Ⅽって何ですか

野々村鴉蚣

夏のある日

 その日は、かなりジメジメとした夏の日だった。私は、インターネットのレビュー動画に触発されて、近所に新しく出来たという喫茶店へ向かうことにした。もちろん、一人で喫茶店に行くというのは少々気恥ずかしいこともあり、当時付き合っていた恋人と二人で行くことに。

 その道は、普段からよく使っていたこともあり、別にマップ等を活用する必要もないように思えた。恋人もその気持ちは同様で、私の手を握って「二人で散歩するの久しぶりだね」なんて笑っている。そんな彼女の表情に癒されながら、私は汗を拭った。

 時刻は昼の三時を少し過ぎた頃。

 ここ数日は、天気予報士も手を挙げるほどの猛暑日が続いている。記録的な暑さだと、液晶越しに専門家が疲弊した表情を浮かべていた姿が印象的だった。実際、昼間だけでなく夜も蒸し暑く、クーラーを切って寝ることすらできない。一度電気代が気になって、タイマーをかけて布団に入ってはみたものの、あまりの暑さに深夜目が覚めてしまう始末だ。

 近所でも三人ほど熱中症で救急搬送されたらしい。

 遠く離れた地元に住む両親からは、わざわざ電話で「クーラーをつけて寝なさいよ」と釘を刺されるほどだ。

 私だって、別に熱中症で倒れたいわけじゃない。点滴を打って、大事を見て入院なんてことになれば、数か月分の電気代より高くつくだろう。それならいっそ、数か月間の光熱費には目を瞑った方がいいに決まっている。

 そんな灼熱地獄が続いていたこともあり、私たちは太陽が傾くまで家から出ないことにしていた。

 彼女は今大学生で、ちょうど夏休みということもあり私の住むアパートへ遊びに来ていたところだ。

 朝起きて、冷蔵庫に入っている冷ご飯を雑炊にして掻き込んでから、クーラーの利いた部屋の中でゴロゴロと時間を潰す。恋人と言えど、日がな一日熱々というわけではないのだ。むしろ、こんなに暑い中肌をくっつけることすら億劫にすら感じられる。

 そんな中、適当に眺めていた動画配信アプリのグルメ情報投稿アカウントが近所の喫茶店を載せていたというわけだ。

 あまりの暑さで、私たちはここ数日部屋に籠りきりとなっていた。だからだろうか、知らなかったのだ。歩いてすぐの近所に美味しい喫茶店が誕生していたということを。それどころか、今や大人気も大人気。平日の昼間は大混雑らしい。そこで出しているメロンたっぷりかき氷とやらが非常に美味なのだそうで、私と彼女の二人は、もうそれを食べたくて仕方が無くなっていた。

 そういうわけで、太陽が傾き始め、直射日光がそれほど怖くは無くなった時間を見計らって私たちは部屋を出た。

 玄関を開けた途端、物凄い熱風が顔面を焼き、鼻の奥が焦げてしまった錯覚に見舞われる。

 呼吸するたび肺に侵入してくる空気は威圧感があり、噎せ返るほどの湿度だった。

 それでも、私たちにとっては些細な問題に過ぎない。今私たちを突き動かしているのは、甘くておいしくて冷たいかき氷だ。

 私は彼女の手をぎゅっと握りながら、次の角を右に曲がった。彼女もそれに従いついてくる。この辺の道はしっかり記憶している。先ほど見た動画だけでおおよその場所は分かっているので、あとはひたすら一目散に目的地へ向かうだけだった。

 目印となるのはコンビニエンスストアだ。動画に映っていた喫茶店の向かいには、大きな駐車場が見えた。あれは私が時折仕事へ向かう前立ち寄るコンビニだ。私はしばしばそこで朝食を調達するのが日課だった。ここ最近はブリトーにハマっており、そればかり食べている。

 いや、今日の目的は別にコンビニエンスストアの朝食ではない。そう、かき氷だ。新しく出来たという喫茶店のかき氷。それを目当てに、コンビニへ向かっているのだ。

 私が少し歩を早めると、彼女もそれに従って歩みが早くなる。猛暑の中、わざわざ外を出歩くような人も居らず、灼熱のアスファルトに立つのは私と彼女の二人だけだった。

 歩きながらふと気づく。そういえば毎年この季節になるとセミがジリジリと泣きわめき、そのうるささに笑いすら込み上げてきたものだ。ところが今年は全くセミが鳴かない。その異様な静寂が、むしろ薄気味悪いとすら感じた。

 夏のこんなに暑い時期に、誰が飲んだのだろうか。自販機の足元にお汁粉の缶がポイ捨てされていた。私はそれを見つめながら次の角を曲がる。そうすれば目の前に現れるのは大きな駐車場のはずだ。そう、いつも通っているコンビニエンスストア。

 この近くは頻繁にトラックが走っており、その運転手が休憩がてら立ち寄るのだ。

 その日も数台のトラックと、無数の乗用車が駐車場に止まっていた。いや、いつもより少し多いくらいだ。もしかしたらここの駐車場を借りて喫茶店に足を運んでいる不届き者も紛れているんじゃなかろうか。そうとしか思えない混雑ぶりに、正直不安になった。予約の電話を入れておいた方が良かっただろうか。三十分程度であれば待つことくらい我慢できるだろうと踏んで家を飛び出したが、この暑さだ。太陽に照らされながら外で待たされると思えば、かき氷どころじゃない。


「何か飲み物でも買ってく?」


 私は隣で浮かれた表情のままスキップする彼女にそう問いかけた。


「え? なんで? 今から喫茶店行くんだよね?」


 彼女の反応はごもっともだ。これから喫茶店でかき氷を食べようというのに、なぜわざわざコンビニで飲み物を買うのか。それならばかき氷に合わせてアイスコーヒーの一つや二つ、店内で注文してしまえばいい話ではないか。


「いや、なんとなく。気にしないで」


 私はそう返すと、少々恨めしい思いでコンビニを見つめた。きっとあの中はクーラーも効いていて涼しいはずだ。夏の暑さを回避するためだけに入店したいとすら思わされる。

 額からにじみ出た汗を手の甲で拭いつつ、コンビニからそっと目を逸らそうとした。


 その時、私はコンビニ店内で清掃する男と目が合ったような気がした。

 彼はコンビニスタッフ共通の制服に身を包み、窓ガラスを掃除している。

 窓ガラスに、泡で大きくⅭの文字を書き入れて、それからじっとこちらを見つめているのだ。

 どうして私をそこまで見つめてくるのか、私ではなく彼女に問題があるのか、それとも私たちの身なりがおかしいのだろうか。

 男の目線がどうしても気になって、私は自分の体や恋人の服装に目線を移す。


「どうしたの? さっきからキョロキョロして」


「あぁ、いや。別に何も」


 コンビニ店員にガンつけられた、なんて話したところで、きっと考え過ぎだと笑われてしまうだろう。

 だが、どうしても気になってしまったのだ。

 なんだろう、この拭いきれない不安は。


「で? 喫茶店ってどのあたりにあるの?」


 彼女の問いかけに、私はふと我に返った。

 そうだった、今はコンビニ店員なんかどうでもいいのだ。私たちには、新しく出来た喫茶店で一番人気のかき氷を食べるという崇高な使命があるのだ。それをほんの小さな違和感一つで忘れてしまうだなんて。


「この道路を渡ったところにあるはずなんだけど……」


 私はそう言うと横断歩道の先を見た。

 スマートフォンで見た映像の風景と、今私たちが立つ場所の風景は見事に一致している。間違いなく道路の向かい側に喫茶店があるはずなのだが。


「んー、どれだろう」


 大きなのぼりが立っているわけでも、目立つ看板を掲げているわけでもないらしい。アスファルトからゆらゆらと立ち上る蜃気楼が邪魔で、よく分からなかった。


「あのへんだと思うんだけど」


 ラーメン屋や焼き鳥屋が並ぶ辺りを指して、私は彼女を振り返った。


「とりあえず行ってみたらすぐ分かると思うよ」


 私の言葉に、彼女はそうだねと頷いた。

 そんな彼女を見ていた私は、ようやく違和感の正体に気づく。


「ちょ、ちょっと待って」


 私は彼女にそう伝えると、慌てて駆け出した。


「え? 何? 何かあったの?」


 私の突然見せた行動に驚きを隠せない様子で彼女はついてくる。

 だが、私も正直半信半疑だった。ただの勘違いであってほしいとすら思っていた。

 とにかくこの目で真相を確かめなくてはならない。その気持ちでいっぱいだったのだ。

 そして私は、一台の乗用車に辿り着く。


「この車、何かあるの?」


 私は小さく「分からない」とだけ伝えると、そのまま運転席に回った。

 よく見かけるシルバーの乗用車、持ち主の趣味が分かりやすい、有名なキャラクターのステッカーが貼られている。丸を三つ組み合わせて作れる有名なネズミのキャラクターや、黄色いクマのステッカー。その他にもⅭの形をしたステッカーやアメコミのキャラなんかも窓ガラスに貼られている。

 車はエンジンがかけっぱなしで、排ガスの匂いと振動音が周囲に漂っている。

 そう、この駐車場に停まっている車は、どれもエンジンが切られているのだ。当然だろう。コンビニ駐車場にはいたるところに「アイドリングはおやめください」だの「エンジンをお切りください」だの書かれているのだから。

 しかし、この車だけはエンジンがつけっぱなしだ。にもかかわらず、中で誰かが動いているような気配がない。

 私が抱いた違和感の正体はこれだった。


「あの、大丈夫ですか?」


 私は車の中に向けて声をかけた。


「どうしたの?」


 私についてきた恋人が不安気な表情を浮かべる。


「いや、分からないんだけど、なんかこの車だけ様子がおかしくて」


 私自身、ただエンジンがつけっぱなしの車というだけでどうしてここまで心がざわつくのか分かっていない。上手いこと説明はできないのだが、どうしても気になって仕方ないのだ。

 側面の窓ガラスには、黒いシートが貼られており中の様子を確認することは出来ない。ただ、私がどんなに声をかけても車の中から誰かが出てくることは無かったし反応も返っては来なかった。

 不安な気持ちがどんどんと強くなり、私はフロントガラスの方に回り込む。


「……ッ!」


 そこには、ハンドルを握ったままの姿勢で男がぐったりとしている姿があった。


「大丈夫ですか! 声聞こえていますか!」


 私は運転席側に再び回り込むと、ドンドンとドアを叩いた。しかしやっぱり返答がない。気を失っているのだろうか。ふと脳裏に動画配信サイトで見た厭な実験の映像が浮かび上がる。

 炎天下の中車を放置し、社内に生肉を置いておくというものだ。

 丸一日放置された肉には火が通り、生焼けのステーキみたいになっていた。

 異常気象の真夏日、外に置かれた車は天然のオーブンとなる。きっとこの人は仮眠をとるつもりだったのだろう。そして気を失ったのだ。

 私は運転席のドアノブを強く引いた。


 ――バタン。


 鍵はかかっていなかった。難なく開いたドアの先には、男がシートベルトをしたままぐったりとしている。車内はクーラーが効いていたようで、冷たい風が私の顔を撫でた。寝ていただけだろうか、と一瞬安堵したが、私の杞憂に終わってはくれなかった。


「ねぇ、その人……」


 彼女は震えながら私の裾をギュッと握る。

 どうしたのだろうと、再び男に目を移した私は事の重大さに気づき息をのんだ。

 男の腹部に、血が滲んでいたのだ。赤黒く粘々とした血、それはクーラーに冷やされ半固形化していていた。


「きゅ、救急車、救急車呼んで!」


 私は慌てて彼女にそう言うと、男の体を揺さぶってみる。


「もしもし、大丈夫ですか? 声聞こえていますか? 意識ありますか?」


 もちろん返事はない。それどころか、彼の体に触れてみて気が付いた。息をしていないのだ。体はまるで氷みたいに冷えており、手首に指を押し付けてみても一切脈を感じない。素人目に見てもすぐに分かった。これが心肺停止というやつだ。

 男のひざ元には、血に濡れたメモ帳が置かれてある。

 車内を見渡してみるも、特に争った形跡は見られなかった。ただ、車の天井に小さな穴が開いているらしいことは分かった。そこからまっすぐ一直線に、まるで何かが貫通したかのように男のうなじと腹部にも小さな穴が開いていた。そこから血が滲み出ていたのだろう。


「はい、そこの駐車場です。お願いします。はい、失礼します」


 背後で彼女が救急車を無事に呼び終えた声が聞こえた。しかし、きっともう間に合わないだろう。人の体とは思えないほど冷え切った彼の腕から手を離し、私はそっとメモ帳を手にした。彼の血で汚れてはいるが、問題なく読むことはできる。

 適当にメモ帳を開いてみて、私は自分の目を疑った。


 ――ⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭⅭ


 同じ文字が、羅列されている。


 訳が分からなかった。


 それからしばらくして救急車は到着し、私と彼女は二人で事の顛末を救急隊に話した。救急隊員は私たちの話を聞き終えると、発見者としてより詳しく聞きたいとのことで病院までついてくるように言われた。

 私と彼女は、もうメロンの乗ったかき氷のことなど考えている余裕すらなかった。ただ隊員の指示に従い、血に濡れた男と共に救急車へ乗り込んだ。

 隊員も、数度蘇生法を試したりよくわからない装置を取り付けたりしていたが、その表情は諦めに近かった。きっと助からないのだろう。

 それからほどなくして病院に辿り着き、私と彼女は名前や住所、年齢などの基本情報から、男性を発見するに至るまでの経緯を説明した。男性との面識は一切なく、家族や知人の連絡先も知らないということですぐに解放されることとなった。最後に病院を出る際、医者から男性の死亡を告げられた。私たちが通報するよりも数時間前からすでに死んでいたとのことだった。話では、大きな雹が降ってきて男性を車ごと貫通したのだろうということだった。

 こんな暑い真夏日に? とは思ったが、私はそれ以上聞けなかった。

 それから私と彼女はバスに乗り、帰路につく。

 今日はいっそ、部屋の中でゴロゴロしていた方が良かっただろうか。

 そんなことを想いながら、すっかり太陽が沈んで薄暗くなった景色を眺めていた。

 初めて人の死を目の当たりにしたショックからか、一切食欲が湧かなかった。それどころか、彼女とどんな話をしたらいいのかも検討がつかない。ただ、私と彼女は無言のままバスを降り、見慣れた景色に無関心のまま歩いた。

 しばらく歩けば、今日男性の死体を発見したコンビニの駐車場に差し掛かる。そこまで行って、喫茶店を探しそびれたことに気づいたが、もう遅かった。


 辺りはもうすっかり薄暗くなっており、コンビニの窓から差す明かりが駐車場を照らしている。

 昼間に比べて、車の数も減ったように感じた。トラックの運搬作業はこれからが本番なのだろう、乗用車の数が減るのに反比例して、トラックの駐車台数は目に見えて増えていた。

 また、コンビニの自動ドア前には無数の自転車が止められており、塾帰りらしき私服の学生たちがアイスクリームを手にたむろしていた。私も五年ほど前は彼ら同様にコンビニ前で暇をつぶしたものだ。窓ガラスの明かりに引き寄せられた灰色の蛾を眺めるのが好きだった。

 そんな彼らの様子を眺めつつ、そっと私は駐車場の一角に目を向けた。

 今日死んだあの男性が車を停めていた場所だ。

 昼間のうちに警察がいろいろと調べたのだろう。白いチョークの後がコンクリートの地面に残されていた。

 大きな文字で、Ⅽと。

 それがどういう意味なのか、私には全く分からない。ただ、なぜか今日はその文字をよく見かけるような気がした。


「何か、飲み物買ってく?」


 私が隣を歩く恋人にそう尋ねると、彼女は無言で頷いた。

 やはりショックだったのだろう。病院を出てからというもの、彼女は一言も口をきかなかった。何も話したくないと言った雰囲気で、ただ私の服の端っこを指でつまんだままついてくるだけだ。

 いや、彼女の反応は正しい。きっと私だって、一人きりで今回の件に巻き込まれていたら同じくらい傷ついて無言のまま一日を過ごしただろう。あれだけたくさんの血を見たのだ。気分のいいものではない。彼女がそばに居てくれたからこそ、私は今こうして平静を保つことができる。それは、安心感というよりも彼女を守らなきゃという使命感に近しい感覚だろうか。


「何、飲みたい?」


 彼女は小さく首を横に振った。


「何でもいいの?」


 私がそう尋ねると、彼女はギュッと私のシャツにしがみついたまま頷く。そんな彼女の頭をポンポンと優しく撫でて、私は店内に足を踏み入れた。

 コンビニエンスストア店内は、まるで今日起きた出来事が夢幻だったかと錯覚させるくらい陽気な音楽に包まれていた。外の熱気を忘れてしまうほどの冷房に、思わず身震いしてしまう。少し寒すぎやしないだろうか。寒暖差に風邪をひいてしまいそうだ。

 特に何か欲しいものがあるわけではないので、籠は持たずに店内をうろつくことにした。まず目指すのはドリンクコーナーだ。炭酸飲料のペットボトルが陳列された棚を眺めつつ、私は彼女の頭を優しく撫でた。

 店内には刺青を入れたガタイのいい男が数人、雑誌を読んでいた。きっと彼らはこれからまたトラックを操縦し夜の街を駆け回るのだろう。

 高校生と思しき学生の群れは、冷凍コーナーでアイスクリームやかき氷を探している様子だった。きっと店頭でアイスを頬張っていた子達の仲間だろうか。店員は今三人ほどで、二人がレジ打ち、一人が品出しに追われているようだった。ちょうど一番忙しい時間帯だったのだろう。さっさと飲み物だけ買って、帰ることにしよう。

 私は飲み物コーナーの扉を開いて、適当にペットボトル飲料水を二つ手にした。彼女は炭酸飲料が苦手なので、それに合わせて炭酸っぽいものは避けつつ。


「んじゃ、レジ行ってくるからお外で待てる?」


 私がそう問うと、彼女は首を必死に横へ振った。


「んじゃ一緒にレジ行こっか」


 私が微笑むと、彼女はギュッと私の裾にすがる。

 その姿がかわいらしく感じ、ちょっとだけ癒された気になった。


 それからレジに並んだ私たちは、物の数分で会計を終わらせ店内を後にする。優秀なバイトを雇っているらしい。あれだけたくさんの客にごった返して居たはずなのに、スムーズに全てをさばいていた。もちろん、私たちが自動ドアを出てからも背後ではレジを打ち続ける音がする。

 正直、ここのバイトだけはやりたくないなぁと思った。


 私たちが外に出ると、たむろしていた学生たちが一斉にこちらを見た。あまりにも綺麗に揃っていた彼らの行動に一瞬ぎょっとしたが、きっと店内にいる仲間を待っているのだろうと思えばすぐに気にならなくなった。が、高校生は違ったらしい。

 首筋にキスマークのような痣を持つ学生が、ゆっくりと私に近づいて来たのだ。

 私の表情をまじまじと見つめながら、彼は歩み寄ってくる。

 よく見れば、彼の首筋にあるキスマークと思しき痣はⅭの形をしていた。


「お前が死ねばよかったのに」


 男子高校生は、私の目を見てハッキリとそう言った。


「……え?」


 あまりに唐突な発言で、私は何も言い返すことができなかった。

 どうして突然そんなことを言われなきゃならないのか。全く理解ができなかった。


「いきなりなんてことを言うんだ!」


 と、慌てて口にしようとした。だがもう遅かった。

 高校生の群れは、すでに自転車へ跨り笑いながら夜の景色に溶け込んでしまっていた。

 薄暗い夜道を、車の行きかう音に混ざって下品な笑い声が響いていた。


「大丈夫? 怖かったよね」


 私は彼らを追おうとはせず、傍で震える彼女の肩を抱いた。

 たとえ若気の至りでやったいたずらだとしても、今の私たちにはかなり応えた。


「早く帰ろ?」


 私はペットボトルのキャップを開けてジュースを彼女に渡しながらそう言った。彼女も私の言葉を望んでいたらしい。コクコクと小刻みに頷くと、歩き始める。

 今日一日は本当に厭な一日だった。

 もっと素敵な夏休みにするつもりだったのに。


「ねぇ、Ⅽってなんだと思う?」


 私はふと、彼女にそう尋ねた。

 コンビニ店員が窓ガラスに泡で書いていた文字からすべては始まった気がする。今日一日で、たくさんのⅭを見てきた。それがどうも気にかかる。


「……どう、して?」


「え?」


 ふと、彼女が立ち止まったまま私に尋ねた。


「どう……して?」


 彼女は私から距離を取るように、半歩下がる。


「どうして……?」


「どうしてって、ちょっと気になって」


 別に特別な意味はない。大した理由もない。本当に些細な疑問だった。

 でも、彼女は怯えた表情のまま私をじっと見つめている。


「どうして、どうして、どうして……?」


「えっと……」


 私はなんて返したらいいのか分からなかった。ただ、彼女の異様すぎる反応に寒気がした。


「Ⅽって、何?」


 彼女は何か知っているのだろうか。

 そうとしか思えない反応だった。

 私が改めてⅭについて尋ねた途端、彼女は血相を変えて叫んだ。


「なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで」


 手に持っていたペットボトルをそのまま地面に落とし、中のジュースがアスファルトの零れだす。

 それでも彼女は気にも止めずに叫び続けていた。


「なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで」


「なんでって、ちょっと気になっただけで……」


 私がそう伝えても、彼女は聞く耳を持ってはくれなかった。

 ただひたすらになんでを繰り返し、そのまま私から逃げるように走り去ってしまった。


「ちょ、ちょっと待ってよ!」


 夜の薄暗い道を、彼女は全力で走り去っていく。家とは逆の方向に。

 私は慌てた。彼女にいったい何があったのか、とんと見当がつかない。しかし、ただ彼女を置き去りにするなんて出来っこなかった。

 私は急いで彼女の背中を追い走り出した。


「ねぇ、待って。待ってよ!」


 そう何度も叫ぶ。でも彼女は両手で耳を塞ぎながら走り続けてしまった。

 いつもはもっとどんくさくて、運動も大して得意じゃなくて、足なんか私の方が早いはずだのに。

 今日に限って彼女の足はあまりにも速かった。

 全く追いつけそうにない。


 気が付くと、私は薄暗い路地に一人ぼっちとなっていた。

 月も無ければ星もない。どんよりとした灰色の雲が、漆黒の空を覆うように漂っている。ジメジメとした暑い風が吹き、足元から熱風が巻き起こる。

 もう、彼女の声は聞こえない。どこへ行ってしまったのかも分からない。

 ただ、私は一人夜道に取り残され、家に帰ろうにも帰れずにふらつく事しかできなかった。

 心臓が厭な音を立てて弾み、呼吸がなかなか落ち着かない。彼女の身を案じて、モヤモヤとした気分に押しつぶされてしまいそうだった。


 ふと、彼女を探し歩いているとボロボロのアパートが目に留まった。

 この辺は住宅街だ。一軒家が立ち並ぶ少し高級住宅街。その中で異彩を放つ、ボロボロのアパート。

 いや、ボロボロだから気になったのではない。それ以上に気になったのは、各部屋の窓ガラスだ。

 そのアパートは、全部屋の窓ガラスに大きくⅭの文字が張り出されていた。わざわざ外に見せるためとしか思えないⅭの羅列。その異様な光景に、私は厭な予感がした。


 恐る恐る、私はアパートの敷地に足を踏み入れた。

 赤錆の付着した門が、ギィィと鈍い金属音を放つ。その音に反応して、どこかの家で犬が三度鳴いた。

 アパートの部屋にはカーテンがされており、全部屋明かりが灯っている。その光を浴びて、Ⅽの影がより一層濃く見えた。

 私は部屋をちらりと一瞥してから、駐輪場の辺りに目を向ける。簡素な作りのそれは、鉄パイプにトタン屋根を取り付けただけ。自転車が三台だけ停まっているが、そのどれもチェーンなどは繋がれていない様子だった。

 そして、そんな自転車に囲まれる形で、彼女がいた。

 私の恋人は、ボロボロの駐輪場に蹲ったまま、何もせずに虚空を眺めている。


「何してるんだよ」


 私が声をかけても、彼女は全く反応しない。

 返事すらできなくなってしまった恋人の姿に、正直心が痛んだ。


「ほら、帰ろう?」


 私はできる限り優しい声で彼女にそう囁くと、そっと手を取って引いてみた。

 彼女は抵抗することなくゆっくり立ち上がり、虚空を眺めたまま私についてくる。

 少しだけ安心した。

 きっと、色々なことが重なってストレスになっていたのだろう。そう思えばむしろ可哀想なのかもしれない。今日はできるだけ優しくしてあげよう。

 そう思ったのもつかの間だった。


 ――キコキコキコキィィ。


 彼女は、駐輪場に停めてあった自転車を押して私についてきたのだ。


「え? ちょ」


 私は何と言えばいいのか分からなかった。自転車はかなり古いものだ。ハンドルの辺りにまで錆が広がっており、タイヤが回るたびに音が鳴る。


「それ、誰の自転車なの?」


 私はそう尋ねつつ顔を上げた。


「私の出すけど?」


 そこに立っていたのは、知らない女性だった。

 彼女だと思って話しかけ、手を引き、そしてついてきてくれたはずだったのに。そこにいたのは知らない女性だった。髪が長く、白いシャツにジーンズパンツを履いている女性。額に大きくⅭの文字が入った女性だった。


「えっ……?」


 私は、何が起きたのか全く理解できなかった。

 人が入れ替わった?

 それとも私は幻覚を見ていたのだろうか。

 彼女を探し求めるあまり、知らない女性を彼女と勘違いして話しかけてしまったのだろうか。

 いや、仮にそうだとして、どうしてこの女性は私についていこうとしたのか。

 いろいろな疑念が頭の中を駆け巡るが、女性は私の顔を不思議そうに見つめた後再び自転車を押しながら言い放った。


「すみません、ちょっと通りたいのでどいてもらっていいですか?」


「え? あ、はい!」


 私は慌てて体を端に避けた。

 女性はそんな私に一瞥くれると、そのまま自転車にまたがってアパートの敷地から出ていく。

 まるで最初から私と一緒に行動するつもりなんかなかったという風に。


 人違いだったとして、私はあの人に話しかけてすらいなかったのだろうか。

 もう、何が何だか分からなかった。

 私は自分の目を信用することができなくなってしまった。

 頭を抱えながら、アパートの敷地を後にした途端、聞きなれた彼女の声がした。


「あー! やっと見つけた! 早く帰ろうよぉ」


 なぜか彼女は私が先ほど来た道からゆっくり歩きつつ現れた。


「あぁ、うん。ごめん。お待たせ」


 私はそれだけ伝えると、彼女に歩み寄る。


「もー、探したんだからね!」


「うん、ごめん」


「早く帰ってクーラー浴びたい」


「そうだね」


「……?」


「……。」


「……どうかした?」


 彼女は私の表情を覗き込むと、不思議そうに眉をひそめた。


「いや、何でもないよ」


 疲れているのは、私の方なのかもしれない。

 つい先ほど、あれだけ壊れたかのように発狂していたはずの彼女だが、今目の前にいる恋人はそんなこと覚えてすらいない様子だった。


「早く帰って、お夕飯作ろっか」


 私がそう言うと、彼女は嬉しそうに笑って私の手を掴んだ。


「帰ろう帰ろう!」


 それから帰り道、辺りは急に振ってきた雨に包まれてしまった。

 雨と言っても、あまり大したことのない雨だ。霧雨というのだろうか。視界が若干白くかすむ程度の、肌が少しジメジメと濡れる程度の雨だ。

 視界は悪いが、この辺りの地形はもう頭に叩き込まれている。長年住んだ場所だ。マップが無くともまっすぐ一直線に帰ることができる。


「傘持ってきた方が良かったね?」


「いやぁ、これ傘は意味ないんじゃないかなぁ?」


 雨が降るというより、全方向霧吹きで包まれているといった感じだ。傘で防げたとは思えない。


 次の角を左に曲がれば、家に帰るいつもの道に出るはずだ。

 案の定、想定していた景色が霧がか゚ってこそいるが視界に入る。

 そして、いつもは見ることのない複数の人影も。


「なんだろう?」


 人影はまるで何かを探しているように辺りを見渡していた。

 その内一人が私に気づいたらしい。手に持った何かに向けて話し始めた。

 気にしない方がいいのだろうかと思いつつ、私と彼女は人影に近づいていく。ここを通らなければ家には帰れないのだ。仕方ない。

 ある程度人影のシルエットが把握できる距離になった時、彼らの声も微かに聞こえた。


「容疑者と思しき二人を発見、どうぞ」


 彼が手にしているのは、どうやらトランシーバーらしい。そして、彼らは私たちを見て容疑者と言い放った。

 何の話か全く見当がつかないが、正直不快な気分にさせられた。

 男の一人が私たちの方に駆け寄ってきて、愛想笑いを浮かべる。


「夜分遅くにすみません、ただいま分譲マンションのアンケートを行っているんですけど、ご協力お願いできますか?」


 そう尋ねてきた男は、白いシャツを身に着けていた。

 胸元には黒くⅭと書かれている。


「いいですけど、あなた何者ですか?」


 トランシーバーを持っていたり、私たちのことを容疑者と呼んだり。すでに分譲マンションのアンケートを行っている人間などではない事くらい分かってはいる。しかし、私は何も悪いことをした記憶はない。むしろ今日はいいことをしたと言っても過言ではないだろう。駐車場で死亡している方を発見し救急車まで呼んだのだ。だからこそ、少し腹が立ったのかもしれない。身の潔白を証明してやるという気持ちで、彼らに対峙した。

 一方、私に鋭いところを突かれた男は困った顔をした。何と答えればいいのか悩んでいる様子だ。

 それに見かねたのだろう。彼の隣にいた女性が口をはさんだ。


「大変申し訳ございません。名乗り遅れてしまいました。わたくしたち、不動産関係のアンケート事業を携わっております」


 こういうものです、と続けて名刺を差し出してくる。

 容疑者だなんだという言葉が聞こえたからてっきり警察だろうと思っていたが、どうやら違うらしい。警察であるならばわざわざ変装しなくとも、職質をかければいいだけだ。きっと探偵業か動画投稿者のドッキリだろう。これは適当に躱して家に帰る方が大事と見える。

 が、よく見れば交差点を包囲するようにヘルメットをつけた作業着の男たちが立ち並んでいた。数と力で私たちを拘束するつもりなのだろうか。警察を直接呼んだ方が安全だろうか。


 不安になりながら、私はそっとスマートフォンに手を伸ばしつつ口を開いた。

 警察を呼ぶにしても、あからさまにやって激高させたくはない。


「あの、周りにいる彼らは?」


 私が女性に尋ねると、すかさず離れた位置にいたヘルメットの男が答える。


「我々はただいまインフラ整備中でございます。お騒がせします!」


 嘘をつけ。

 インフラ整備と言いつつ何もしていない。交通整理もしていなければ機材搬入もしていない。これのどこが交通整理なのやら。

 それに何より彼らのヘルメットには企業名が書かれていない。

 私は昔交通整備のバイトをしたことがあるから分かるが、ヘルメットには所属を示すロゴと、許可をもらっている工場などのステッカー、その他名前や血液型を記述するのが普通だ。しかし彼らの黄色いヘルメットには、ただ大きくⅭの文字が刻まれているだけに過ぎない。


「じゃあ質問を変えます。Ⅽって何なんですか?」


 私の問いかけに、アンケート調査中だと名乗った男の表情が変わる。


「君、それをどこで?」


「何か知ってるんですか? Ⅽって何なんですか!」


 私が声を荒げると、アンケート調査員の二人は表情を見合わせた。

 そして、私の隣に立っていた彼女もまた、私から一歩離れる。


「どうして……」


 彼女の口から、言葉が漏れ出た。


「どうして、どうして、どうして、どうして、どうして!」


 彼女の言葉はどんどん大きく強くなっていく。目に涙を浮かべ、体を小刻みに震わせ、彼女は私に問い続ける。


「どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうしてッ!」


 彼女はそう叫びながら、走り出してしまった。

 慌てて彼女を追いかけようとすると、突然男たちに取り押さえられる。

 全員インフラ整備中だと嘘をついた人たちだ。


「は、離せ! 彼女が行ってしまう!」


「うるさい、黙れ! 動くな!」


「離せ、離せぇぇぇぇ!」


 私が叫ぶ声に振り替えることなく、彼女は夜の闇に向かって走り去ってしまった。


「Ⅽって、Ⅽってなんなんだよ! 何なんだよぉぉ!」


 必死に叫ぶ私だったが、複数の男に押さえつけられて抵抗できるはずもなく。彼らはすさまじい形相で私の腕を縛り上げ、手錠をかけてこう言った。


「全部お前のせいだ!」


 そう言った男の顔には、今まで見たことのないくらい大きなⅭが貼り付いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Ⅽって何ですか 野々村鴉蚣 @akou_nonomura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ