2匹目 接客マニュアル
僕は大学1年の春、一人暮らしをしている地域の商店街にある弁当屋でアルバイトを始めた。
主な仕事はレジ打ちで、開店前にはちょっとした仕込みを手伝うらしい。
店員は店長とその奥さんとパートのおばちゃん2人だけと人手不足だったこともあり、私は面接後その場で採用された。
面接の最後に「君、真面目か?約束は守れるか?」と確認されたのが少し気になったが、私が茶髪だったせいだと思い、「こんな見た目ですが、真面目です。高校時代は生徒会役員で、先生からも生徒からも信頼されていました」と答えると、そうか、と満足そうに頷いて、「明日から頼むよ!」と僕の肩を叩いた。
次の日、指定されていた時間に行くと、着替えなどはせずにとりあえずこっちへ、と事務所に通された。
「今日はまず、これに目を通してくれ。仕込みや接客はそれが終わった後だ」
机の上には一冊の接客マニュアル。
個人商店の柔軟な経営にしては、結構分厚いような。
「ちょっと項目は多いけど、内容は少ないから大丈夫だよ。答え方のルール?みたいのを掴んでくれたらいいから」
そう言って店長は事務所を後にした。
手作りで、紙のファイルに綴じられている。
それでも厚みは5ミリ程あった。
早速めくってみる。
注文の取り方、注文商品のお渡し、返品交換の対応……
至って普通のマニュアルだ。
わかりやすくまとめられている。
クレームの対応…商品に対してのクレーム、接客に対してのクレーム…
受け答えのサンプルを、頭の中で接客中の自分をイメージして読み上げていく。
よくある質問…店名の由来について
ここからは、店に対しての質問、店についての基礎知識といったところか。
営業時間について、期間限定メニューについて……
店前に立っている女性について
なんだろう、これは。
その後のページをめくってみると、最終ページまで「店前に立っている女性について」記載されていた。それだけでも10ページほどある。
僕は不思議に思って、とりあえずざっと目を通した。
店前に立っている女性は誰ですか?
存じ上げません。
店前に立っている女性はいつからいるんですか?
存じ上げません。
店前に立っている女性はお店の関係者ですか?
存じ上げません。
店前に立っている女性は何を買っているんですか?
存じ上げません。
店前に立っている女性がいない時間帯はいつですか?
存じ上げません。
こんな調子に店前に立っている女性についての質問が最後のページまで続いていた。
僕はとりあえず、店長に言われた通りに把握できるよう、一つづつ読み込んでいった。
「お疲れさん、どうだ、覚えられそうか?」
2時間が経っただろうか。
店長が戻ってきた。
「まあ、大体は…完璧に同じにはまだ答えられなさそうですが」
「そんなの大体で大丈夫だよ、大事なところさえ間違えなければな」
「あ、質問があるんですが」
「なんだ?」
「店前の女性についての項目、あれってなんですか?回答は全部『存じ上げません』でしたけど」
「存じ上げません」
「え?」
「存じ上げません」
店長の眼差しが私に突き刺さる。
目力の中に、わかってくれという意思を感じ取った。
「あの…はい、わかりました」
「いいか、マニュアルの内容は大体で大丈夫だ。だけど大事なところだけは、そこだけは一言一句間違えるなよ。それがマニュアルに書いてあるということを他言するのもだめだ。これだけは守ってくれよ、いいな。約束だ。」
出会った時からずっとにこやかだった店長の表情がぎこちなかった。
僕は、納得できない気持ちのいくつかを押しつぶしながら、はっきりと「はい」と答えた。
「じゃ、ちょっと早いけど飯にするか。
賄いで好きな弁当のおかず食べれるから、何個か選んでいいぞ」
またやわらかい店長に戻って、僕は調理場に向かった。
アルバイトを始めて2週間が経った。
弁当屋なので飯時のピークは忙しいが、それ以外の時間は比較的空いているので、厨房で作業をするおばちゃんと話したりして、アルバイトって意外と楽しいもんだな、と思い始めていた。
マニュアルにあった、店前に立っている女性を何度か見た。
真っ黒なロングヘアで、真っ白なワンピースを着ている。今どきの流行りのベージュとか、くすんだ白ではなくて、真っ白なワンピース。
店に背を向けて表向きに立っている。
マニュアルにはあんなに書いてあったから身構えていたけど、そうそう毎日立っているわけではないし、朝から晩までいるわけでもない。
マニュアルで覚えた文言(といっても一言だが)を披露する機会もなかった。
その日は、パートのおばちゃんのシフト時間が終わり、店には僕1人になった。
こう言う時は、新しい注文が入ったらボタンを押して事務所にいる店長を呼ぶ仕組みになっている。
その日は天気が悪かったので、人通りはあまりなかった。
店スレスレの目の前を歩いているから入るのかな、と思いきや、屋根があるからそうしてるだけの人も何人かいて、あまりの暇さに落胆していた。
ふと店の外を見ると、あの女性がいた。
後ろ姿で、傘を差しているのかどうかは、店の前の装飾や看板でよくわからなかった。
しばらくすると、60代くらいのゴマ塩髭のおじさんが来店した。
小さいオードブルと味噌汁を2つ注文した。
僕は店長を呼ぶボタンを押した。
会計を済ませて、おじさんには店内のベンチで待ってもらうよう伝えた。
「あのよ、兄ちゃん」
「はい?」
「あんた、新入りか?初めてみるな」
「はい、今月からです」
急に話を振られてオドオドしてしまった。
こう言う時のマニュアルはなかったから、好きに話していいのかな、失礼がないように。
「ならよ、知ってたら教えて欲しいんだけどよ、店の前に立ってる女の人、あの人なんなんだ?弁当待ってる訳でもないだろ?俺この近くに住んでるんだけど、気味が悪くてよ。店の他の人に聞いても知らねえって…存じ上げませんって、ずっと気になっててよ」
「えっと、それは……存じ上げません」
「あんたもそれかい!?なんだよ、新入りもってことはそう言えって言われてるんだな?店長呼んでくれよ、俺は気味が悪くてよ!」
おじさんがイライラしているのは容易に感じ取れた。
初めてのクレームになってしまうかもしれない。
まずい。
後ろを振り返っても、店長はまだ厨房には来ていないようだ。
私はもう一度ボタンを押した。
「すみません、店長は先ほどから呼んでいるんですが」
「そう言えって言われてるのか?ほんとは知ってるんだろ?そうなんだろう?兄ちゃんよ」
「いえ、そんなことは…」
「あの女がよくこの店の前にいることは知ってるんだろ?教えてくれよ…俺はずっと、店長とかおばちゃんとかに聞いててよ、何回聞いても教えてくれないんだよ。あの女の人が何しにあそこに立ってるのか知りたいだけなんだよ…頼むよ…」
「存じ上げません」
「なんだよ……そのぞんじあげませんって。知りませんとかわかりませんじゃダメなのか?店長もおばちゃんもあんたもぞんじあげませんぞんじあげません…存じ上げませんしか言っちゃいけないのか?」
「いや…その…」
「どうなんだよ!」
どん、と、レシートを握った手で薄いベンチを叩いたのと、ごま塩の隙間から唾を飛ばし話すおじさんの迫力に押されてしまった。
「そう、です…」
ガチャ
その時、店長が奥の厨房に現れた。
オードブルの容器を持っていた。
「お待たせしてすみませんね、もうしばらくお待ちください」
店長はごま塩おじさんに向かって言った。
急いでいたからか、額に汗をかいて、少し顔色が悪いように感じた。
そのおじさんのオードブルが完成した頃、僕のシフト時間が終わった。
店長は夕飯に、とエビフライ弁当を渡してくれた。
「オードブルのお客さんになんかきかれたか?」
「いえ、特に…」
「…そうか、お疲れさん」
店長は私の肩を叩いた。
その次の日は休みで、二日後に出勤した時。
「わかってたと思うけど、悪いな」
事務所に入ると、店長は給与と書かれた茶封筒を僕に手渡した。
僕はなんのことかわからなかった。
給料は振込制だときいていたし、給料日はまだ先だ。
僕がぽかんとした顔をしていると、店長は困ったような作り笑いで言った。
「オードブルのおじさんに、話しちゃったんだろ。あのことについて、マニュアルがあるって」
あ…
僕は悔しい気持ちで、下唇を噛んだ。
僕が嘘つきみたいだ、嘘つきだと思われた。
「いや、そんな悲しい顔をするな。大丈夫だから。あれはおじさんの圧力のせいだろ、俺もすぐに出てってやればよかった。申し訳ない。けど、これがルールだから、ごめんな。給料、ちょっと色付けてやったから、また新しいとこ探してくれ。今までありがとう」
そう言って、店長は僕の肩を叩いて事務室を後にした。
僕は、借りていた制服畳んで、近くに靴をおいて、事務室を出た。
バイトの後は、いつも深夜までやっているスーパーに寄っていた。半額のスイーツとか、ジュースとか、弁当屋の廃棄ではもらえない激安食品を手に入れるためだ。
店の裏口から出てスーパー方面に行くには、弁当屋の前は通らないが、今日は珍しく店の前を通る。
僕が働けなくなった店内を、道路を挟んで遠くから見つめる。
まだ混んでいない時間だから、店の中の人がよく見える。
ふと、白いワンピースの女性が、こちらを向いて立っている。
前髪が長くて顔はよくわからないが、真っ赤な口紅が浮いて見えた。三日月型に曲がって笑っているのがわかる。
あの人、前から見るの初めてだな。
前から見て、初めてごま塩おじさんの気持ちがわかった。確かに、この人が頻繁にいたら不気味かも。
次の瞬間、僕はぞぞぞと身震いをした。
彼女は、店の中にいたのだ。
店前に立っている女の人ではなくなっていた。
僕はまずいものを見たと、慌てて家に帰った。
数ヶ月間、僕はその弁当屋の前の道を通らずに過ごした。
正直、駅との往復がとても遠回りだったが、怖かったので仕方ない。
久しぶりにこの道を通ることになったのは、僕の家で友人と宅飲みしようという話が出たからだ。
近所の弁当屋でつまみを買おうと、誰かが言い出した。
僕は嫌だったが、3人で買い出しに行くという話だったので、しぶしぶ了承した。
僕は店をクビになった身だから、店には入らないで前で待ってるぞ、と釘を打った。
店の目の前まで来て、閉店していることに気づいた。
閉店、というか、廃業していた。
シャッターに貼ってあったのだろう挨拶文の紙は随分前に破れ剥がれたようで、ガムテームの端に数ミリ確認できる程度だ。
「えー、まじかよ、結局スーパーのお惣菜かよー」
1人が言った時、自転車でごま塩髭のおじさんが向かってきた。
あの時のおじさんだ。
「あの」と声をかけると、キュッとブレーキを鳴らして僕を見た。
「このお店、いつ潰れちゃったんですか?」
おじさんは正面を向き直して、つぶやいた。
「存じ上げません」
キーコキーコという錆びた音が、寂れた商店街に響き渡った。
【奇妙な話の短編集】 蟹ノ池 緑ノ池 @midorino-ike
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