有明の家  - ありあけのいえ -

深 夜

.

 冲天ちゅうてんたかく、夜明けの月がかかっている。

 わずかにくすんだ無限の紺碧を背にうかぶ有明ありあけの月は、もしかしたら此岸より遠ざかってゆく帆船の白い帆だろうか。


                †


 居間に入ってきた夫は、テーブルにティーカップをふたつ並べ妻のとなりに座った。


 「熱、下がらない?」

 「ええ。でも、よく眠ってるわ」


 妻は夫に顔を向けた。

 削げたような横顔におちたかげの中で、片目が地底湖の水面のように光っている。


 「もっと早く気づけばよかった。きっと、たいしたことじゃないんだろうけど」


 早くもカーテンの隙間からは暗く透明な夜明けが忍びこんでくる。夫のくわえた電子煙草の先端が、暗がりでぼっ、と丸いだいだい色に光った。


                †

 

 冷風が階段を吹き上げてきて、少年の体から熱を一息に奪い去っていった。

 汗に濡れたパジャマがまたたく間に乾いてゆく。

 なかば転げ落ちるように少年は階段を駆け下った。

 居間のドアが開いていて、耐えがたい寒さはそこから流れ出してくる。

 敷居をまたいではならなかった。しかし少年は歩みをとめない。

 あたかもこの家の時間は彼とともに進み、停滞し、力尽きて立ちすくめば時もまた彼とともにその歩みを止めるだろう、とでも言うように。

 ついに少年は居間へ入った。

 高い窓から射し入る水銀のような暁光の下、ソファーが置かれ父と母がならんで座っていた。


 「パパ?」


 父の肩は冷え切ってゴムのように固かった。

 殴られたようにたじろぎ、少年は両親の後姿をまじまじと見た。

 両親は息をしていなかった。

 まじろぎもせず、ただ前方を見つめている。

 二人の影は、床と壁についた微かな焦げ跡のようだった。 

 少年は背後から、こんどは父母の肩に両腕を回した。


 「ねえ。何か言ってよ」


 薄闇に沈んだ両親は、今や部屋に並ぶ古ぼけた一対の家具でしかなかった。


 「パパ、ママ。お願いだから何か話して!」


 自分が絶叫しているのに少年は気づかなかった。

 しかし少年の口から漏れるよりはやく、叫びは居間を満たす静寂に飲まれて消えた。

 膝の高さまで溜まった薄明を蹴散らしながら少年は、廊下から玄関へと走った。


                  †


 家は煉瓦の坂の上にたっている。

 見おろせば、街はまだどこも目覚めていない。

 葡萄茶えびちゃ色の小さな坂道に沿って連なる瀟洒な家々を、高台からはるか見下ろせばさながら群れなす亡霊のような街を、死に絶えたようなしずけさが覆っている。


                  †


 階段を駆けおりてきた妻の足音に夫はまどろみを破られた。

 妻の足音はこんなときでも控えめで、ひどく規則正しかった。


 「来たの? 救急車」


 妻は激しく首を振って震える息を吐いた。めがねの奧の冷徹なまなざしが激しい動揺をこらえている。


 「いないのよ。あの子が」


 三年ぶりに本物の煙草を咥えたまま微睡まどろんでいた夫は、唇を小さく歪めた。


 「いない? トイレじゃないのか」


 妻は激しく首をふり、うわずった声で囁いた。


 「とにかく上階うえにきて。あなたの目で判断してちょうだい」


 そう言って妻は力つきたように座りこみ、夫の膝に顔をうめて目をとじた。真っ黒なくせ毛が頬を渓流のように流れ落ちた。


 「もう分からないわ。わたしには何が何だか」


                   †     


 子供部屋はもう明るかった。閑散として、おどろくほど影がすくない。

 ベッドは冷え切っていた。

 掛け布団も毛布もきちんと整えられ、新品の枕カバーにはしみ一つない。

 そもそもベッドカバーには、使われた形跡さえなかった。

 そして夫婦はようやく気づいた。部屋に残った夜気にこもる、歳月を経たかすかな埃のにおいに。

 とうとう夫婦は、なにもかも思い出した。

 どれほどの間ここに息子が横たわっていたか。そしてベッドが最後にこのように整えられてから、いかばかりの時がすぎたのか。

 部屋にはベッドのほか、家具は何ひとつなかった。


                   †

 

 街はなおも目ざめない。

 始発電車も長距離トラックもうごかず、歩道をやってくるものとてない。

 明けゆく蒼い闇にとりのこされた星々は、空をえぐるような激しさで瞬いている。

 鱗雲のかなたに名残なごる西の夜空には巨大な月が、まるで自身の死面デスマスクのように白々と浮かんでいた。

 急坂の天辺にたつ塔のような邸宅の三階に、カーテンで閉ざされた小さな窓が一つ。カーテンは内側から淡い緋色に染まっている。

 分厚いドアをまえに少年は裸足で立っていた。

 つめたい朝風がパジャマの裾をはためかせ、少年は打ちひしがれた目で高い窓を見あげた。

 そこにとりのこされた潮だまりのような夜と、それから小さな夢がひとつ。

 やがて少年は呼び鈴を押した。

 もう一度。

 チャイムは鳴らない。

                              

                                  ―了―


 ※ 【 有 明ありあけ 】 夜明け。ことに空にまだ月があるうちに訪れる夜明けのこと。


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