第7話
年が明けて、私の営業成績は、目に見えて悪くなり、賃貸部の平均的な社員の数値を僅かに下回っていた。そんな折、私は風邪をひいたのか、咳と鼻水が止まらなくなった。体温計で確認すると、38.5℃もあった。朝礼が終わる午前八時を待って、事務所に電話を入れると、田沼がでてきた。
田沼は「まあ、充分に休養をとって、元気になってから会社に来ればええよ。こっちの状況は気にするな」と、ガラにもなく、私を励ましてくれた。
「ご迷惑をおかけしますが、今日一日だけ静養して、熱が下がっていたら、明日にでも会社には出ます」
「無理するなよ。お前一人がいなくなっても、うちは大丈夫や。ほんまに気にせんと、風邪が完全に治るまで休んどき。下手に出てこられて、うつされても困るからなあ」
私が予想したよりも、田沼は穏やかに話していた。
私は、田沼の異変を感じていた。明らかにいつもと様子が違っていた。何かが狂っている――私はそう感じていた。田沼は風邪で休もうと、おとなげなく「自己管理ができていないから、そうなるのや。ちゃんと、健康管理ぐらいせんかい」と非を咎める男だった。実際に何度も、そんな光景を目にして来た。私は、田沼の不自然な親切心に対して、途方もない不安に襲われていた。
周囲の喧騒と、自室の冷ややかな部屋の明かりの下で、朝の日差しに射抜かれて、どうにかなりそうな気分だった。私は部屋のデスクに積まれた本をひっくり返し、いつも腰かけている椅子を蹴とばし、全てを消し去りたかった。しかし、何も目の前から消え去りはしなかった。
すべてが、茶番芝居のように思えると、考える気が失せた。私は、また由比正子の存在を思い出した。――恋に、恋する乙女――と同様、幻影に憧れるのが私の深いところにある望みだった。都会の喧騒と、排気ガスの匂いが混じり合う興奮の坩堝から、何度も逃げ出そうと足掻きながらも、嘲笑されてきた。
今まで獣性を憎んでいた田沼の……、あまりにも理性的な声が、戸惑う私を我に返らせた。
「もっと、賃貸部で頑張りたいのやろ。営業成績をもっと、上げたいのやなあ。お前は……。ゆっくり休んで、元気になってから、前と同じように活躍してくれよ」
「分かりました。よろしくお願いします」
固定電話の受話器を握り締めていた私は、そっと受話器を置いた。
私は、震えていた。年が明けても労働組合の委員長は、私に連絡して来なかった。電話機を見つめながら、田沼の急な態度の変化に触れて、恐ろしくなっていた。とうとう私は、そこにへたり込んだ。私よりも、田沼の方が……、役者が一枚上手だった。
私は、子どもの頃に犬を飼っていた。ドーベルマンの雌犬で、家族に良くなついていた。しかし、いつの日か、雌犬は私を見下して、周りに誰もいない時は、唸り声を上げて威嚇するようになった。何度か、噛みつかれそうになった。
母親に告げて、様子を見てもらったが、他の家族がいると、犬はおとなしく従順に振舞った。犬の嗅覚や聴覚は、人間よりもはるかに優れている。母親に頼んで、物陰に隠れて見てもらうと、隠れた存在に気づくのか、その時だけ犬はおとなしく振舞った。
子どもの私には、犬のたくらみが分からなかった。人間よりも知能の劣る犬の行動に、二面性があるのが理解できなかった。今の私には、それが群居する動物の本能から来る――権勢症候群――であるのが理解できた。
――権勢症候群――は、犬が飼い主に対して、群れの中での自分の優位性を示す本能的な行動だ。子どもだった私は、犬を過剰に可愛がる反面、獣性を恐れてびくついていた。犬は、それを感じ取り、私に対しては支配的な立場で向き合うようになった。
学説がどうあれ――人間にも他人を支配し、意のままに操ろうとする権勢症候群があり、時折、弱者を屈従させるために、爪と牙の所在を露骨に見せつける――。私には、それが不気味に思えて仕方がなかった。
犬の価値基準では私の存在は、両親どころか、弟妹よりも劣位に置かれていた。――私は、過去の経験を想起し、田沼の応接ぶりに飼い犬のイメージを映し見ていた。それは、憎しみよりも、むしろ絶望から出てくる印象だった。
社宅から、徒歩で七分かかる診療所で診察してもらい、七日分の薬を処方された。昼食、夕食の後で薬を服用すると、熱は一日のうちに下がった。私は、診療所から帰ったあとは、自室に籠り映画のDVDを視聴した。体調が優れないのが原因で、複雑な事象を考えたくなかった。DVDは単純なコメディー映画だが、内容が頭に入って来ないので笑えなかった。
風邪による鼻水は続いていたが、熱が下がり、咳止めが効いていたので、翌日から通常の出社を続けた。田沼は、相変わらず私に気遣い、暴言どころか……、努力を評価し労いの言葉をかけてきた。私には、それまで――田沼のサディスティックな性分が、生来のものなので努力や工夫では改善できない不都合――と、見えていた。
私の想像に反して、田沼はサイコパスではなく、他人の情動が理解できる人間だった。田沼は、何か理由があって――気まぐれな鬼軍曹――を演じ続けていた。
私は、事態の改善が組合の委員長の尽力によるものと考えると、電話で確認した。
「特に、まだ問題としては申し立てていないのやけど、本社の常務に今回の件は話しておいた。常務は『田沼に確かめて、注意しておく』とは、言っていたわ。前にも言うたかなあ、常務も組合の委員長経験者や。職場環境にも、気を使ってくれる。ほんまに、ええ人や」
「色々と、力添えいただいてすみませんでしたねえ。ほんまに、有難うございます」
「それで、これからどうする? もっと、田沼を締め上げた方がええか?」
「いえ、最近の田沼さんはええ感じです。人が違うように思えて、気味が悪いぐらいですわ。しばらく様子見して、あかん……かったら、報告させてもらいたいのですけど……。どうです?」
「あはは、そりゃあ、良かった。ほな、その方向で行こうか?」
「よろしく、頼みます」
私の賃貸部での立場は、目に見えてよくなり、誰も妨害しなくなったのに伴い、営業成績も回復した。会議での意見も通りやすくなった。仕事が楽しくなったので、毎日が充実してきた。
仕事がはかどり、菖蒲との交際も順調に進んでいたものの、小説創作のアイディアを捻りだすのに時間がかかった。私は、日常よりも非日常に価値を置き、凡夫の煩悩よりも壮大な美的世界観を小説の中で描きたかった。
※
事務所で接客を終えて、空白の時間ができたときに、私の席に弓削部長が近づいてきて「少しだけ、話してもええか?」と、問いかけてきた。
「ええ、今なら大丈夫です」
「君には、少し、言いにくいけどな」
私は、弓削部長がいつになく意味深な言い回しを使うので、不安な気持ちになった。
弓削部長は、私の仕事ぶりを評価しつつも「賃貸部ではなく、販売部でこそ中岡の力量が発揮できるやろ」と、古巣の販売部への異動を告げた。
「近いうちに、辞令が出る予定やけど、中岡の考えを聞いておこう――と、思ったのでな」
「私は、異論はありません」
私は内心で戸惑いながらも、異論を唱えられなかった。企業の論理は、常に個人の都合よりも優先される――それに抗える立場ではなかった。
私は――配置転換で揺さぶりをかけ、会社のお荷物の私を体裁よく追い払おうとしている――と、分析した。
――いったい自分は、どんなしくじりの罪科を問われ、誰の勘気に触れたのか――と、想像してみたものの、分かりそうもなかった。
帰宅途中で、行きつけの居酒屋に沖田と二人で立ち寄った。居酒屋の入り口には、赤ちょうちんが灯り、透明な窓ガラス越しに中を見ると、仕事帰りに集まってきたと思しき客で賑わっていた。テーブル席では、他の客と相席になった。
腰かけて、しばらくすると注文した生ビールと、枝豆、冷やしトマト、大根サラダが木目の浮き出たテーブルに並べられた。
沖田は「弓削部長もあんまりやな。中岡を何にも分かっていない。そのうち、賃貸部は田沼さんの天下になるやろ」と落胆した。
「まあ、そんなものかも、知れないけどな。田沼さんの件は、俺も心残りや」
私の冴えない表情を見て、沖田は「若いうちは、トライに次ぐトライや。悩んでいる暇はないで……」と、冷やかしながら「今まで、毎日のように会えた菖蒲ちゃんと、休日しか会えなくなるな。かえって、それが新鮮やったりするかもな」と、案じてくれた。
「社宅には、残るから休みの日には会えるよ。また、酒でも飲みに行こうや。この店に来てもええし、お前が大阪に出て来るのも、ええやろ」
「そやな、そのときに……、俺の彼女をお前に紹介しとくわ。お前の彼女の菖蒲ちゃんに、負けてないからな。見たら、悔しがるかもな」
二杯目の生ビールを飲み干し、新たに注文をかけた、だし巻き玉子や鉄板餃子を口に運んだ。沖田は、次のオーダーを「何にするかな」と、首を傾げてメニューを指さし、考える素振りを見せた。
沖田の交際相手は、自社賃貸物件の入居者の娘だ。彼女の家族とも、早くから知り合いなので「結婚まで秒読みや」と、自慢した。
私は異動を受け入れて、本社勤務になった後も、菖蒲と交際し、同じ社宅に住み続け、沖田とも友人でいようと考えていた。
社宅では、休みの日の朝は掃除機で部屋の隅々まで塵や埃を取り、雑巾がけをし、マスクをして、書棚にはたきをかけた。キッチンやサニタリーも、スポンジに洗剤をつけて洗った。仕事をして、小説を執筆していると、多忙を理由にして、家事が些末な事に思えてきた。一人暮らしなので、汚れが酷くなりそうもなかったが、面倒になる日もあった。自分に言い訳を許すと、怠惰な生活が習慣化するのは自明に思えた。
私が部屋を綺麗にしようと思うのは――アパートの賃借人の酷い実態を知っていたのも一因だった。
引っ越し後の複数のアパートを見ると、棚には埃が積もり、部屋の隅に蜘蛛の巣が張り、壁には数えきれない画鋲の痕があった。さらに、トイレに尿石がこびり付いているのを確認し、愕然とした経験が何度もあった。部屋の住人が、美人であろうとインテリであろうと、そうした生活実態に触れて、何度も幻滅してきた。
※
賃貸部に配属されてからの毎日は、同期との間にある経験の遅れを取り戻すため、二日の休日のうち、一日を返上して事務所に出社したり、残業申請をせずに居残りしたりして、あらゆる資料に目を通した。そんな努力を横目に、一部の同僚は私を裏切り、陥れた。疲労が原因なのか……、肉体が、魂を閉じ込める呪縛のように思えた。 だが……、それももうすぐに終わる――私は徒労感よりも、むしろほっとしていた。
販売部の辞令を受け取り、私は目を疑った。「中岡慎吾様 不動産販売部・販売二課の課長を命じる」と印字されていた。私は、会社の期待が高い分だけ誇らしく思いつつも、不安感を伴う複雑な心境になった。
弓削部長は、別室に私を呼ぶと「長い間、ご苦労だったな」と肩を叩き、菖蒲にお茶を持って来させた。
「販売部に戻った後こそが、中岡が、本領を発揮できるのやと思う。同期の沖田は、インテリで仕事もできるけど、まだ係長やで……。そういう意味で、君は異例の出世やな。有難く、思わないとあかんな。君は俺たちの無理難題に応えて、よう努力してくれた。君の提案したノルマ制の導入以降の賃貸部の業績も大幅にアップした。俺も、感謝しているのや。どや、ええ会社やろ。努力しがいがあるわな」
「それは、どんな意味でしょうか? ノルマ制の件は、失策やと思っていました。私は、むしろ営業成績を落としています。ええとこなしですわ。それに、業績がアップしたのは、田沼課長のとこだけですわ」
「いや、賃貸部全体でみると、かなり業績は向上しているのや。君の見立ては正しかったわけや。そやけど、特定のがめつい者だけが得をするのは不公平や。俺も、そこは調べておいた。改善点はあるよ。ノルマ制やと、社員の収入にも影響するからな。俺も、もう少し、制度の見直しをしようと、思っている」
「すると、田沼課長の立場は、どうなるのでしょうか?」
「ああ、それはな……、田沼も……、営業成果を認めて、副部長に昇格している」
私は、弓削部長の反応を意外に思った。
弓削の話で、田沼陽次が親会社の副社長の次男坊なのが分かった。裕福な家庭に育った田沼だが、大学を中退していた。大学を卒業しなかったのが影響して、副社長の強力なコネを使っても、親会社には入社できなかった――と、弓削は真相を明かした。
「田沼は優秀な社員で、礼儀正しい男やった。五年前に奥さんが病死してから、一変したんや。妊娠中やった。自分への苛立ちと、周りに対する甘えがあいつをああいう男にしたのやと思う」弓削部長は、しみじみとした語調で話した。私にも、やっと田沼の我儘が容認されつつも、弓削部長からは冷ややかに見られている理由が理解できた。
私は、今まで頼りなく見えていた弓削部長の懐の深さとしたたかさに驚きを感じた。反面、実務能力以外の社内政治によるパワー・ゲームが、職場の地位を決定していくのを苦々しく思っていた。まさか、私が昇格するとは夢にも思っていなかった。社の内外で想定外の出来事はよくあったものの、大半は予想より悪く展開するケースだった。
※
異動を一週間後に控え、賃貸部で送別会を催してくれた。僅か一年間だけ賃貸部員として在籍していた私の送別会に参加してくれたのは、八名だけだった。不参加の社員は、やっかみからなのか言下に、出席するのを断った。昨年の歓送迎会の盛り上がりに比較して、侘しい催しとなった。逆に――八名の参加者は、本当の理解者たちだ――と思うと、心強く感じていた。
送別会は、事務所の近くの居酒屋で行われた。広いテーブルに、男女八名が腰かけ歓談した。私のための送別会の名目なので、参加した全員が、私のグラスが空くのを待って、溢れんばかりにビールを注いで、飲むように促した。
沖田は送別会の間中、職場の愚痴をこぼした。
菖蒲は酔いが回ると、近づいてきた。私は――何度目かのキスの後で、菖蒲の胸が触れているのを感じながらも、弱気のせいで気づかないふりをしてきた――のを思い出した。酒の酔いと、来週職場を去る寂寥感と、菖蒲の艶っぽいムードが合わさり、私の理性のダムは決壊した。
送別会が終わり、外に出ると、私はすっかり酔いが回り、周囲とはぐれて菖蒲と二人で歩き続けた。酔いの回った頭の中で、夜は衣服のすべてを脱ぎ捨て、艶めかしい裸体をさらけ出した。夜の闇は、くびれた腰つきを強調し、臀部のゆるやかな曲線を見せつけ、私を誘惑すると、泥酔の深みに落とし、底に沈めた。
私は、菖蒲の秘密をのぞき見し、隠微な空隙を吐息で満たし、心で埋め尽くしたくなっていた。二人は、都会の森の奥地で幼児のように迷子になり、気がつけば共に、ホテルのベッドの上で身を横たえていた。私にとっては、晴れて恋人になるための戴冠の儀式であり、節目でもあった。早鐘のような鼓動が、虚無の闇の中に広がり、快感を鷲掴みにした。
私の目には、菖蒲が歓喜に打ち震えているかに見えた。彼女のもたらしてくれた悦びの厳かな力で、私の全身は優しくしっとりと包み込まれていた。
私は、刺激的な時間が、二人の心臓を酷使していたのに気づくと菖蒲にも促して、束の間二人で部屋の天井を見つめた。二人で身体を休めながら――泥酔していても、冷静な態度で、避妊具を手順通りに装着し、菖蒲を傷つけまいと振舞っていた――自分を心のどこかで軽蔑していた。
部屋の鏡に映る私たちは、洋服を身にまとうと、先程までの淡い夢と痴態が入り混じった不可解な存在から、常識人に戻っていた。
あくる朝も、同じ心境だった。酔った勢いでホテルに誘った自分に嫌気がさし、しばらく気持ちが塞いでいた。菖蒲は、私を責めようとせず「いつか、こんな日が来るような気がしていた」と、ぎこちなく笑った。それが救いのように感じられた。
私は、振り子のごとく揺れ動く――肯定と否定、高揚感と自己嫌悪、甘美な喜びと含羞――の間で、複雑にして微妙な印象や、繊細で壊れやすい気分が、立ち現れては消えていくのを眺めながら、感情の起伏がもたらす、奇妙な余韻に浸っていた。
時間がたつにつれて、菖蒲の存在を身近に思うと、感動が私の内側から沸き起こっていた。身勝手な行動だったものの、菖蒲と正真正銘の恋人になれた事実が、素直な気持ちで嬉しくなっていた。
ホテルから外に出ると、尼崎の賃貸部の事務所にいつも通り、出勤するために先を急いだ。二人とも、昨日と同じ服装をしていた。私は菖蒲と同伴で出勤すると、二人の関係を怪しまれ、良からぬ風聞が流されるのを恐れていた。そこで、私が先を歩き、菖蒲は五分前後の時間を潰してから、事務所に向かう作戦を立てて実行した。
夜の間に雨が降ったのか、アスファルトの道路や歩道は水で濡れていた。近道の雨上がりの公園を通り抜けると、土の地面に水溜まりができていて、青空と白い雲を映していた。人通りの少ない公園のブランコは、雨滴をしたたらせていて、普段よりも幾分か重そうに見えた。樹木は水の恵みを受けて、輝きを取り戻し、湿気を帯びた風の匂いは清々しく、感じられた。
菖蒲が、私の犯した不純な行いを許してくれたお陰で……、目に見る世界がたった一日一夜の出来事で、変化して見えた。私は、菖蒲と一夜を過ごした体験以上に、彼女を身近に感じる幸福に酔いしれていた。
事務所に遅れて着いた菖蒲が、席に座った時はOLの制服に着替えていた。今まで菖蒲との交際が社内で噂にならなかったのは、沖田が私や菖蒲と昼食に同席して、悪目立ちするのを避けられていたお陰だ。その日は一日中、鈍感な男性社員よりも、OLたちの鋭い視線が気になっていた。
私は、一日の仕事を終えて帰宅すると、由比正子のイメージを膨らませて書き続けていた小説「麗しい女神」の原稿を取り出して、しばらく眺めた。何度も気に入らずに破り捨て、改稿して原稿は四百字詰めで三八枚まで書けていたが、ゴールが見えていなかった。原稿用紙を見ているうちに、衝動的に五枚を手に取り、ビリビリと破り捨てた。私の中に住んでいた小さな何者かが、壊れたような喪失感を味わった。残りの三三枚も同様に破り捨てた。とうとう――麗しい女神・由比正子――と、心の中で別れを告げた。
私は、原稿用紙に「夢想」と題して、新しい小説を書き始めた。具体的な構想のないままに書いたので、短編小説の中盤で行き詰った。――北国の田舎に農家の美しい少女が住んでいた。少女には、気難しい父親と、意地悪な継母と、病身の弟の三人の家族がいた。父親は、毎日愚痴ばかりこぼし……――と書き始め、最初は快調に文字を記していた。
プロットでは、少女が都会に出て、理想の男性と出会って結ばれるまでのストーリーだ。私は、それなりにストーリーが描けている――と考えていたが、意に反して、誰に見せても痛罵を浴びた。
小説を書いているうちに、少女のイメージに菖蒲が重なり、ところどころで仕草、表情、セリフが似てきた。私は、由比正子のイメージと決別し、菖蒲を心の中心に置くための儀式のように物語を進めていた。
小説「夢想」は「悲恋物語にすべきだ」「キャラクターの造形が酷く悪い」と、批難を受けた。今後の執筆で「衝撃的な出会い」や、「周囲の障害の克服」「難敵との対決」「主人公の葛藤」が描ければ、読者の好む物語になると、漠然とイメージしていたものの、周囲の評価は厳しく、「麗しい女神」にも及ばなかった。
物語の展開は、少女が頭に描いた――夢想――が、次々と現実化して戸惑いながらも、ハッピーエンドで終わる。私は、読者の目を意識して――念ずれば通じる――という教訓話にしていた。見直して見ると、ありきたりで拙劣なのに気づいた。小説のストーリー性にこだわりすぎて、深みが損なわれていた。
私は、小説家として一流になれるか、三流で終わるかは――自分の実力を客観視できるかどうか――という、メタ認知力にあると考えていた。私は、まだまだ力不足だった。
物語の主人公と菖蒲は、見た目や雰囲気、性格などに共通点があった。それ以外の生い立ちや、周辺環境はまったく違う。不自然さは、そこからも出ていた。
昼の日差しを浴びて、街路樹や外灯は斜めに長い影を伸ばしていた。私は、靴の裏で踏む影を数えながら歩いた。三五まで影の本数を数えたところで、横断歩道の赤信号の前で止まった。タイヤを軋ませながら、走り去るクルマに気を取られ、私は自分が始めた影の本数を数えるゲームを途中でやめた。
クルマを法定点検のために、カー・ディーラーに預けていたので、駅からは同人誌の仲間たちが集まる会場まで、歩いてたどり着いた。会合が始まる前に、編集長は「今回、皆さんに喜ばしい報告があります」と告げた。
報告とは――創作仲間の一人が、純文学系の出版社の選考を通過して、受賞が決定した――というものだ。受賞者は女子大生で、私よりも後で同人誌に参加していた。
赤いフレームの眼鏡をかけた不愛想で、ガリベンタイプで会話が理屈っぽく、面白みのない少女だ。まったく、ノー・マークだった。私は、先を越されたのに衝撃を受け、賛辞を贈る気分ではなかった。私には、女子大生がこれまで誌上で発表した小説のどれもが、退屈で凡庸な書き手にしか見えていなかった。
編集長は「基本に忠実な小説が評価されて、新人賞の基準に合致したのやろな」と、想像しながら、女子大生を見ると「皆さんで、拍手を贈りましょうや」と、明るい声で指図した。
私は、文壇の慣習はよく知らないが、プロ・デビューするのは容易ではないと、想像していた。
会場では、いつもの会合と同様に各自の創作への批評が交わされた。女子大生は、私の短編小説を話題にして「女性を理想化し過ぎていて、現実味があらへん。何の悩みもなく、戸惑いもしない女の子なんか、おらへんのよ。中岡さんの小説は、人物描写に難点があると思うわ。もっと、生々しく描かないと、評価するにもしようがないでしょ」と、酷評した。
私は女子大生を――若いのに生意気な女だな――と、思っていたが、文学賞のお墨付きとあって、言い返せなかった。女子大生は、プロ・デビューが確約されたのに、素人相手に容赦ない批判を浴びせかけた。
あろうことか、編集長はそういう展開を好み「ええよ、ええ調子や。それでこそ、会合をやる意味があるのや。喧嘩上等……、言葉と言葉のバトルや。よう聞いて、参考にしといてやあ」と喜んだ。還暦のベテランが、一八歳の大学生に遣り込められていても、編集長は宥めようとせず「批判を受けて、忌避せず、改善点を模索する行為が、文章家としての成長を促すのやで」と主張し、批判する側の味方をしていた。
「マイナス面を指摘するのではなくて、良い面を褒めてはどうですか?」私が問いかけても、まったく、首を縦に振らなかった。
「そんな生ぬるい方針では、皆レベルの低い小説しか書かなくなるやろ? そう思わないのか? どや、間違いや思うか? 俺は、思わないよ。意見を活発に戦わさないと、ここに集まる意味がないのや」
――編集長は、間違いなくサディストだ――と、私は考えていた。
高いプライドが居住まいを正させ、向上心につながるケースは美しいが、自身の成果を誇るあまり他人を見下して批判だけを差し向ける姿は、醜悪にしか見えない。高い知性の持ち主でも、自分を客観視できない人物は数多い。それは――メタ認知=自分を客観的にとらえる――心構えの難しさを感じさせた。
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