第4話
私は、身も心も疲弊していた。田沼という、一人の男の傍若無人な振る舞いが、私の生活を蝕んでいた。それが原因で、月に一度の文芸同人誌の会合に出席しても、考え事をしてうまく周囲に合わせられなかった。
もはや、仕事上の実力を証明できなくなった今は、自分が情けない存在になっていくのが感じられた。私は、菖蒲が自分と一緒にいると、楽しそうにしているのを嬉しく思っていた。そこで、彼女が喜ぶようなデート・プランを立て、会話にも工夫をした。反面、心のどこかでは、恋愛の本質は二人のエゴがぶつかり合い、自分のために相手を犠牲にしつつ、嘘で誤魔化しあう営為のような気がしていた。私は、何よりも恋愛の破局による――、孤独を恐れていた。
社会経験を小説家になるための土台にしようと考えていた私が、典型的なサラリーマンとして悩み、小説の創作は時間潰しの余技になっている――日常の気苦労が原因で、創作姿勢への疑問をたいして強くは、感じなくなっていた。
水曜日の朝、目を覚ましたのは正午を過ぎたころだった。水曜と木曜が休みなので、目覚まし時計をセットしていなかった。部屋の掛け時計が二時を過ぎ、三時を過ぎても私は外に出る気がしなかった。
冷蔵庫にあるサンドイッチを取り出し、コップにインスタント・コーヒーを淹れてかき混ぜていると、スマホの着信音が聞こえた。菖蒲からのメールで「明日は、予定通り……。楽しみにしている」と通知があった。昼食をすませると、ベランダに出て外を眺めた。
私が町の遠景を静かに見ていると、シジュウカラが飛んできて、ベランダの物干し竿の上にとまり、嘴を上下に動かし「ピイピ、ピイピッ」と、鳴き声を聞かせてくれた。シジュウカラは、私の存在に気づくと、元気よく飛び去って行った。飛び立つとき、腹に黒いネクタイ状のラインが見えたので、オスのシジュウカラだと分かった。私はシジュウカラが、どんなパートナーと出くわして、つがいを形成するのか――と、漠然と想像した。
あくる日、菖蒲と木曜日の休みが同じなので神戸の布引にあるハーブ園にでかけた。菖蒲の住んでいる西宮市の住宅街に迎えに行くと、彼女はすでに家の前に立って待っていた。菖蒲は地元の中高一貫の女子校を出て、大学も私立の女子大を卒業し、私の一年後で同じ会社に就職し、最初から賃貸部に配属されていた。
菖蒲の住む香櫨園は、周辺では高級住宅地として知られる――西宮七園――の一つで、閑静な住宅街を形成している。菖蒲は、住宅街の一角の大きな門構えの家に家族と一緒に住んでいた。私は菖蒲の様子を見て、勝手に一人っ子だと思い込んでいたが、彼女には私と同い年の兄がいた。
私は三人兄妹で、一つ年下の妹と、五歳違いの弟がいた。自分が心のどこかで、妹と菖蒲を比較していたので、漠然と――比較されると、嫌だな――と思った。
私は、午前一〇時に西宮を出て、神戸市に向かってクルマを走らせた。
「お兄ちゃんとは、子どもの頃によく公園の砂場で遊んだの。おままごとでは、私がお母さん役で、お兄ちゃんがお父さん役。人形を子どもに見立てて、両親の真似をしていた」
「へえ、そうなのや。俺は妹と、そんな遊びはした経験がないな。うちより仲が良かったのやね。そういう意味では、羨ましいよな」
「……」
「菖蒲ちゃんが子どもに、楽しかった経験で、心に残るものってなんやろ? この間、グァム島旅行の話は面白かったけど……、もっと日常的な出来事で記憶に残っているのってなんかない? 俺は、小学生の時に友だちよりも先に逆上がりできたのが、一番嬉しかったなあ」
私は、菖蒲を少しでも多く理解しておきたいと思った。
「そやねえ……、家族で旅行もしたし、外で食事もしたし、誕生日にプレゼントももらったけど、懐かしく思い出すのは、小学校の給食のカレーライスかな……。今でも、あの匂いと味を思い出すぐらいなのやで……。給食当番の時に、隣の男子生徒がおたまを乱暴に扱ったので、私のエプロンにカレーの染みがついてね。それで、家に帰ってお母さんに叱られた。嫌やったけど、今では懐かしいし、ええ思い出やわ」
「カレーの染みは、ええ思い出とは、違うやろ」
「私にとっては、それもええ思い出なの。給食のカレーの味と匂い……思い出せない? それと、エプロン姿の給食当番のイメージとか?」
「ほんまに、そやな。ええ、思い出やなあ。俺も、菖蒲ちゃんの隣で大鍋から器に、カレーを盛り付けたりしたかったなあ」
「図書館に漂う本の匂いや、運動靴の靴底で感じる床材の感触も思い出す。秋になると、肌寒い中で校庭の金木犀の香りが漂ってくる。思い出って、宝箱に似ているよね。箱を開けると、ようさん出てくるね」
「思い出ってなあ。嫌な出来事でも、後になると――よう頑張ったなあ。あれは、あれでよかったなあ――と、考えるようになる。徐々に、形を変化させるやろ? それはそれで、ええと俺は思う。菖蒲ちゃんと、同じ環境で育って、一緒に経験したかったわ」
「そうなると、同僚でも、友達でも、恋人でもなく、兄妹と同じにならへん?」
菖蒲は、首を傾げた後で笑った。
「まあ、そりゃあそうやね」
クルマに乗ってしばらくは、二人の会話は弾み、楽しい時間を過ごせた。
しかし、移動中のクルマの中でも、植物園に着いてからも、私は――午後五時の女――の姿かたちが思い浮かび、たびたび頭の中を占領した。私の意中の人物は菖蒲ではなく、あの女のように思えた。二人の会話が空回りし、菖蒲の問いかけに生返事を繰り返した。
標高400メートルのハーブ園には、ロープウェイに乗り一〇分で到着した。眼下に神戸市の眺望が南に向かって広がり、ビル群の先に港が見えた。園内は広々としており、香り立つハーブや、色とりどりの花々を見て回った。
香りの庭園では、風に乗って爽やかな花の芳香が鼻腔をくすぐった。ミント・ガーデンは、清涼感のあるメントールの香りが心地よく感じられた。心のどこか奥の方で、菖蒲と二人でいる時間は、風にも匂いがあり色があるのに気づいていた。
園内にあるレストランでは、二人ともハンバーガーを頬張り、味わい深いハーブ・ティーを飲んだ。菖蒲は、植物に囲まれて楽しそうにしていたが、浮かない顔の私を案じて問いかけてきた。
「仕事はうまく行っているの?」
「今までと、何も変わらない。別に気にしなくても、ええよ」
私は、素っ気なく応答した。菖蒲は、さらに問いかけた。
「何か、心配事とかないの?」
「特には、思い当たらないけど、なんで?」
私は、菖蒲に本心を隠し、あの――午後五時の女――に対する思いだけは悟られまいとした。
「何か考え事している様子に、見えるの……やけど、大丈夫?」
「気ぃ遣ってもらって、ありがとう。嬉しいわ」
「田沼さんが気がかりやったら、誰にでもあんな感じの人やから……。気にしないでも、ええと思う」
他愛ないやりとりが続いていたところ、菖蒲は「事務所の近くに住んでいる人で、夕方になると姿を現す……、変な女の人の様子、慎吾君は知っている?」と質問すると、面白そうに笑った。
私は、見透かされた気分になり、内心うろたえていた。
「あの女の人、頭がおかしいのよ……。気の毒やわ」
「それは、誰に……、聞いた?」私は、咎めるような口調で尋ねた。
「皆、言っているよ。可哀そうやけど、ああはなりたくなって……」
残酷な言葉が、菖蒲の小さくて可愛らしい唇が動くたびに出てくるのを信じがたい気持ちで、私は呆然と眺めていた。
私の気のない素振りを菖蒲は、不愉快な気分で見ている気がした。ロープウェイで下山する前に、ショップに立ち寄り、菖蒲のご機嫌をとるつもりで、彼女にはコスメ・グッズ、家族用にクッキーをプレゼントした。
私は、菖蒲を失いたくはなかった。帰宅後、すぐに電話すると「今日は、少し疲れていて、君の話を聞いてあげられなかったのやけど……、ほんまに、ごめんな」と、ひたすらに謝った。つき合いが浅いうちは――些細な配慮のなさが原因で、恋愛関係は崩壊する――私は、そういう展開を恐れていた。
※
午後五時の女は、険しい表情で道行く人に呼び掛けていた。「まもなく、キリストが来臨する。罪を清め、悔い改めよ。自らを省みるが良い」私は、マタイの福音書の中のキリストの言葉として――時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい――と、記述されているのを思い出した。まるで、聖書に描かれた洗礼者ヨハネが、ヨルダン川河畔で人々に呼び掛ける姿に似ていた。
私には、女性の胸の内では――神の国は、人の心が作りだした幻想の王国ではなく、一般人の信仰によるものより、かなりの強い確信があって語られている――と、想像できた。
女性は、虚ろな目で「女を見ろ、太陽の衣に身を包み、月の地面を踏み、星の帽子を被るのだ。三人の天使たちが姿を現すだろう」と、声を大きくした。
私は大学時代、新約・旧約の聖書を読んでいた。宗教画にも魅力を感じて、いくつかの絵画にも触れていた。女性の言葉の意味する深いところまでは分からないが、聖書を引用しているのは理解できた。女性は、何か必死で人類の危難を告げていた。私が……、女性の方に近づき正面にたどり着き、見上げると微かに口元が悪戯っぽく笑っているのが分かった。
私にはうかがい知れない、幻覚と妄想の檻の中に捕らえられて、異質な世界の住人として、女性は立っていた。私はそこに立ち止まり、様子を見続けた。女性は威厳あるもののように「いつか、滅亡の時が来る」と告げると、姿を消していた。
この頃になると、私も女性が何らかの精神病質を患っているのを確信した。それでも、美麗で神秘的な雰囲気は消え失せず、私の想像を掻き立てた。女性の神秘的で妖艶な魅力は、私の理解の範囲を超越したところから来ていた。それは、ロートレ・アモンの詩集「マルドロールの歌」に描かれた――解剖台の上におけるミシンと蝙蝠傘の偶然の邂逅のような美しさ――と、言い換えても良かった。
田沼は、十字路の前を午後五時過ぎに通りかかり、あの女性から痛罵を浴びていた。「あのくそ女、俺の顔を見るなり『終わりの時が、近づいた。悔い改めよ』と、叫びやがった。腹の立つ女やで……」と思い出して憤りを言葉にした。
田沼の取り巻きのOLは「陽次さんのおっしゃる意味は、よく分かります。あんな女には、私だって声をかけられたくはありません」と、首を少しだけ曲げて、いやらしく微笑んで見せた。田沼は直情的なので、自分に媚びへつらう者には上機嫌で接した。私は、露骨な媚態を不快に思い、あざとい人間関係の織り成す不都合を……、理解不能な奇異な物事を見るように、眺め続けていた。
沖田は、様子を見て吹き出しそうな表情をした。私も、田沼から顔をそむけて笑うしかなかった。沖田は、私に――午後五時の女について「あの女には、人を見る目があるぞ」と、ささやいた。
私は、ある種の狂気は人の本質を鋭く洞察できるのではないか――と、具体的な根拠もなく、頭の中で想像を巡らせた。
女性の名前は、表札を見て「由比正子」というのが判明した。氏名が分かると、生身の人間であるのがリアリティーを持ち始めた。私は、由比正子の生活ぶりに複数の疑問を感じた。――どこで何を買い、どんなものを食べているのか、料理は通常の手順でしているのか、テレビ番組は見ているのか――、家の中の様子が分からなかった。
そもそも、いつも在宅している女性の収入源が謎に包まれて見えた。
地区の民生委員は、由比正子の症状が悪化して地域住民とトラブルを起こさないか案じていた。
「由比さんのご家族を探しています。ご家族の承諾を得てから、精神病院に入院をしてもらうつもりです。トラブルが怖い。火の不始末でも起こされたら、迷惑どころの話では収まらない」
私が、午後六時に由比正子の家の前を通りかかると、ドアが開かれていたので中を覗き込んだ。家の中には、由比さんがいて私と目が合った。私の予想よりも、中の様子は病的なまでに綺麗に片づけられており、整然としていた。由比さんの目の奥がキラリと光ると、私に向かって手招きした。
由比正子の目は、私を見ているようで何か別のものに魅力を感じているかに思えた。秋波を送る意図などなく、ただ単に、呼び寄せたくなったのか――と、推察した。それでいて、私の目には、由比さんの表情が今まで見なかった蠱惑的なものに見えた。私の中で、性的なムードの俗っぽさとは、異質な次元の由比正子の神秘性が……崩れ去った。
由比正子の家の中には、部屋干しの洗濯物がぶら下げられており、女性用の下着もあった。私は、西洋画の中で物思いにふける女のような美しさに憧れていたが、現実の生々しさに触れて、残酷なまでに幻滅した。
憧憬は私の心の中で、午後五時の女・由比正子以外の存在をすべて色褪せて見せていた。それが、幻想に過ぎないという――、事実を目にしたのである。
私は帰宅前に、尼崎中央商店街を一番街から出屋敷方面に向かって、目的もなく歩きながら考えた。途中、何人ものサラリーマンやOLとすれ違った。皆、アーケードの下を無表情で黙々と、足早に歩いていた。
理想化している相手のイメージは、時間とともに変質していくものなのか――幻滅する直前では、私の由比正子への憧憬の最中央部にある思いは、絵画に描かれた女の美しさでも、神秘性でもなく、懐かしさから来ていた気がした。由比正子は、幼いころに影響を受けた誰かに似ていた。今でも夢の遠い記憶の中に、美しく気高い女性が出て来たが、目覚めると同時にリアルな姿かたちが分からなくなった。
子どもの頃に好きだったものが、一生の思い出として残るように、観念ではなく、感覚として由比正子に似た幻影が、好ましい郷愁に形を変化させて、私の心の奥深くに住みついていたのではないか――と思う。
夢の中の謎の人物が……、近所に住んでいた上品な女性なのか――、幼稚園の教諭なのか――、私が三歳のときに病死した曾祖母なのか――、それらを総合したイメージなのか――、判然とはしないが、私は由比正子に重ね合わせて見ていた。しかし、――午後五時の女――由比正子の日常を垣間見たので、私の中の偶像は粉々に破壊されていた。
他人を理想化した挙句に幻滅する――驕り高ぶる気持ちの中には、独善的な思惑しか存在していなかった。私は自分の思い描くファンタジーに、いつまでも陶然としていられる者の……、無垢と鈍感が羨ましくなった。それに比べれば、私の憧憬の念は偽物でしかなかった。
私の由比正子への思いは、恋愛関係の官能美を予感したものではなく、――絵を描かない画家、料理を作らないシェフ――の夢の中の出来事と同じだった。それは、どこか幼児の描く、現実味のない空想に似ていた。
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