第3話 君がよかった
その
それは“#フォロワーが体験したことが無さそうな体験”というハッシュタグの付けられたポストだった。今日のトレンドにでも上がっているハッシュタグなのだろう、千から万単位の“いいね”の付いた同じタグのポストがいくつか並んでいたが、その中のひとつに僕の目は釘付けになった。
『中学の時、隣の席の男子と家出して、所持金で行けるだけ遠く離れた街の空き地に放置された廃バスの中で缶のコーンスープを分け合った。彼に「家出できれば誰でもよかった」と打ち明けたら「僕は君がよかった」と言ってくれて、夜明けまで寄り添い合って一晩過ごしたことがある。#フォロワーが体験したことが無さそうな体験』
手が震え、脳が白くなる感覚に襲われた。けれど僕はこのポストから目を離すことが出来ずに、“まにゃまにゃ@育児奮闘中”というアカウントが投稿したこのポストのリプ欄を覗いてしまう。
『ドラマのような体験が過ぎる』
『青春~』
『まにゃまにゃさんのエピソードはいつもパンチが強い』
『映画化いつですか?』
『ヤッたの?』
『その隣の席の彼は今?』
『今の旦那?』
並ぶリプに応えていくつか投稿主の返信があった。
『マイエピソードはパンチが強すぎて、ドラマや映画のレーディング的になかなか厳しいものがありますね。でもオファーは待ってます♡』
『ヤッてません。わたしの青春を汚すな野郎ども』
『この後、警察に連れ戻されて、その後すぐに転校することになったので彼とはそれから一度も会っていません。警察や学校関係者の方々、その節は大変ご迷惑をお掛けしました』
『今の旦那とは別の出会いです。ただ当時はとても家庭事情が酷くて、彼の「君がよかった」は、こんな自分でも選んでくれる人がいるんだ、寄りかかって頼っていいんだという気持ちになり、だいぶ救われたので、縁はなかったけれど今でも感謝しています』
ああ、そうか――、
『過去には色々と辛いこともありましたが、今の旦那と結ばれて子供にも恵まれて、今は幸せにやっています。彼もどこかで幸せにやっていることを願っています』
彼女は幸せになったのか。
『――次のニュースです』
放心してスマホを持つ手をソファーの上に落とした僕は、そこで点けっぱなしのテレビがニュースを流していることに気づいた。
『千葉県南房総市の海岸で昨日午後、体長一〇メートルあまりの大型のクジラの死体が打ち上げられているのが見つかりました――』
画面に目を向けると、砂浜に打ち上げられて横たわるクジラの死体が映されていた。
『南房総市などによりますと昨日午後一時過ぎ岩井海岸で、クジラのようなものがあると通行人から通報がありました。クジラは体長およそ一〇.五mのザトウクジラとみられ、すでに死んでいて腐敗も始まっているということです――』
ピクリとも動かないクジラは、黒と白の大きな身体に痛ましい傷をいくつも作り、画面越しにも臭ってきそうな爛れた肉を打ち寄せる波に赤く晒していた。
クジラが死んで、朽ちていく――、
『千葉県が詳しい状況を調べるとともに、処分方法を検討するとしています。南房総市では小型のイルカが年に数頭打ち上げられることは――』
僕はそこでテレビを消した。
すると黒くなった画面に、テレビを消した僕の姿が映った。
三十三歳の、少し頭髪の薄くなった、もう十三歳の少年ではない僕の姿が。
「ああ――」
行き場のない感情がくぐもった声を出し、僕は、僕の人生の失敗に打ちのめされていた。
僕以外の男と幸せになった彼女に怒りを覚えた自分の矮小なエゴや、周囲の反対なんか振り切って彼女の行方を捜しに行かなかった過去の自分へのあまりにも今さら過ぎる卑小な後悔に、僕は打ちのめされていた。
自分だけの特別な美しい思い出に浸れる優越感に、目の前の諸々をやり過ごしてきた自分の怠惰と傲慢に、僕は打ちのめされていた。
彼女はあの二人の夜の美しい思い出を、SNSで他人に向けて消費するほど
どんなに美しい思い出も、それだけで生きるには人生はあまりにも長すぎる。
「ああ――!」
行き場のない感情が、僕にソファーのクッションを掴ませて、消えたテレビに映る僕の影に投げつけさせる。
意外と丈夫なテレビは倒れることもなくクッションを跳ね返し、ボスンとみすぼらしい音だけがした。
それは青春の死んだ音だった。
「ああ……」
朽ちたクジラの死骸のように僕はソファーに身を沈め、蛍光灯に照らされた音もなく熱もない静かな夜を、ただひとりで耐え忍ぶ。
「……僕は、君がよかった――」
ぽつりとこぼした未練はもうどこにも行けず、過ぎていく時間に呑まれて朽ちていく。
朽ちたクジラの死骸のように ラーさん @rasan02783643
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