第5話

 私が、賃貸部に配属されてから半年が経過した。夏は引っ越しが少なく、一年の内では暇な時間の多い、閑散期にあたる。部内の田沼一派の嫌がらせで、周りが暇そうにしている時間でも、私は雑用を押し付けられていた。テレビの報道では――子どものいじめ問題――が、物議を醸し、評論家は改善策の必要性を声高に伝えていた。

 人は成長とともに、人格も高められる――と、私は思い込んでいたが、毎日の経験の中でそれが愚かしい妄想である事実に向き合っていた。――大人のいじめの方が、陰湿で悪質ではないか――と、確信しつつも、明言できないでいた。

 お盆休みは交代制だが、世間並みに五日間の連休がとれた。休みの間は、入院中の祖母の見舞いと、墓参りのために芦屋市の実家で過ごした。

 私の姿に気づくと、市民病院のベッドで祖母は身体を起こし「よう、来てくれたね」と喜んだ。祖母は、病状を案じる私の健康の方を気遣ってくれた。見舞いのカステラを手渡すと、お返しに「お小遣いをあげるわ」と告げて、ガサゴソと探し、私の手の中に折り畳んだ一万円札を押し込み、握らせた。

「お婆ちゃん、顔色も良いし、思ったより元気そうやな」

「もう、私は、先が長くないわ。歳を……思うたら、長生きした方やと思う」

 私は励ましたつもりだが、祖母は陰気になり弱音を吐いた。祖母は、祖父の葬式の日を思い出し「私の葬式は、あんなふうに盛大には、せんといてほしい」と声に出し、寂しそうに小刻みに頷いていた。

 人生の終局には、死が絶大な力で君臨している。それに、誰も抗って勝利できない。人類の長い歴史で、究極の勝利を遂げたものは存在しない。愉楽や笑いを遥かに超えたところで、運命に吊るされて、人は病の床で時間を過ごすのを強いられる。目の前にいて、療養を続ける祖母にしてもそうだった。

 実家の母は「お前の母方の先祖は、立派な大名やった。侍の負けじ魂が、慎吾にも宿っているのやで……。周りに負けたらあかんで」と、父に聞こえるようにあてこすった。父は製鉄企業としては国内最大手の社員で、総務部の部長だ。父は大学を出ていなかったが、私に比べると、よほど出世していた。

 三人兄妹の長男の私は、他の弟妹よりも期待されていて、努力した結果、小学生の頃から学業成績は優秀だった。それだけに、今の状況が悔しくて、胸の奥に痛みを感じた。少なくとも、子どもの頃は、スポーツでも人並み以上に出来たので、運動会でも活躍していたし、クラスでは小・中・高を通じて、学級委員を務めてきた。私は、陰湿ないじめの対象になった体験がなかった。

 祖母の見舞いの翌日に、両親を車に乗せて墓参りに出かけた。私は、キリスト教徒のように、今の周辺状況を煉獄に見立てて考えていた。天国に入るべき魂が、炎の力で浄化される世界である。一方で、実家は先祖代々、仏教徒なのでお盆には毎年、墓参りしていた。私は先祖の墓に花を供えて、手を合わせながら今の苦境が次の幸福につながるように念じた。

 神仏や、暗在系の神秘、生と死について――、私には謎を謎のままにしておける勇気が備わっていなかった。私は、信仰のような経験に求めるよりも、読書による知的理解によって、答えを求めてきた。経験には、年齢による時間的な限界があったが、読書ではそれをカバーする疑似体験に価値を見出せると考えていた。

 私は、会社勤めをしながらも、東西の哲学書を読み耽り、仏典、聖書、コーラン、古事記、日本書紀、マハーバーラタなどの聖典には、時間を見つけては目を通していた。それでいて、二五歳になった今も、目の前の現実に迷い続けていた。

 迷いの中に埋没しそうな時は、瞑想にふけるよりも街に出て、酒を飲むようになった。私は、ショット・バーに行き、一人で飲み、うすぼんやりとした意識の中で、脈絡もなく考え事をしているうちに、疲弊した神経を回復させた。

 一度、私が秘密の隠れ家のように思っていたバーに菖蒲を連れて行き、カウンター席に腰かけて、彼女の話に耳を傾けた。酒を飲み薄ぼんやりとした意識でいた方が、熱心に相槌を打ち、菖蒲の話を聞けた。「気持ちは分かるわ」「そうやなあ」「ほんまに、菖蒲ちゃんらしい」「ええ話を……、聞かせてもらったわ」と、肯定的に頷き、相槌を重ねているうちに、菖蒲の表情も晴れやかになっていた。今まで私の聖域は、ショット・バーだったが、菖蒲の存在がそれに勝る者になるのを感じた。

 私がほろ酔い気分になり、趣味で小説を書き続けているのを伝えると、菖蒲は

「慎吾君って、やっぱり他の人とは違うわ。応援するから、頑張ってね。本になったら読みたいね」と、目を輝かせた。

「趣味やし……、菖蒲ちゃんが思ってくれるほど、実力なんかないよ」

「あの……、イギリスの小説家で、アイリス・マードックという人やけど……、慎吾君は知っている?」

「いや、知らんわ……、どんな小説書いているの?」

「女の作家さんやけど、すごく哲学的で迫力があるのよ。代表作は、映画化もされた『アイリス』やけど、『海よ、海』も良かったわ。すごく、思索が深いのよ」

「ふーん。今度、俺も読んでみるよ」

「マードックは上辺だけではなくて……、女性の性的な問題も鋭く深く、辛辣に描いているの」

「随分、詳しいね」

 私は、菖蒲の話に感心しつつも、反面、自分の知らない話を続ける彼女を黙らせたくなった。

「菖蒲ちゃんは、瞑想体験って、あるか?」

「うーん、どうかな? どういうのが……、瞑想なのやろ? 思いつかないわ」

「ジョセフ・マーフィーという牧師さんが、心に強く思い描いたビジョンは、必ず実現するってな。本の中で言うているのや……。俺も、半信半疑やけど、かれこれ五年ぐらいは豪邸に住んで、美女たちに囲まれて、美味しいお酒を飲んでいるシーンを思い浮かべているねん」

「それやったら、全然叶ってないし、効き目なしやね。本に書いてあるのも、期待できないのと違うのかな」

「まあ、ちょっと聞いてくれるか?」

「……」

「とりあえず、やけど……、目を閉じてみてくれ」

 菖蒲は、私の指示に従って目を閉じた。

「ゆったりと、息を……大きく、深く吸って……、はい、長く吐いて」

 菖蒲は、突然目を開きクスクスと笑い出した。

「笑わないで、もう一回やりなおしや。いいかな? 息を大きく深く吸って……、息を止めて、長く息を吐いて、また、息を吸って、お腹を膨らませて……。今度は、ゆっくりと息をすべて吐き出して。慣れてきたら、呼吸のリズムに合わせて」

「…………」

「菖蒲ちゃんは、今、南の島の海岸にいて、寝そべりながら燦燦と降り注ぐ、太陽の日差しを浴びています。エメラルド・ブルーの海は、美しくきらめいています。優しい風が、頬をくすぐり、遠くでカモメの鳴く声も聞こえています。寄せては返す、波の音に誘われて、うっとりとした最高の気分です」

 私が朗読者のように、瞑想の世界に誘導すると、菖蒲は

「慎吾君の独特の話し方というか……、光景を思い浮かべさせるのがうまいよね。標準語で話せるとは知らなかったわ」と、笑いながら目を開けようとした。

「まだ、目を閉じといてや……。これからが、ええところや。薄眼を開けてもあかんよ」

「はい、はい」菖蒲は楽しそうに、ギュッと目を閉じた。

「菖蒲ちゃん、あなたは、今、肩の力を抜いて、ゆったりと、ゆったりと、くつろいでいるのを感じています。日の光を瞼の裏に感じ、砂浜から肌に伝わる温もりも心地よく、幸せな気分に満たされています」

「…………」

「さあ……、あなたの隣には、理想の恋人が寝そべり見守ってくれています。とても、幸せな気持ちに包まれています。あなたには、寄せては返す波の音がますます心地よく感じられてきました。あなたが目を閉じていると……、素敵な恋人は、あなたの唇を……」と、言い終わるより早く、私は菖蒲の唇に自分の唇を重ねて「チュッ」と、舌で音を立てた。

 ショット・バーには、店員も他の客もいたが、彼らの多くは、私や菖蒲の存在に注目していなかった。一方で近くにいる客は、面白そうに私たちの成り行きを眺めていた。私が菖蒲に口づけるのを見て、男性客の一人が「うおっ」と、短く歓声を上げた。周りに人がいるところで、菖蒲とキスを交わしたのは初めての経験だった。

 菖蒲は目を閉じると、私の右肩に頭をのせて「動かんといてね」と言葉にして、しばらくじっとしていた。私は手持ち無沙汰になり、目の前の水割りのグラスを左手に持ち替えて、身体を揺さぶらないようにそっと、自分の口に運んだ。

 私は――人気アイドルが好きで、テレビ・ドラマの会話が好きな菖蒲――の意外な一面を見た気がした。――人は他人の外貌を見て、内心の思惑や性質を理解した気になっているが、本質はもっと深いところにある――という事実に、私は真っ直ぐな視線を向けていなかったのに気づいた。

 帰宅後の一時間、菖蒲に連絡してスマホで陣取り合戦のゲームにつき合わせるようになった。いつも、私の優勢は揺るがなかったが、菖蒲はゲームにつき合ってくれた。ほぼ、毎日顔を合わせているので、電話での会話は、職場の情報交換だけではなく、芸能人のゴシップや時事問題になっていた。ゲームは、つき合いのマンネリ化を防ぐために、私が提案した。

 由比正子への憧れが希薄になるにつれて、俗物志向だと――軽侮の念――を抱いていた菖蒲への愛着が強くなり、常に繋がっていたい――と、熱望する気持ちが増していた。

 私は、周囲への不満を抱えながらも職務には精勤した。

       ※

 秋になり、社員旅行が催された。私は田沼と距離を置きたいながら、沖田や菖蒲と行動を共にした。今年は、伊勢志摩一泊二日の旅行となった。

 沖田は「弓削部長が新入社員の頃は、ちょうどバブル経済の只中で、毎年のようにハワイやオーストラリア、シンガポールと……、海外旅行していたそうや」と、呆れていた。私や沖田が入社した一年目は、姫路セントラルパーク、二年目は甲山森林公園への日帰り旅行なので、今年は僅かにグレード・アップしていた。

 伊勢神宮内宮神苑のヤマモミジやカエデの紅葉は、見ごろを迎えていて、目も綾な色合いで行楽客の心を奪っていた。観光ガイドの説明では、伊勢神宮は「外宮から参拝し、内宮に回るのが古来より続く、習わしとなっています」と聞き、世話役の庶務部長は、慌てて内宮から外宮にバスを回すように、すべてのバスの運転手たちに指示した。

 外宮では外苑で、六月ごろに花菖蒲(はなしょうぶ)を鑑賞できる。季節外れなので、美しい花を見るのは不可能だった。私は「外苑で、菖蒲の花を見たかった」と告げると、横にいた菖蒲は「いつでも、見られるでしょ」と小声で話しながら、何故か目を伏せて赤面していた。

「そうやね。六月に君とここに来て、花菖蒲を見たいね」

 菖蒲は「えっ」と、明るい表情で大きく目を見開いた。

 私は来年の六月の時点でも、菖蒲と交際していて、約束通りこの場所で艶やかな花を鑑賞している光景を思い描いた。

 水族館では、セイウチ、ゴマフアザラシ、ペンギンなどの海に生息する動物の様子を目の前で観察した。海の動物たちは、餌をもらって飼育係の指示通りに動いて見せる……仕草が愛くるしく見えたものの――人間は自分で創意工夫できないと、動物とあまり変わらない――と感じ、現状に結び付けて、少しだけ感傷的な気分になった。

 菖蒲は、動物たちの仕草を見て「可愛い」と、甲高い声を出した。同じタイミングで、あちらこちらから、家族連れの親子の歓声が聞こえた。

 私は、児童文学者のロフティングが描く――ドリトル先生シリーズ――の物語と同様に、「動物語」が話せれば、動物たちの心境を理解できそうな――楽しげなムードを十分には堪能できなかった。

 ホテルでは、沖田と同室になった。夜になり、部屋でテレビを見ていると、沖田は「江戸時代には、お陰詣でといってな。集団参詣していた……。関西からも五日かけて、伊勢神宮に来て、参詣していたのや。俺たちと、一緒やな」と、話しかけてきた。

「随分詳しいな。五日もかけて参詣する場所に、一泊二日の旅行ができる現代は、素晴らしいね」

 私は――昔と違って、今は短時間で旅行できる事実から、言葉の連想を膨らませて、賃貸物件の案内時に口にする――この物件は、交通至便な好立地です――という、ステレオタイプな文言を思いだしていた。イメージをさらに膨らませて、いずれは――交通至便な好立地の閑静な住宅で、菖蒲と二人で暮らしたい――と、考え始めていた。

「ネタ元は、これやけどな」沖田は手にした観光ガイドを見せて、笑いながら頷いた。

「ところで……、菖蒲ちゃんとは、うまく行っているか?」

「まあな、会社では、イチャイチャできないから、お前には、様子見て分からないよな」

 私は、沖田と同室になり、初めて他人に由比正子に憧れていた気持ちを打ち明けた。沖田は、冷笑しながら「このぅ、変態がぁ」と、声に出すと拳でズンと突いてきた。

「菖蒲ちゃんという恋人がいながら、なんであんな女が良く見えるのやろ。俺には、理解できる話と、ちゃうわ」と、大きな声で茶化した。

 沖田は「男は、女の美貌を充実した内面から出ているものやと錯覚しやすいし、女は、男の気遣いを計算からやなく、愛情によるものやと勘違いしやすいものや」と、心理学的に分析した。さらに「思い違いが、恋の始まりや」と主張しつつも「お前も、俺も……、そういう点では、見る目があるよな」と、同調を求めた。

「お前の彼女の顔は見てないし、知らんから、どうとも言えないけど……。そうかも、知れないな」

「いや、俺の見る目に、間違いはないのや」

「お前に、女の気持ちまで分かるか?」

「性差心理学やジェンダー学……、知っているか? 俺は、ちゃんと勉強しているよ。そやから、分かるのや」

「そんなものなのかねえ」

「ああ、そんなものや。菖蒲ちゃんはええ子や。泣かせたら、あかんぞ」

「へえ、へえ……、分かりました」

 沖田はインテリらしく、直情径行ではなく、何事も論理的に考える性分だ。自己主張は強くないが、論争になると、私の方が劣勢に立たされた。

 二人は、スプリングの効いたベッドに腰かけて会話を続けた。

 食事の時に大広間でビールを何本も空にしたが、部屋の中でも二人で缶ビールを飲んだ。ビールは、甘くほろ苦く喉を潤した。

 翌日、沖田に頼み「夫婦岩」の前で、菖蒲と並んで写真撮影してもらった。私は、夫婦岩が二見興玉神社の神石で、縁結びのシンボルなのは知っていた。沖田の前で、菖蒲と並んで撮影してもらう時に、彼女と肩や腰が触れたので、今更ながらだが……、鼓動が早く脈打つのを感じて戸惑った。

 伊勢志摩観光の最後は、ミキモト真珠島で海女さんが――あこや貝――を採取する実演ショーを見学した。白い磯着姿の海女さんがゴーグルをつけて素潜りして貝を採ると、観客に向かって見せた後で、海面に浮かべた木桶に入れていく。現在、真珠の養殖技術の向上で、実務レベルでは、海女によるあこや貝の採取は行われていなかった。私の見た海女さんたちの実演は、観光客向けのショーだった。

 ショーは、素潜りで真珠を採取していた当時を偲ばせ、海女さんたちは、伸び伸びと演じ切っていた。

「働く女性は、綺麗やなあ。初めてそう思った」と沖田がつぶやくと、菖蒲も

「そやねえ。そう思うわ」と、私を見て反応を待っていた。

「どうかなあ。海女さんたちは、元気そうに見えるけど……」

 私は、海女が美しいかどうかではなく、溌溂としていて明るく振舞う姿に感心していた。

 海女のような潜水漁業は、古くから行われているが……、私は――減圧症による健康被害で、海女が様々な症状を起こすの――を知識として、記憶していた。

「実演ショーと同じように、素潜りで真珠を採取していたころは、頭痛や筋肉痛、耳鳴りに悩まされる海女さんが大勢いたのやて……」

「ほんまに、大変な仕事やと思う。私らの仕事の方がよっぽど、楽かもしれへんね」

「けど……、綺麗なものは……、綺麗やろ?」

「実演ショーの海女さんは、お前の言うように皆、美人やなあ」

「結局のところ、男の人が思うのは……、そこなの?」

 菖蒲は、私が人の外貌を見て判断しているのを不愉快そうに詰った。

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