『フェン・アイ・フォール・イン・ラブ―恋に落ちる瞬間を待ち望む女―』

小田舵木

『フェン・アイ・フォール・イン・ラブ―恋に落ちる瞬間を待ち望む女―』

 私が恋に落ちた瞬間。それはいつの事だったろうか。

 私は部屋でカフェオレを飲みながら考える。

 遠い昔の記憶を呼び起こしてみるのだが。10年は昔の話で記憶はところどころ曖昧あいまいになっている。

 BGMはビル・エヴァンスの『フェン・アイ・フォール・イン・ラブ』。うん。この曲がかかったから、恋に落ちた瞬間なんて事を考えているのだ。


 私はもう30を超え。恋なんて甘っちょろいモノとは無縁になってしまっていて。

 一夜の関係を結んだ男の数は数多あまたに上るが。恋なんてモノはとんとしてない。

 それは私が生きるのに必死だったからでもある。


 私は私の生活を維持するために必死こいて働いて。今は一人と猫が1匹。

 この人生に不満があるわけではない。だが、私は生物として正しい在り方をしているだろうか?

 恋…行き着くはては性交であるプロセス。それは人類の自己保存欲求がなせるモノでもある。

 ところが私は自己の子孫を残したいという欲求は薄い。私の遺伝子を後世に残したところで世界にプラスにはならない。私は母にもなりたくはない。自己の遺伝情報を持った子が出来るなんてぞっとしない。


「ふなあ」キジ柄の猫が私の脚にまとわりついて。

「エサならさっきあげたでしょうが」

「…」猫はその目を私に向けるが、何を言いたいのかは分からない。

「君が喋れたらねえ」私はつぶやく。いくら独りでいる事を決め込んでも、孤独には勝てないのだ。

「な?」彼は何を言ってるんだか、という目で私を見つめる。

「私は孤独を決め込んでいるけれど。君がいなかったらと思うと、ぞっとしない」私は猫の背中を撫で。優しく語る。

「…ぼろろろろろ」猫は喉を鳴らして私の愛撫を受け入れてくれる。

 

                  ◆


 孤独な生活は続いていく。世界は私一人を軸にして回っていく。

 日々の暮らしの大半を占めるのが仕事であり。私はそこに埋没する。

 私の仕事はとかく人と関わる。営業職だから。そのせいか孤独を感じる暇がない。

 今日も取引先で私はこき使われ。

 

時田ときたさんが居ると助かるねえ」なんて取引先のスーパーの担当者は言う。

「あんまりアテにしないで下さいよ。あくまで自社製品のプロモに来てるんですから」私は売り場で紙製の陳列ツールを組み立てながら言う。

「とか言ってえ。なんやかんや売り場を綺麗にしてくれる」

「ウチの商品の陳列のついでですから」私は棚を整えてしまう癖がある。散らかった売り場をみていると我慢ができないのだ。

「おかげで仕事が減るのなんの…これだけ気がつく娘さんならモテるだろうねえ」

「そういうの最近はセクハラなんですよ?」

「そうなの?でも僕らの仲じゃん」新入社員の頃からの付き合いである。

「…私はモテませんよ。女の子らしさが不足してるらしいです」これはよく言われる台詞だ。私はクールでありすぎるらしい。スキがないから近寄り難いらしい。

「なんなら。ウチの男。紹介しようか?」彼は笑顔でそう言うが。

「間に合ってます…と言うか取引先の人と付き合いたくないです」

「そう?割と性格良いやつなんだけど。僕に遠慮することはないぜ?」

「遠慮しますよ…貴方あなたの紹介だと、付き合ってる時中、貴方の顔を思い出すハメになる」

「…恋のキューピッド。やってみたかったんだけどねえ」

「自分で何とかしますよ。ご親切にどうも」私は陳列ツールを棚にセットし、商品を補充していく。

 

                   ◆


 私は仕事を溜め込まない。若い頃はとかく残業をしていたが。今はさっさと終わらせて18時には電車に乗り込むようにしている。

 若い頃は仕事に打ち込む事で孤独を紛らわせようとしていた。だから終電ギリギリまでデスクワークをしたり、外周りをしていたが。

 今はそういう事が無駄だと分かっている。仕事にどれだけ打ち込もうが、孤独を紛らわせる事なんてできないのだ。


 私は電車のつり革につかまりながら、今夜の予定を考える。

 今日はボルダリングにでも行こうかな。帰りの電車を途中下車すれば行きつけのジムはあり。鞄の中にはマイシューズとチョークバックが仕込んである。

 

                   ◆


 私はボルダリングジムのある駅で途中下車。

 駅の近くのスーパーでスポーツドリンクを買い込むと、ジムに向かっていく。

 そのボルダリングジムは物流倉庫を改造したところで。かなり広めのジムになっている。


 受付を済ませて。私は更衣室で着替える。

 着替えてジムの中を見回せば。辺りには常連のソロ客があふれており。

 私は知り合いに声をかけながら、準備体操をし。

 ウォールを物色。その間にも知り合い達に声をかける。

 私は孤独を決め込んだ女だが。別に没交渉な訳ではない。


 始めは簡単な初心者コースを選んだ。私は腰に結わえたチョークバックの中に手を突っ込み。チョークを手にまぶす。

 コースの指定通りにホールドを登っていく。ボルダリングは孤独なスポーツだ。

 チームを組んで競技する訳ではなく。一人で壁に挑んでいく。私はその孤独性に惹かれてボルダリングを始めたのだ。一人でも達成感が味わえるスポーツ。私にうってつけではないか。


「時田さんやってるねえ」なんて声が後ろから聞こえてくる。

「やってますよお」なんて降りながら返事をする私。相手は知り合いの警察官であり。

「時田さんの足遣いは何時見ても見事なもんだ」

「女性はクリフハンガーできませんからね」男は腕力にモノを言わせて壁を登る。だが。女性の私にはそんなモノはなく。自然と足遣いが綺麗になったのだ。

「僕らみたいにね。いやあ。学ぶべきところがある」彼はうんうんとうなずいている。


「最近はどうですか?」私はレストをしながら警察官に話しかけ。

「相変わらずよ。事件の発生件率は下がらず。治安は悪いまんまだねえ。お陰で忙しいのなんの」

「の割には。私が来る度にいますよね」

「それは非番の日だからよ」

「休んだりしないんですか?」

「休んでるさ。だけど、休んでばかりいると身体が鈍るから。こうやって登りに来るわけ」

「働き者だなあ」感心してしまう。

「と。言うより。家に居場所がないんだね」彼は頭をきながら言う。既婚者なのだ。

「居場所がない?家庭に?」不思議だ。孤独をいとうて人はチームを組むのではないのか?

「そ。女房と顔を突き合わせ過ぎたんだね。最近は家にいると舌打ちされる。娘も思春期であたり強いしさあ。気が付いたら登りにココに来ちゃうよね」

「…結婚すれば孤独ではなくなると漠然と思っていたのに」私はこぼす。

「ところがどっこい。そういう時期はあっという間に過ぎていく。人はね。あんまり一緒に居過ぎるとお互いに飽きるもんなんだよ」

「俗に言う倦怠期ですか?」

「倦怠期なんてもうとっくに過ぎてるよ。その先にある何かだね、これは」

「…結婚したくなくなるなあ。私には猫が居るし」

「とは言え。結婚は悪い事ばかりでもない」急にフォローをいれだす警官。

「無理やりフォローしようとしてません?」

「いやいや。普段は仲悪いけどさ。いざって時は団結できる。こういう相手が居るのはありがたい事だよ」

「…猫とは団結できないなあ」

「時田さんも。そろそろパートナー探したら?なんならウチの若いの連れて来ようか?」

「ご親切にどうも。でも私は結婚しないって決めてるんで」

「そりゃもったいない。時田さんならいい嫁になると思うけどね」

「私には子孫を残すという意欲が足りてない」

「…子ども。悪いもんじゃないけどなあ。特に小さい頃なんか可愛いよ」

「自分の遺伝子を継いだ別の個体が居るって状況が想像できないんですよ」

「こればっかりは産んでみないと分からんってウチの女房は言ってたな」


 私はこの言葉に適当な返事をし。また壁に向かっていく。

 

                  ◆


 私は2時間ほど壁に向かっ登り続けたが、流石に疲れてしまい。

 時間もちょうど良くなってきたのでジムを引き上げる。

 さっさと家に帰ろうかとも思ったが―今日は金曜日だ。明日は仕事がない。


 私は汗を流す為に温泉施設に立ち寄り。

 そこで一時間くつろいだ後、電車に乗り最寄りの駅に帰る。

 さて。今からどうするか?

 家に帰れば猫が居るが。今は誰かとくっちゃべっていたい気分なのだ。

 

 んじゃあ、と私は近くにある小料理屋に向かい。

 そこのカウンターに腰を落ち着ける。適当に晩ごはんのメニューを頼み、私はビールで一人乾杯をする。


「今日もお一人ですか?」店の主人がビールのお代わりを持ってきながら言う。

「私がこの店に男、連れてきたことあります?」なんて私は返事をする。私は社会人になってから、ずっとこの店に通い続けている。料理が出来ない私はこの店に頼りきりなのだ。

「ないねえ。時田さん美人だけど。人を寄せ付けないところあるから」

「…別に人を遠ざけてるつもりはないんだけどな」私は秋鮭のホイル蒸しを食べながら言う。

「そのつもりがなくたって。時田さんのスタンスは漏れているんですよ。立ち振る舞いにそれが現れてしまってる。だから男が寄ってこない。この店でもそうでしょ?」

「…確かにこの店でナンパされた事はない」

「もっとスキを作らなきゃ」

「スキってどうやって作るの?」私は男の主人に問うてしまう。

「…俺、男ですよ?でも、とりあえず時田さんの今の感じだと近寄り難いのは事実」

「…ま。良いんだけど」ほうれん草のお浸しを食べながら言う。

「そんな事言ってると。40、50になった時に後悔しますよ」

「いいもん。私には猫がいるから」

「猫の寿命は15年。長くはないです」主人は去りながら言う。


 言われて見れば。そうだなあ、と思う。私の家のキジ猫くんは今、2歳だが。後13年もしたら居なくなるのか。そして私はまた孤独になってしまう…

 

                   ◆


 私は小料理屋で食事を済ませると。ビールをもう一杯んで家路につく事にした。

 あの店に居たって、話相手は居ないのだ。主人は忙しいし。

 

「ただいま」なんて玄関で言えば。

「んなおおおおん」とキジ猫くんが私の脚に纏わりつく。

「エサは給餌器であげてるでしょうが」私はこんな台詞を吐くが。実はこうしてくれる事が嬉しい。

 

 私はリビングにキジ猫くんと行き。ソファに身を沈めて。

 膝にキジ猫くんを乗せ、寛ぐ。

「君はあと13年もしたら居なくなるの?」私はキジ猫くんに問うてみる。

「んにゃん!」彼は嬉しそうに返事をする。違うんだって。

「長生きするんだぞお」なんて言いながら私は彼を撫でくりまわして。

「んなーん。ボロロロロ」彼はご機嫌で喉を鳴らす。

 

 私は無音の空間に耐えられなくなって。テレビを点けてみるが。

 ちょうど恋愛映画のクライマックスが流れる。ヒーローとヒロインが永遠の愛を誓っている。

 コイツらも10年経てば。あの警官夫婦のように倦怠期を通りこした何かにぶつかるんだろうな、なんて意地悪い考えが頭に上る。

「なーにが。君の美しさは永遠だっての」私は映画に突っ込みを入れてしまう。

「ふな?」膝の上でヘソ天していたキジ猫くんが応える。

「君には言ってないさ」

「んにゃん」

 

                   ◆


 休日はやってきてしまう。

 私は休日と言うヤツが苦手だ。ワーカホリックの傾向があるからではない。

 単に孤独に打ちのめされるのが嫌なだけだ。

 私はベットで惰眠を貪り。昼前にキジ猫くんに叩き起こされて。

 眠い目をこすりながら、朝食と昼食を合わせたモノを食べて。コーヒーを啜りながら暇にさいなまされる。

 

 とりあえずは部屋の掃除と洗濯をし。その後でキジ猫くんと遊ぶ。

 猫じゃらしに飛びつく彼を見ていると。性欲に支配された男の哀れな姿が目に浮かぶ。

 

 男は性に駆動させられるから良いよなあ、なんて事を考えてしまう。

 女の私は20代の頃は追いかけられる存在で。男を無理に追いかけるような事しなかった。

 そうして30代を迎えてしまい。今は孤独という問題に苛まされている。

 これはある種、滑稽である。

 男を見くびっていた私が今さら男を乞うなんて。矛盾している。

 

 矛盾した私はを抱えて生きている。

 と思い。

 と願ってる。

 そうして出た妥協案は猫を飼うことであり。今はその効能で何とか虚無を免れているが。最近はメッキが剥がれかけている。

 

 だが。今さら。

 どうやって恋に落ちれば良いのか?

 私はもう。若い頃のような情熱を持っていない。

 冷静さを失うような恋は出来ない。

「だああああ」私は思わず漏らす。何でこんなに弱くなってしまったのか?

 私はここ数年はクールに一人の生活を楽しんで居たはずなのに…

 

                   ◆


 

「スッポコペンペンポン…ポンポポ」夕方の茜色の空を眺めていたら電話がかかってきた。相手は母であり。

「もしもし。元気してる?」母の声は昔のまま。

「生きてるわよお…」私は気のない返事をして。

「キジ猫は元気?」

「今は丸まって寝てるわよ」

「そのうち見に行こうかしら?」

「止めてよ。猫1匹の為に上京しないで」

「久しぶりにアンタの顔、見たいわけ」

「見たところで。3年前と変わってない。多少シワが増えたくらい」

 

「ところで」母は切り出す。私は嫌な予感がする。

「何?」私はこの後に切り出される話題を知っているが。そんな話題をしたい気分ではない。

「いい人。出来ない訳?」ああ。来たぞ。この話題。

「出来るわけないでしょうが」

「なんでよ?アンタ、モテない訳じゃないでしょうが」

「恋をするにしたって。歳を取り過ぎてんのよ」

「…恋じゃなくたって。そろそろ身を固めてもいいでしょう?」

「結婚相談所にでも行けと?」

「そうそう。いい加減子ども産まなきゃ」

「…女性の幸せってそこにしかない訳?」私は疑問をていしてしまう。

「ある意味ではそう。女なんて子を為してナンボの世界なのよ。どれだけ社会進出しようが」

「それは旧弊な意見過ぎない?」

「私はそういう価値観の中で生きてきたからね」

「ところが私はそうでもない…だけど」私は漏らしかかる。

「だけど?」

「最近は孤独という問題が私を悩ませる」

「彼氏が居ないかからでしょうが」

「猫が居れば何とかなると思ってた」

「あのね。

「でも今さら。男にがっつくなんて。みっともない」

「そんな事言ってると。60くらいになってから後悔するわよ」

「…そういや。今お母さんがちょうど60でしょ」

「そうね。今のアンタの歳で出産したから」

「どうして結婚したのさ?」母は私同様キャリアウーマンだったが。父と結婚して私を妊娠し、そのキャリアを閉じた。

「そんなもん。妊娠したからよ」聞いてないぞ。そんな事。

「デキ婚だった訳?」

「そ。私も貴女の歳くらいの時に、このまま生きるかどうか悩んでね。結局は男に逃れた」

「孤独に負けた訳ね?」

「そうよ。私は孤独に負けた。それに子ども…産みたかったしね」

「私はそう思えないのが致命的なんだよなあ」

「生物の本能に従わないなんてバカな真似はよしときなさい」

「…どうやって。30でも恋に落ちたの?」

「簡単よ。恋に落ちる相手を見つかれば良い」

「なんつう根性論。参考にならない」

「恋に落ちる瞬間なんて。そういうものでしかない。本能的に惹かちゃう訳ね」

「本能ねえ…」私は考え込む。私は本能よりもロジックで動くタイプであり。

「とにかく。孤独で居たくないなら。恋を探しなさい」

「善処します…」


                  ◆


 日曜日を迎える。

 私は早々と目が覚めてしまった。昨日寝すぎたらしい。

 キジ猫くんと朝ご飯を食べてしまえば、する事がない。

 

 私はソファに沈み込み、昨日の母との会話を反芻はんすうする。

 私には人の形をした穴が出来ている、か。中々鋭い分析をされてしまった。

 だが。私は人を寄せ付けないタイプであり。中々恋に落ちる機会がない。

 

 このままでは。

 私は孤独に死す猫おばさんになってしまう。

 別にそれが嫌な訳ではない。むしろ望んでいるフシがある。

 だけど。同時にどうしようもない孤独を抱えており。それは人でしか埋められない―

 

 ああ。家に居ると考えこんでしまう。

 とりあえずは出かけよう。そして孤独を紛らわせよう…

 

                  ◆


 休日の街は人で溢れており。

 私が来た商業施設も人で溢れている。

 辺りを見回せば。家族連れがたくさん居り。同年代の女性が子どもを連れている光景を見て、私はジェラシーを抱いてしまう。

 どうして?私は子どもを残したくはないのに。

 それは彼女が孤独を抱いていないからだろう。

 

 私は商業施設をそぞろ歩くが。

 家族連ればかり目で追っている事に気付く。

 ああ。私は。孤独という問題にわずらわされる阿呆あほうだ。そして、孤独を気取って行動しない阿呆だ。

 だが。今さらどうすれば良いのか分からなくて。駄々をこねている子どもだ。

 

                  ◆


 商業施設に居るのが嫌になって。

 私はそこを後にして。適当に街を歩くが。

 何処に行っても家族連れは居て。その事にうんざりしてくる。そして。家族連ればかり目で追う私自身にもうんざりする。

 

 私は孤独の女王にでもなった気分になって。気分がささくれてくる。

 ああ。クソぅ。気分は晴れない。家に帰ってしまおうか?

 

                  ◆


 とりあえず私は喫茶店に入り。そこで死ぬほど甘いドリンクを所望して。

 身体を椅子に落ち着ける。

 甘いコーヒーを飲んでいると気分は落ち着いて。私はついでにケーキを頼み、寛ぎモードに移行する。


 休日の喫茶店は混み合っていない。

 ここには家族連れは居ない。一人客がわんさか居る。

 ああ。落ち着く…

 と思っていたら。懐かしい人物を見つけてしまう…

 

 彼。人間。

 名を脇坂わきさかという。大学の同じ学部の同回生であった。

 彼は10年経ってもあまり変わっていない。ヒョロっとした体躯。黒縁の眼鏡。癖毛ぎみの頭。

 

 私は彼をとっくり眺めてしまう。

 すると。向こうが私に気づく。そして手を振って招いてくる。

 

「…久しぶりね。脇坂くん」私はコーヒー片手に声をかける。

「よお。時田結子ゆうこ。あんま変わってねーな」彼はもじゃもじゃの頭を掻きながら言う。

「10年分歳とったけど?」

「の割には。まだ若い」

「…クチが巧い」

「んな事ねぇよ。んで?お前はこんな喫茶店に何しに来てんだ?」彼はパンケーキをむさぼりながら言う。昔から甘党なのだ。

「休日でね。暇を持て余して街をぶらぶらしてた所。貴方は?」

 

「俺…俺はなあ」彼はうつむき加減で言う。「喧嘩しまして」

 

「何時、結婚した訳?」確か。彼は卒業時には彼女が居なかったはず。噂によれば。

「ん?2年前にな」彼の左手の薬指には結婚指輪があり。

「とりあえず。おめでとう。知らなかった」

「俺達。あの時以来、縁遠かったからな」あの時。私が恋に落ちて、彼に告白した時。その恋は実らなかった。彼には彼女が居たのだ。そして私達は関係を薄めて。今に至る。

 

「あの時は迷惑かけたわね」

「おうよ。お陰で当時の彼女とは破局よ」

「それは―知らんがな。でもいいじゃん。今は結婚してるんだから」

「ところがどっこい。今は揉めてるんだよな」

「…こんな所で再会したのも何かの縁。私に言って見なさいよ」

「んー?いやな。子どもの話な訳。名前を決めにゃならんのだが」

「子どもまでデキてんのね」私は驚く。私が孤独と遊んでいる内に、彼は子を為していた。私は置いていかれた気分になる。

「そりゃ。結婚してヤッてりゃ子どもは出来ちまう。問題は名前よ」

「命名案がぶつかり合った?」

「そんなトコ。ウチの嫁占い師にハマりこんでてさ。名前を頂戴してきやがった」

「…スピリチュアルにハマっちゃう人な訳ね?」

「そそ。俺は人様から名前はもらいたくないんだがなあ。嫁がどうしても、って言いやがって。家で喧嘩して。今はこうやって喫茶店に避難してきてる」

「災難だったわね」

「もうね。大変だった。ヒステリー起こされちゃってさ」眼鏡を弄りながら言う脇坂。

「どうせ。アンタも色々言い返したんでしょ?」その光景が目に浮かぶ。昔から脇坂はクチが達者…というよりは喋って相手を圧倒する傾向にあった。

「そりゃさー色々言いたくもなるじゃん?俺というパートナーがありながら、占い師に傾倒するのはどうよ?今はそこまでカネむしられてないから良いが。今回の命名でウチの嫁、やっこさんに10万払いやがってな。さすがの俺も呆れた訳」

「…?彼女と」聞きたくなる。

「放っとけなかったからかなあ。なんと言うか不安定で。俺が支えてやらんと!って思わせるトコがあった」

「…なるほどねえ」私は納得してしまうと同時に後悔する。そうか。そういう風に思わせていれば。彼を捕まえる事が出来たのか、と。

 

「…んだが。今は。彼女の不安定さが恨めしい」脇坂はパンケーキにフォークを刺しながら言う。

「…それを受け止めてあげなきゃ」私は気持ちと裏腹に彼を説得する。

「一応は。俺も努力はしたんだぜ?仕事を犠牲にしてでも彼女に尽くしてきた。なのに。この仕打ちよ。腹が立って仕方ない」

「もういっその事。腹を立てるの止めれば?」

「…結婚して。子どもがデキる前まではそうしてた。だが。子どもが産まれるとなるとそうもいかなくないか?俺達は向き合わなきゃならんのに。嫁は占い師にべったりで。俺は…悔しいんだよ」

「そして喧嘩か…結婚してもうまくいかない事はあるもんだ」

 

「…時田はまだ独身なのか?」彼は不思議そうに言う。

「私が最後に恋に落ちたのはアンタ。それ以来はご無沙汰よ」

「うーわ。もったいねえ」

「…なんと言うかね。アンタに失恋してからは。恋がアホらしくなっちゃって」

「…悪いことしちまったか?」

「いいや。アレはしょうがない話じゃない」

「んでも。一人の乙女から恋を奪っちまった訳だ。コイツは罪深い。その上、俺は結婚してやがる」

「時の流れは早い」

「まったくだ」

 

 この後。私は脇坂と大学生時代の思い出話に花を咲かせた。

 脇坂は思い出話をしている内に気分が落ち着いてきたらしい。

 

「話聞いてくれてサンキューな」別れ際に脇坂は私と握手しながら言う。

「話聞くことしかできなかったけど」

「いいやあ。話すだけで大分気が楽になった」

「お役に立てて何より」

 

 こうして。私は最後に恋に落ちた男と別れて。

 夕方の街を歩いて帰った。

 

                   ◆


 家に帰れば。キジ猫が私を迎えてくれる。

 私は彼を撫でながら、さっきの脇坂との会見を思い出す。

 ああ。時は無情に過ぎていくな、というのが総合した感想。

 

 しっかし。結婚しても色々問題は出るもんだ、と私は思う。

 孤独に対する安楽な回答として結婚を望んでいた私だが。ここ最近の色々を考えると、意見が変わってきた。

 。結婚しようが、心が通い合わなければ意味はないのだ。

 

 私はナイーブに恋を夢見てきた。恋に落ちる瞬間を待ち望んできた。

 だが。問題は恋に落ちたその先にある。

 孤独を埋める為には―陳腐な物言いだが。愛が要るのだ。

 そして愛はそう簡単に手に入るモノでもないらしい。

 

「難しいねえ。キジくんや」キジ猫に声をかける。安易な名前。だが。私はこの名前を気に入っている。

「なおん」彼は顔を洗いながら返事をする。


 私は窓の外を眺めて考える。

 どうやったら愛を手に入れられるのか?

 そうするには。まずは恋に落ちなきゃいけないんだけど。

 何度も言っている通り。私は恋に落ちるには歳を取りすぎていて。

 ああ。このまま歳をとっていくのだろうか?

 恋とその先の愛を望みながら、孤独に死んでいくしかないのだろうか?


 いいや。まだ諦めるには早い…と自分に言い聞かせる。

 でも具体的には何をしたら良いのか分からない。

 

 とりあえず。結婚相談所に登録でもしてみようかな…

 私はそれまでの孤独を猫を撫でる事で誤魔化ごまかす事にする。


 『フェン・アイ・フォール・イン・ラブ』恋に落ちる瞬間。

 私にもう一度、その瞬間がきますように。

 私は祈りを捧げる。


                  ◆

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『フェン・アイ・フォール・イン・ラブ―恋に落ちる瞬間を待ち望む女―』 小田舵木 @odakajiki

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