片羽の行方

「――で、俺のところに来たと」


 夜中に扉を叩いてやってきた浴衣姿のオトが緊張気味にうなずく。

 ノアは前髪を掻きむしり、理性を保つことに努めた。普通の男女なら流れに身を任せることもできるが、相手は雛鳥だ。純潔を失えば神通力を失って夢喰むしを祓えなくなる。


(領事と献上が寝室を共にした記録は本物だが、まさか先任たちは全員修行僧なのか?)


 煩悩で気が遠くなったこめかみを指で押さえる。とりあえず中に入れたのはいいが、さて、これからどうしよう。


「やっぱり、私では献上のお役目を果たせませんか……?」


 歓迎されている雰囲気ではないことを察したオトが自信なさげにうつむく。彼女が考えているお役目とは、魔除けの置物のようなもの。一晩男の本能との対話に徹しなければならないノアの苦行など知る由もない。

 だがシュンとした羽耳を見て、じくじくと罪悪感に蝕まれた。このまま帰したらきっと酷く傷つけてしまう。


「そんなことない。オトが来てくれて助かった」


 純粋無垢な小鳥を傷つけるくらいなら、修行僧にでも仙人にでもなろう。今まさに健全な共寝の火蓋が切って落とされた。


「だが毎日は大変だから、三日に一度くらいにしような」

「? わかりました」


 さっそく弱気な突きジャブが牽制する。何のことかわかっていないオトが可愛くて理性の消耗が著しい。果たして朝までもつのか、もう不安になってきた。




 ∞




 ベッドに入ってもギンギンに冴え渡った視界で隣を見やる。天井の模様を眺める金色の瞳に間接照明の淡い光が揺れる。眠れないのはお互い様らしい。

 思えば、二人きりでゆっくりと時間を過ごすのは初めてだ。せっかくなら有効活用してみるべきか。そこでノアは、ずっと抱いていた疑問をぶつけてみることにした。


「オト、聞いてもいいか?」

「何でしょう?」

「――左の羽耳は、どうしたんだ?」


 失った羽耳を指摘され、華奢な身体が途端に強張ったのがわかる。すかさず布団の下で一回り小さな手を握った。


「言いたくないなら言わなくていい。君を傷つけたいわけじゃないんだ」

「いえ……ノア様にはお伝えしておきたいです」


 もぞりと身体を動かし、二人はひと一人分の空間を保ったまま向かい合う。そしてぽつりぽつりと過去を語り出した。


「私の生まれは本島の街から外れた小さな村です。自然の中で暮らすちょっとした集落でした。島にはそういう村が他にもたくさんあります」


 クレセンティアを構成するのはカージュの小島と総領事館や島主の屋敷が置かれた本島の首都、そして点在する小さな村々。本島は人の足で休みなく十日間ほど歩き続ければ一周できる。そのほとんどを自然が占めているため、人口は十万人にも満たない。


「羽耳を持って生まれた赤子は、離乳してすぐ供物と一緒にカージュへ送られます。でも私は十歳になるまで村で隠匿されていました」

「隠匿?」

「私が生まれた年は凶作で、供物を用意することができなかったんです。それとは別に、毎年カージュには作物や織物などを納めないといけません。苦境に立たされた村の長は、私を村のためだけに歌わせようとしました」


 神獣の加護で悪夢から守護する見返りに供物を提供させる。カージュにとっては必要な物資に違いないが、問答無用の取り立ては無理な年貢と同じだ。

 運よく雛鳥が生まれた村は、これを好機と考えた。自分たちだけの歌姫を育て上げれば、カージュに依存することなく安眠を得られる。密かに洞穴ほらあなの中に祭壇を作り、そこへ母親から取り上げた幼いオトを放り込んだ。鳴け、さえずれ、歌えと強要して。


「毎晩村人たちが集まって、夢喰むし避けに歌を聴きに来るんです。歌わないなんてことは許されませんでした。いえ、むしろ歌うことしか許されなくて……」


 光の当たらない洞穴ほらあなの奥で両足首を枷に繋がれ、外の日差しに目を細めていた。たまに聞こえる子どもたちのはしゃぎ声に焦がれ、鳥の鳴き声に憧れ。


 ある日、一匹の夢喰むしたかられた子どもを抱えた母子がやってきた。オトが歌って悪夢を祓うと「よかった、本当によかった」と目尻をしとどに濡らして歓喜する母親。その横顔が脳裏へ強烈に焼きついた。


 親は子を慈しむもの。なら自分がもっと苦しい目に遭えば、母親が助けに来てくれるかもしれない。胸に灯ったのは仄暗い希望。手頃な大きさの石を岩肌に擦りつけ、密かに研いだ。何日も何十日も何年もかけて研ぎ澄まされたいびつな石刃の切れ味は、あまり良いものではなかったけれど。


「左の羽耳は、自分で切り落としたんです。心配したお母さんに助けに来てほしくて。でも……」


 大切な羽耳を一つ失ったと報せを聞いた母は、洞穴ほらあなに寝かされた娘の元を訪れた。だが与えられたのは優しい抱擁ではなく、鬼気迫る平手打ち。



 ――あんたが歌えなくなったら、私たちの生活はどうなっちまうと思ってんだ!



 雛鳥を生んだ功労として、オトの家族は村から多大な恩恵を受けていた。カージュに捧げる供物と比べたら微々たるものだが、それでも裕福に生きていくには十分な施しだ。名も知らない弟と妹が生まれ、家族は幸せに暮らしているらしい。それを脅かしたオトが憎くて堪らないと顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。母は肩を上下させながら腫れあがった右頬をなぞり、解けない呪いを吐いた。



 ――私たちのために、死ぬまで歌っておくれ。



「それからしばらくして、村の異変に気づいたカージュから告鳥つげどり様たちがやって来ました。セレニティ様の雛鳥を私物化した罪で村は焼かれ……生き残ったのは、私だけです」


 今あるリラだけを抱えて、オトは告鳥つげどりたちと海の鳥居をくぐった。だが無理に歌い続けた後遺症で鳴官は傷つき、トラウマに囚われたままの歌えない片羽として虐げられ続ける日々。そんな痛みが、ようやく終わったのだ。


「……羽耳の痕に触れてもいいか?」


 ただ、慈しみたいと思った。本当にそれだけ。だがオトは涙を浮かべて首を振る。


「手当が疎かになってしまったので、皮膚が引き攣ってしまってとても醜いんです。きっと気分を悪くされてしまいます」


 誰にも見られたくなくて、いつも髪を下ろして隠していた。サヨにだって触らせたことはない。ノアに見せて、もし少しでも嫌悪の表情を浮かべられたら――……そんなの、堪えられない。


「なら、俺も秘密も教えてやる」

「ノア様の、秘密……?」

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