にある二階への階段に向かった。そんなでかい声で童貞なんて単語を発する大人を見たことがない。聞いたこちらが恥ずかしくなってしまう。案内をしていた職員が俺の存在に気づき、困ったような照れくさそうな顔で会釈をしてきたので、曖昧に笑いながら会釈を返す。俺の用事はそっちにはないよ、という素振りで階段とは反対側にあるエレベーターに向かい、ちょうど開いたドアをくぐり乗り込む。二階のボタンを押し、誰も入ってこないよう閉じるボタンを即座に連打したにも関わらず、閉まりかけたドアをすり抜けて長身の女が入ってきた。

 密閉された空間が途端にいい匂いで満たされていく。今この瞬間、大地震が起きて閉じ込められたら俺はこの子と過ごすことになるのか。税金は納めなくてもよくなりそうだな、なんて想像をしているうちに二階に到着した。早すぎだろう。背中まである長い髪を揺らしながら、春の花のような残り香を振りまいて女の人は出ていった。今、振り返ってくれたら恋が始まるかもしれない、などと待っているうちにドアが閉まりそうになったので慌てて飛び降りる。

 ストーカーと勘違いされても困るので、エレベーターを降りたところで少し待ち、彼女が進んで行った廊下を眺めていた。案内表示を見ると、どうやらあの子も税務課に用事があるようだ。

 自動ドアの向こうに吸い込まれていく柔らかそうな黒髪を見届けてから、俺は歩を進めた。少しだけ背中に汗をかいていた。


2

 税務相談窓口には五つの個別ブースが備えられていた。それぞれのブースの前にパイプ椅子が二列になって並んでいる。受付で渡された説明によると、私が用があるのは一番右側のブースらしい。

 まさにそのブースの簡易なドアが開いて、中から眼鏡をかけた小太りの中年男性がうつろな表情で出てきた。エレベーターにいた男の子も同じような形相で立っていたけど、もしかしたら私もこんな顔になっているのかもしれない。

 次に待っている人もいなかったので、私は一筋の髪を右耳にかけ直し、冷静に、ともう一度自分に言い聞かせてからブースのドアを開けた。

 最低限という言葉がよく似合うテーブルの向こうに、小柄なおじさんが座っていた。首に下げているIDカードの名前は鈴木薫。勝手な印象だけど、いかにも公務員っぽい。

 鈴木さんは私を見て一瞬びっくりしたような目をして、すぐにフラットな表情に戻った。窓口業務が長いとこんな顔になるのかな、と思う。

 広がらないようスカートを押さえながら、やっぱり必要最低限なパイプ椅子に腰掛けると、鈴木さんが地味な見た目の割りに少し高い声で口を開いた。

「このブースは童貞税に関する相談窓口なのですが、間違いありませんか? それともお友達の相談ですかね」

「間違いありません。あと相談したいのは、他の誰でもない、私自身のことです。すみません」

 前のめり気味に回答してしまったので反省する。

「それではお手数ですがマイナンバーカードもしくは身分を証明するものはお持ちですか?」

 私が差し出したマイナンバーカードを読み取り機に乗せると、手元の端末に私の個人情報が映し出されたのだろう。鈴木さんはまた驚いた表情をして、今度はそれを隠さないまま、私の顔を正面から見つめた。

「あなた、男性だったんですね」


 自分が女子とばかり遊んでいることに気がついたのは小学四年生の時だ。少女マンガをきゃあきゃあいいながらみんなで読むのが好きだった。同い年の、というより小学生の男子はみんな子どもにしか思えず、彼らと自分が同じ列に並ぶのは違和感しかなかった。

 男子は異質な私をからかい、そのうち排除しようとしてきたけど、仲のいい女子の友達がみんな理解し受け入れてくれたから、痛くもかゆくもなかった。私たちには少女マンガという教科書があり、大切なことは全部少女マンガが教えてくれた。私の心と身体に起きていることも少女マンガの中から学ぶことができていたから、男子たちの程度の低さがより際立って感じられたのだと思う。

 中学生になると、覚悟はしていたけど違和感はより強くなった。なぜ自分はセーラー服ではなく学生服を着ているのか。なぜ自分の声はこんなにも低くなってしまったのか。なぜ自分の身体には不要なものが着いているのか。毎日、気持ち悪さしか感じなかった。

 幸い母親が私の心のあり方に理解を示してくれたため、中学校は一年生の二学期から卒業までほとんど登校しないで済ませることができた。高校は通信制に通い、その間、女性として生きていくことの準備を進めた。味方となってくれた母には感謝しかない。

 大学にも無事合格し、私は恐る恐る世界へ足を再び踏み出した。今でも自信はないが、なんとか外見はおかしくない程度にはできているらしい。ようやく自分の人生が正しいルートに進み始めたのだと思えるようになった矢先、童貞税が導入された。


 決意を示すようにカバンから二通の診断書を出す。

「私は自分の性別が女性であることを自認していますし、私が性同一性障害であることは、このとおり複数の医師に診断いただいています」背筋を伸ばす。「それでも私は童貞税の対象ですか?」

 鈴木さんはいつの間にか窓口のベテランの顔に戻っていた。

「性別は戸籍上の性別で判断されます。あなたの場合、診断書もあるようですが、まだ戸籍上は男性であるため、童貞の場合には納税義務が発生します」

「法律上の定義に当てはめれば確かに私は童貞です。でもおかしくないですか? 私は女なんですよ? 女なのに童貞ってありえなくないですか?」

「申し訳ありません、法律で決まっていることなので、私たちとしてもどうしようもありません。ご理解くださいとしか」鈴木さんは完璧な角度で頭を下げる。

「ただ学生の間は申請していただければ免除されますので、こちらの書類に必要事項をご記入いただいて」

「そういうことじゃないです」 私は立ち上がっていた。

「こんな税金、おかしいと思わないんですか? 性的マイノリティのことを完全に無視してますよね? 差別よりも酷いですよ。なんでこんな狂ってる税金制度がまかり通るんですか? ……だって童貞って男じゃないですか。私、女なのに、童貞って。絶対嫌です。お金がもったいなくてゴネてる訳じゃないです。自分が男なんだって受け入れたみたいになるから嫌なんです」

 私がいい終えるのを見て、鈴木さんがポケットティッシュを差し出してきた。それで自分の頬が濡れていることに気がつく。泣くつもりなんてなかったのに。

「童貞税の導入にあたって反対活動はSNSなどでも広く展開されていました。法律の施行一か月前には導入反対の署名五十万人分が集まりました」

「そんなに集まったんですか」全然知らなかった。

「それでも政府は止まりませんでした。法律で決まったからの一点張りです。閣議決定から始まり、民自党政権のいつものやり方です。色んな層の人から反対の声は上がりましたが、極論、童貞税は国民の半分にしか関係ないですから、彼らにとっては法改正を押し通すなんて造作もなかったでしょう。この国を動かしている人の大半はおじさんです。彼らの大半は童貞ではありません。そして大半の童貞の人は強く発言できない傾向があります。だからつけ込まれた。童貞は弱者なんです。この国は弱者にはとても強くなれる国なんです」 鈴木さんは窓口公務員の仮面が剥がれたように饒舌になっていた。「閣議決定後に川畑総理がいった言葉を知っていますか?」

「知らないです」

「ヤるか払うか、どちらか選んでください、ですよ。一国の首相の言葉とはとても思えません」


 鈴木さんの熱量が私の熱量を飲み込んで膨れあがり、さっきまで敵にしか見えなかった人が安心して背中を任せられる相棒のように見え、なんともいえない沈黙が流れた後、鈴木さんは少し照れくさそうに頭をかいた。税務相談のブースに涼しい風が吹き込んだような気がした。

「選挙に行ってください。あなたたちのような若者の力が必要です。とかいいながら、私の息子も選挙に行ってないようですから偉そうに説教なんてできないですけどね」

「行きます。自分のために。未来の仲間のために」

 そう宣言すると、鈴木さんと同志になれたような心持ちがして、鈴木さんの真似をして私も頭をかいた。私の姿を見て、鈴木さんは鈴木さん本人として笑ってくれたような気がした。曖昧な表情で対応する窓口公務員はもうここにはいない。

「童貞税は年齢によって課税額が上がるので、実は家計的にちょっと苦しいんですよ、私も」

「え? 息子さんがいらっしゃるって今、仰ってませんでした?」

「性交しなくても子どもを授かることはできますよ。息子は、精子提供を受けて妻が体外受精で妊娠した子なんです」

「嘘だろ」

 突然、背中側から会話に割り込まれた。スライドドアが横にすべり、ブースに男の子が入ってくる。さっきのエレベーターの子?

「巧、勝手に開けるんじゃない! 今はこの窓口はこの人の相談を受けているのだから勝手に入ってくるんじゃない。すぐ出ていきなさい」

「精子提供ってどういうことだよ。俺は、パ、親父の子じゃないってことなのか?」

「あとできちんと説明するから今はとにかく出なさい。パパのいうことを聞きなさい」

 突然の闖入者に固まってしまったけど、この子、鈴木さんの息子? 鈴木さんも私も声が大きくなっていたから、ドアが開いていなくても部屋の外まで届いてしまっていたかもしれない。誰か他の人に聞かれたのかもと思いが至ると途端に顔が熱くなる。

「ふざけんな、今、話せよ。それとも血の繋がってない子どもなんてどうでもいいってことか」

 鈴木さんの息子さんの目が血走っている。世界に赤い幕が引かれる。

「お前も童貞かよ。そうか、あの書類はお前のためのものか。クソみてーな税金のせいで、なんで家族の秘密がばらされなきゃいけないんだよ。クソだ。童貞のせいでうちはもうめちゃくちゃだ!」


3

 息子のいうとおり、私は童貞です。ただ、息子の想像とはおそらく少し違います。息子の前に藍沢さんが窓口に来たのも何かの運命なのかもしれません。私の戸籍上の性別は、以前は女性でした。子どものころから自分は男であると信じて疑わず、成長するに従って女性らしい体つきになっていっても何かの間違いだと思っていました。大人になり、どこまで進んでも正しい道が始まらないことが分かった私は、お金を貯めて男になる手術を受けました。家庭裁判所で審判を受け、戸籍上でも男になり、ようやく本当の自分になることができたのです。

 ただ性器に関しては似せて作ることができても、私の身体で精子を作ることはできません。妻にだけは本当のことを打ち明け、不妊治療として精子提供をしてもらい、息子を授かることができました。こう見えて息子が小さいころは一緒にキャッチボールをするなど、普通の父子らしいこともしました。ごく一般的な家庭生活を与えてくれた妻にはどれだけ感謝しても足りません。

 私の場合、挿入を伴うセックスができませんでした。妻が理解してくれていたのでそのことに関して特に問題を感じることはなく、毎日を粛々と暮らしていたのですが、童貞税が導入されたことで大きな障害へと裏返ったのです。

 私の年齢ですと、童貞税の納入額は年間四〇万五千円です。私の給与月額とほとんど変わりません。家のローンと息子の学費を考えると給料一月分の金額が税金で取られてしまうのはとても厳しい。

 少子化対策のために導入された税制度である以上、女性との性行為を経験しないと童貞から脱することはできません。童貞調査に使われるAI検査機の童貞判別率は99.9パーセントを超えますから、意識的に騙すことなど到底不可能です。少子化対策というけれど、こんな年寄りがどれだけ頑張ったところで少子化解消に貢献できるわけがないのに、なぜこんな税制が成り立っているのでしょうか。

 せめて息子の分だけでも免除してもらおうと書類を用意しておいたのですが、まさか息子に見つけられるとは思いませんでした。


 童貞ってなんなんでしょうね。童貞ってそんなにダメなことですか?


4

 童貞って人生の半分以上、無駄にしてるでしょ。人間と動物の違いって知ってる? 人間だけが快楽のためにセックスするんだぜ。種の保存のためのセックスすらしてないんだからさ、童貞って人間以下なんじゃない?


5

 童貞税? 払う払う払っちゃう! 私ってば産まれたときからゲイなのー! 男が好きなんだから女なんかにチンコ突っ込まないでしょー! やだー、お下品! 私は一生童貞よ。ゲイのプライドにぶっかけて!


6

 童貞ってぶっちゃけ見た瞬間分かるよ。オドオドしてるし、なんか知ったかぶりするし。ま、すぐいってくれるからこっちは楽でいいんだけどね。でも、うちの店、本番禁止だからさ、ごめんね。


7

 ええ、童貞です。でも僕の遺伝子を受け継いだ子が何人もいますよ、たぶん。精子バンクに登録してるんです。一応、東大卒ですし、身長も一八五ありますからね。スペックは人気あるんですよ。童貞の遺伝子を有難がってるっていうのが、滑稽で気が利いてると思いませんか?


8

 汝、姦淫するなかれ。


9

 レイプした理由? そんなの総理に聞いてくれよ。総理がいったんだろ? ヤるか払うか、って。払えないんだからよ、ヤるしかねえよな。


10

 僕、明日が三十歳の誕生日なんです。どんな魔法が使えるようになるかなあ。


11

 今日も首相官邸前は童貞税の廃止を主張するデモ隊で溢れている。はめ殺しの窓から見える光景は、すでに川畑の日常に溶け込んでいた。参加している一部の中高生らしい若者たちは半分お祭り気分のようだ。ちらほら混ざっている女性たちはどういった主義主張で参加しているのだろうか。

 三回ノックの音が響き、ドアの向こう側から秘書官の声が聞こえる。

「総理、ご出発のお時間です」

 こちらから許可しない限り、ドアを勝手に開ける者はいない。ここは川畑にのみ開かれた密室なのだ。

 剥き出しの下半身を綺麗にしながら、川畑はこれから始まるサミットのためのシナリオメモをジャケットの内ポケットに入れた。移動中の車内で目を通せばよいだろう。

 昔から大一番の前には個室に閉じこもり自分を慰める癖が川畑にはあった。大事の前に余分な力を抜くのに効果があると思っているし、これまで全てこれで乗り越えてきた。

……いや、一度だけ失敗したことがあったか。学生時代、初めておつきあいした女性と泊まりの旅行に出かけたその夜、緊張をほぐそうとつい風呂場で自慰にふけってしまったところを彼女に見つかり、甚大な怒りを買ってしまった。その後どれだけ言葉を尽くそうとも彼女の憤怒は鎮まらず、その結果、若い川畑の怒張も治まらず、青い想いは果たせぬまま帰路についた。そういえばあれ以来、女性との大一番に辿り着くことはなかった。

 スーツのパンツにベルトを通しながら、もう一度窓の外に目をやる。デモ隊の動きは見えるものの声までは聞こえない。童貞税の是非については次の選挙で問うことになるだろう。国民には童貞の本質を見誤らぬよう願うばかりだ。童貞には無限の可能性がある。童貞税などその一端に過ぎない。

 

 童貞が世界を回すのだ。




                了

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