純潔の誓い

 形の良い唇が薄く笑みを浮かべ、前髪の上から自分の額を指で二回叩く。何が起きるのかと見つめるオトの目の前で、美しい金糸が毛先から色を変えた。


「生物の姿を変容させる神獣ニアの力、その応用だ。こうでもしないと、俺は大陸で外を歩くことすらできない」


 そう言って自嘲気味に笑うノアは、あっという間に漆黒の髪に変わった。夢喰むしはねのようにどこまでも深い黒。驚きで瞬きを繰り返すオトに、変わらぬ美貌が微笑んだ。


「この姿を君は醜いと思うか?」

「……! そんなことないです! すごく、綺麗で……」


 見惚れてしまった。ただそれだけ。醜いだなんて少しも思わない。


「だが、大陸で黒髪は昔から忌み子の証なんだ。それに俺の家系に黒髪はいなかった。嫁いできた母の家にも。母は不貞を疑われ、俺たち母子は一族から徹底的に冷遇された」

「そんな……」


 ただ、黒髪で生まれたという理由だけで。悲惨な境遇にオトは言葉を失う。


「五歳になった頃、ニアの力が発現して事態は更に悪化した。セレニティと同じ神獣の名を冠するが、ニアはその禍々しい見た目から魔獣とも言われている。黒髪はニアの加護の証だったんだ。君の羽耳のようなものだな。魔獣に呪われた子として俺は塔へ幽閉され――……その間に、母は心身を患って息を引き取った」


 淡々と語られる痛ましい話に、オトの瞳から涙が零れる。

 生まれた時から輝かしい人なのかと思っていた。いつも力強くオトを導いてくれる優しくて強い人。こんなに物悲しい過去があったなんて、思いもしなかった。


 浴衣の襟から零れた指輪を見つけ、黒髪の隙間から青い瞳が細まる。面影を探るように、追憶の彼方へ行ってしまった最愛の人を想った。


「母の形見であるこの指輪を見るたびに思うんだ。母は本当に虐げられる必要があったのか。俺はなぜ忌み子と呼ばれなければならなかったのか。その答えを見つけるために神獣の研究に打ち込んでいたら、今はクレセンティアの領事をやっている。不思議なえにしだな」

「お母様の指輪……」

「返さなくていい。大切な物だからこそ、これからもオトに持っていてほしい」


 涙で濡れた頬を拭う指先は、虐げられる痛みを知っている。だから母親と同じ噛み痕が残るオトの唇を見て、胸を掻き立てられた。


「あらゆる者に汚らわしいと言われた俺の黒髪を君が綺麗だと言ってくれたように、君の片羽や羽耳の痕を醜いとは思わない。だから……触れても、いいか?」


 頬を撫でる指が向かう先を、オトは拒まなかった。焦げ茶色の髪を優しく払い、窓際から差し込む月光と間接照明の明かりの下に晒す。

 露わになった耳の穴を囲う変色した皮膚。引き攣りガタついたそこに耳朶はない。人の耳とも雛鳥の羽耳とも違うそれを、オト自身でさえ疎んでいたのに。


「オトが愛されようと一生懸命もがいた証だ。すごく美しくて、愛おしいよ」


 温かい指先が何度も傷痕を撫でる。「綺麗だ」「愛らしい」と、甘く囁きながら。それだけでとろとろに溶けてしまいそうになる。終ぞ与えられなかった母の温もりに似た感情を注がれて、開きっぱなしだった傷口が縫われていくようだった。


「なぁ、純潔を失うと神通力がなくなると聞いたが、どこまでが純潔なんだ?」

「どこまで……?」

「こうして触れ合うのは問題ないようだが、さすがに唇はだめだろうか?」


 猛烈に口付けキスがしたい。そんな衝動に襲われた。


「カージュの書物には、ね、粘液の交換はだめだと書かれていて……」

「どんな本だ、それ。他人が書いた書物なんて主観だらけで当てにならないぞ。……ああ、そうだ」


 一度ベッドから降りたノアは、備え付けの箪笥チェストの一番下の引き出しを開けた。取り出したのは予備の麗糸窓掛レースカーテン。向こう側までしっかり見えるほど透き通っている。細かな刺繍が施されたそれを、戸惑うオトの頭からふわりと被せた。まるで純潔を示す大陸の花嫁が纏う垂れ布ウエディングベールのように。


「ノア様……?」

「保険だよ。直接触れ合わなければ、いくらセレニティだってそこまで小煩くないだろう?」

「えっ……!?」


 起き上がったオトの近くに折り畳んだ長い足が着く。ギシッと木枠が音を立てた。それだけで心拍がどっと上がる。


「目、閉じて」

「っ……」


 レースの上から指の甲で下顎を上げられ、熱を帯びた群青色に射抜かれる。薄い布がその熱を遮ることなどできるはずもなく、オトはおずおずと目を瞑った。


「いい子」と耳元で囁かれ、ぞくりと熱が駆け抜ける。次の瞬間、レース越しに唇が重なった。


(こ、れ……)


 昼間にハンナとアルベルトがしていた口吸いを思い出した。凛々しい彼女が見せた、幸せそうに蕩けた表情。愛されている者の幸福を物語る姿に胸が疼いたのは確かだ。でもまさか、それと同じことが自分の身に起きるなんて。


 角度を変えて何度も触れ合うたびに、羽耳がぴくぴくと反応する。噛み癖の痕が少し薄くなった下唇も丹念についばまれた。レースの裾からするりと入り込んだ手に右の片羽と左の羽耳の痕を優しく撫でられ、まぶたの裏に星が散る。


「ん、んぅっ……!」


 羽耳を覗かれた時と似たような熱が脳髄でぐるぐると渦巻く。溺れてしまう。これでもかと注がれる愛情に。


(でも、なんだか……)


 ――もどかしい。何にも隔てられることなく、唇に触れてみたい。

 こんなことを口にしたら、はしたないと思われてしまうかも。


 熱を透き通す薄いレースに、胸の奥がきゅーっと締めつけられる。オトの欲望の皿は空っぽな上に底が浅かったはずなのに、幸せを知ってどんどん欲深くなってしまった気がした。


 どれだけの時間そうしていたのだろう。重ねるだけだった唇がすっと離れていく。心地良い温もりが恋しくてうっすら目を開けると、とても真剣な表情を浮かべたノアがふいっと目を逸らした。


「やっぱりよそう」

「え……」


 浮かれるような熱に満たされたのは自分だけだったのだろうか。そんな考えが頭を過る。だが……。


「これ以上したら、朝までもたない」

「……!」


 黒髪がさらりと揺れる頬から耳までぶわりと赤く染まった様子に、オトも負けじと茹で上がった。レースカーテンが取り払われ、そのまま胸の中へ引き寄せられる。


「オトは俺の小鳥だが、大陸人の歌姫でもある。でもいつか許される時が来たら、その時は……何にも阻まれずに、君と愛し合いたい」

「愛し合う……?」

「成せばわかるさ。あ、サヨには聞くなよ。教育上よろしくないからな」


 それではどちらが姉鳥なのかわからないじゃないか。「子どもじゃありません」とむくれる羽耳にふっと息を吹きかける。「ひゃあああっ!?」と飛び上がった愛らしい小鳥の跳躍に、ノアが大きく吹き出して笑った。



【片羽のオトは愛を歌う<完>】

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片羽のオトは愛を歌う 貴葵 音々子 @ki-ki-ki

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